カベナント・ケンブリッジ 日本人教会

韓国ソウル市冠岳区、冠岳警察署バス停前ケンブリッジハウス2F

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「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養って下さるのです。あなた方は、鳥よりももっとすぐれたものではありませんか」(マタイ6:26)。

イエス様は、「天の父は造られた動物が生きることができるように、養っておられる」と教えらたれた。また、「動物より優れた人間が生きることが出きるように、なおのこと、神は生かしてくださる」といわれた。

鳥や動物の生態を見ると実に興味深い。動物園にいる動物は別にして、野生の動物は、生きることができるように、毎日食べ物を求めて活動をする。そして、また、彼らは食べ物を得るように、いろいろな技術と機能をもっている。こうして、神は、彼らに食べ物を与えて、養っていてくださるのである。

第一に、神は、彼らの食べる食べ物を備えている。鳥には、鳥の餌である虫や木の実を作られた。

第二に、神は、鳥が飛び回って餌を探して食べることができるように、不思議な能力を与えている。空を飛び回ることができる羽、鋭い視力を持った目である。これで餌を見つけ、鋭いつめで捕まえる。これらの能力により餌をとるステムがある。

神が与えた固有の能力と方法により、空の鳥は、種を蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めることもなく、養われている。

人間の場合はどうか。人間も、神は人間固有の方法で養われている。 神はエリヤには、一時的に鳥がパンと肉を運んできてその食べ物で養われた(I王17:6)。また、貧しいやもめには、「かめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」(I王17:14)奇跡により養われた。これらの奇跡は、継続して生じなかった。それゆえ、人はこのような奇跡的方法を自分の通常の生活手段としてはならない。

通常、神が人を養われる方法は、種を蒔き、刈り取り、倉に納めることをさせる労働である。その労働システムは、神が人間を創ったときから決まっていた。創造したアダムに対して言われた。「神である主は、人をとり、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた」(創世記2:15)。神は、人間が、耕作という労働により食物を作って食べるように定めた。

それゆえ、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などといって心配するのをやめなさい」(マタイ7:31)という言葉を、人が労働も耕作もせずに食べ物を得られる、という意味に理解してはならない。「心配してはならない」、ということである。「労苦はその日その日に十分あります」というように、心配しないで、労働という労苦をしなさいということなのである。それゆえ、人間は、鳥のように食べ物を探し回って見つける心配をする必要は無い。労働があるからである。

それで、十戒でも、「6日間働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない
」(出エジプト20:9)といい、また「働きたくないものは食べてはならない」(Iテサロニケ2:10)ともいう。すなわち、労働を命じ、労働を推奨している。

クリスチャンにつていえば、信仰とは、労働に対して否定したり、消極的態度でのぞむのではなく、肯定的、積極的に見るのである。病気で労働ができない人、年をとって体が動かない人、失職中などは別に、労働ができる状態、労働があるのにせずに「神が養ってくださる」と仕事をしようとしないのは、御言葉の誤用である。

神が動物や鳥をどうして養っているかを、学ばなければならない。神が養って下さる方法を知らねばならない。鳥は、何もしないで口を天に向けて待っているのではない。そんな、動物は知らない。神の養いのシステムとは、餌を探し、捕える責任である。同様に、神は人に、養いのシステムを与えている。それは、手、足、能力を使って労働することで食物をえることである。それゆえに、人は、「鳥よりももっと優れたもの」(6:26)と言われる。

ここでイエスが教えるのは、心配せず、労働することで養いを得よということである。むしろ、通常の場合は、人間に求められ、人間に与えられた労働を果たして生活すべきなのである。子供が親を養うこと、社会保障などの福祉活動、人の自発的プレゼント、教会の献金以外は、各自が労働により生活手段を得るのが聖書の教えである。

牧師であるパウロが自分の例から説明している。「人のパンをただで食べることもしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました」(Iテサロニケ2:8)。また、「私は、人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。この両手は、私の必要のためにも、私と共にいる人たちのためにも働いてきました」(使徒20:33−34)。福音の働きにたいする報酬は当然の権利である。しかし、パウロは自分の方からはその報酬を要求しなかった。

では、どうしたか。教会が成長し十分な献金がささげられた状態では、「働き人が報酬を受けるのは、当然である」(Iテモテ5:18)。しかし、教会が幼い時や力が無い時は、パウロは仕事した。天から、お金が落ちてくるエリヤの奇跡を求めるのは、神の教えに対する正しい態度ではない。それで、彼は、コリントにいたとき天幕作りの仕事をし、自給伝道をした。

ただ注意すべきは、このパウロの例から、教会が、牧師の犠牲と忍耐をよい事に、怠惰のために、伝道者をささえる義務を怠ってはいけないことである。教会の伝道者を支える原則は当然の義務である。パウロが一時的に働いたというのは、臨時の特例なのである。

近頃、ニートと呼ばれる働かない青年が沢山いる。神が与えた責任を果たさないのである。こういう場合、小さい仕事からはじめ、労働の価値、労働の喜びを味わい、次に大きな仕事ができるように導くことが解決策になろう。

それゆ、仕事ができる健康と意欲が与えられるように祈ろう。
仕事によって生活が支えられる社会となるように祈ろう。
家族を養えるだけの必要が与えられる労働のために祈ろう。

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