カベナント・ケンブリッジ 日本人教会

韓国ソウル市冠岳区、冠岳警察署バス停前ケンブリッジハウス2F

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甘くなった水 出エジプト15:22−25  

人間は、10日間水を飲まずにいきられるそうである。 日本の比叡山には、天台宗の修行があり、9日間、水を飲まず、食べ物をたべず、寝ることもなく、念仏をとえる荒行がある。殆どの人は、意識を失う貸して途中で体をよこにして失敗する。また、水がないのも苦しい。荒野でイスラエル人は200万人が、水が無い旅をした。今日は、この水が無かった経験をどう克服したかを学ぶ。

           I 荒野は人生の毒水に出会うところである。

(1)15:22「モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。」そして、「三日間、荒野を歩いた。彼らには、水がなかった。」 当時、水はヤギの皮袋にいれて運んだ。約200万人の人々がいたが、その水が無くなった。それは死を意味する。

(2)第一の疑問。なぜ、神は、こんな荒野にイスラエルを導いたのか?それは、人が生き、死ぬのも神の御心、生きるのも神の御心である。人生を神に全く委ねて、任せて生きることを教えた。

(3)実際、この我々の荒野の人生においても、神の最終的な許しがなければ、生きてはいけない。神が許可するときだけ、生きることができる。そのために、水の無い荒野に導いて教えたのである。

(4)昔、ダニエルの時代、バビロンの王のところで仕えていたシャデク、メシャク、アベデネゴの3人のユダヤ人がいた。彼らは、偶像を拝めといわれたが、神の戒めによって偶像を礼拝しなかった。彼らも、人生において、試練の荒野に入った。そこで、王は彼らを火の燃える炉の中に投げ入れる命令を出した。しかし、彼らは、「神は、私達をあなたの手から、救いだします」「しかし、もし、そうでなくても、王よ、私達は、あなたの神に仕えず、貴方が建てた金の像をおがむことはしません」(ダニエル3:17,18)と答えた。すなわち、神には、自分達を救う力がある。しかし、たとえ、<救い出さなくても、偶像は拝まない>といった。神の御心によって、自分たちは、死にもし、生きるもする。大切なことは、ただ神のみを礼拝する信仰であるといった。

(5)ヨブは、もっと徹底している。彼は激しい試練にあった。そのなかで、ヨブ13:15「見よ。神が私を殺しても、私は、神を望み見、なおも、私の道を神の前に主張しよう」といった。たとえ、神が私を殺しても、神を信じるというのである。徹底的に神に委ねるきる信仰を教えた。神が私達を助けたら信じる、助けなければ信じない、というのは、人間の宗教である。

(6)パウロも、自分は「キリストイエスの僕」であるといった(ローマ1:1)。自分の人生は、キリストの命じるままであり、生と死は、キリストが決める。このように、神に人生と自分の歩みを、すべて任せ切るのがクリスチャンである。それでパウロは、「生きるのはキリスト、死ぬのも益である」といった。キリストが生きるように決めれば生きるし、死ぬのを決めれば死ぬ。一番いやな死ぬことでも、キリストが決めればそれも益であるといった。これが、信仰生活の根本精神である。

(7)クリスチャンの人生で、難しいことがある。事業がうまく進まない、病気が治らないこともある。それは、我々にとって荒野にいることである。しかし、それが重大問題ではない。キリストにゆだねて生きるか、どうかが一番大切なこと。神は、その荒野の経験をとおして、その中をとおって、神に全幅の信頼をする信仰を教えている。

             II 荒野では、だれでも毒水を経験