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パロの前に出たモーセ 出エジプト5章
先週、日本でオウム真理教の首謀者たちの死刑が執行された。この集団の特徴は、東大を始め有名な大学を卒業した人々が幹部になって、一般の人々をサリンという猛毒で殺害したことであった。
日本では、学生のころは東京にでて家から離れて自由になる。それまでは、両親や家の信仰と言う環境のなかで縛られていたが、いきなり信仰的な空白になった。人間には信仰の領域を満たすために、オウム真理教などの新新宗教が入ってくる。彼らは、宗教団体とは見えない方法で勧誘し、超能力を身につけるという修練を行う。統一協会も、大学生を対象に伝道をすすめ、会員にする例も沢山有る。そのような、新宗教にはいる若い方が多いと言うのも、日本の社会の特徴である。学生の時代の伝道が大切である。
今日は、モーセがエジプトのパロ王に出かけていき、神の言葉を宣告したとき、どのようになったかを学ぶ。まず、モーセがエジプトの宮殿に出かけていったことからはじめる。
I モーセは王宮に入る
(1)モーセは羊飼いでアロンは3歳上の兄であった。二人はパロ王に出るために一緒に出かけた。神は、モーセに神の杖を与えて奇跡を見せ、また、アロンの雄弁を与えてモーセの口の変わりにした。こうして、神はモーセが神の仕事が出来るように、準備を与えた。
モーセとアロンだ面会を求めたエジプト王は、メレンプター王であるといわれている。二人はこの王に直接あって、神の言葉を伝えた。
(2)モーセとアロンはいった。1節「私の民を行かせ、荒野で私のために祭りをさせよ」これは、今日流に言えば、「神の前に、礼拝を捧げるようにさせなさい」、ということである。何と言う、大胆な言葉であろうか。この言葉は、5:1、7:10、8:1、8:20、9:1、9:13、10:3と、7回繰り返されている。同じ言葉を何度も言うのは、根気がいる。牧師も、毎週同じ言葉をいうように、牧師の仕事も根気がいる。
(3)礼拝は、第一に神への礼拝であり、神のものである。我々人間が喜び、満足することも大切ではあるがそれが第一ではない。神へのプレゼントである。プレゼントを上げるとき、相手が喜ぶことが何であるかを考えて、する。自分が一番喜ぶものを選んでも、相手が喜ばなければならないから。礼拝は、神の喜びとなるように捧げなければならない
(4)モーセは再び言う。3節「荒野への3日の道のりの旅をさせ、主に生け贄を捧げさせてください」エジプトを出発して、荒野にでて神礼拝をする命令である。荒野に行くとは、エジプトの労働の場から一時はなれて、神の定めた聖なる場所に行って、礼拝をすること。、信者があつまり一緒に礼拝する、公的礼拝は一番の義務である。モーセとアロンは、この礼拝を教えた。
(5)ここで、生けにえとは、犠牲の動物を捧げることである。礼拝には、かならず犠牲が必要で、犠牲なしに礼拝はない。新約時代では、犠牲の動物ではなく、献金を捧げる。献金も犠牲が伴うのであり、礼拝では欠かせない。
(6)ここで、モーセがパロ王の前で堂々と神の言葉をつたえたのは、イエスキリストがポンテオピラトの前に裁判に出たときの姿と重ねあう。ピラトは、マタイ27:11「あなたは、ユダヤ人の王か」と質問すると、「その通りです」と答えた。そして、不必要な質問には、一切応えず沈黙を守った。これには、ピラトも驚いたといわれる。
(7)我々も同じである。 神は、我々が公にいうべき言うべき言葉と、沈黙するべきを知っており、それを教える。ルカ12:11「人々が、あなたがたを会堂や役人や権力者などのとこりへ連れていたとき、何をどのように弁明しようか、何を言おうとするか心配するのは、やめなさい。いうべきことは、聖霊が教えてくださいます。」クリスチャンの心には、聖霊がおられるので、人間の知恵より勝る聖霊が、何を語り、何を語らないか教えてくれる。
II パロ王の厳しい返答
(1)第一、モーセが神の言葉を伝えたが、パロは、「イスラエルは行かせない」と妨害する。今イスラエルがエジプトを出ると、奴隷の労働力がなぬなるので、エジプトは困ったであろう。それで、イスラエルが礼拝しに荒野に行くことを、怠けるためだと反論した。そして、礼拝と労働とは、両立しないという。
(2)これが、この世の人々の考えである。礼拝する時間に労働すれば、もっと沢山仕事が出来るとおもう。しかし、本当は逆である。礼拝して、体と魂をやすめて初めて、立派な労働と立派な勉強ができる。勉強ばかりでは、良い成績をとることはない。
(3)稲の鎌を研ぐのは、稲刈りという仕事の邪魔をすることか? そうではなく、鎌を研ぐのは、もっと良い稲刈りの仕事をするために、絶対必要な仕事である。
(5)第二に、また、パロは、「主なる神を知らない」、ともいった。エジプトでは、パロは、神の一人である。また、蛙、蛇、などの動物も神であった。しかし、天地を創造したイスラエルの神は、知らないという。
(6)第三に、更に、パロは、「イスラエル人に、わらを与えないで、レンガを作るように」命令した。これは、わらが土の中に入ってレンガを堅くするため。そのわらを与えないで、自分たちでわらを探して、同じような量を生産する命令を出した。
(7)近年の考古学の発掘により、イスラエル人が働いたピトムの町の建物には、その一部分には、わらのないレンガを使った建物があったと報告がある。おそらく、かれらは、ワラなしでレンガを使ったのであろう。
II 監督たちのモーセに対する非難
(1)パロ王から、悪い知らせが監督や人夫かしらに知らされたとき、彼らは(ユダヤ人でるので)モーセに文句を言った。かれらは、モーセが、イスラエルの幸いと自由のために、パロに語った。しかし、悪い結果ができた、とモーセを攻めた。悲しいモーセである。自分では、神の命令に従って良いことをしたのに、返って悪い結果になったのである。
(2)そのように、クリスチャンになり、日曜日の礼拝を忠実に守ると、経済的な困難に陥る人々もいる。日曜日に仕事を休めるような仕事をすることで、給料の少ない仕事を選ぶこともある。それは、本当に損失であろうか。
神は、その損失した分以上に、その人を祝福してくださる。神をウランではならない。IIテモテ3:12「およそ、キリストイエスにあって、敬虔に生きようとするものは、皆迫害にあいます」とある。
(3)神は、<決してパンを求めて石を与える方ではない。魚を求めて、石を与える方ではない>。神が、我々に苦しみにあわせるのは、その後ろに、益と祝福を用意しておられる。それを信じて、苦しみに耐えるとき、神が準備した祝福に預かる。「良薬口に苦し」という言葉がある。医者が与える薬は、苦いが、それを飲めが体の病気がなおる。苦いから飲まないといえば、病気が治らない。感謝して、試練を受けたとき、その後は、何倍もの祝福に預かるように祈る。
(4)このように、モーセは、パロ王から酷い反発をうけ、一番悲しい同じ仲間のへブル人やへブル人の監督からも、非難をうけた。これほどの悲しみは無い。悪口を言われ、四面楚歌であった。
(5)しかし、神はモーセの祈りを聞いておられた。モーセは、神にいのり、神に状況を説明し、何とか解決するようにと願った。すると神は応えられた。「私は、強い手で、彼は彼らを出て行かせる。」最後には、へブル人を決してエジプトから出さないと言っていてパロが、反対に、イスラエル人をエジプトから追い出すと約束された。神は、反抗者の抵抗や妨害も、ご自分の計画を見事に進める道具に変えるかた
(6)聖書にヨブの試練は有名である。試練に耐えたヨブは、最初7人の息子、3人の娘、羊7千、ラクダ3千などあた。そして、試練でそれらを失ったが、試練に耐えたとき、神から、息子7人、娘3人、羊1万4千、ラクダ6千など、2倍の祝福をえた。神は、ヨブの前の半生より、後の半生をもっと祝福された。神の命令に従って、忠実に試練に耐え、今からの半生をもっと祝福されるように願う。
結論 私は、大学時代から、主の日には、勉強しなかったことで有名。それで、何時しか、日曜日には勉強する頭が出来なくなった。日曜日に、試験があっても、それに対応できないのである。勉強したら、もっと成績が良かったと思うが、神の教えなのでしなかた。日曜日は、教会でユックリト過ごせば、月曜日からの仕事や勉強が、よく出来る。
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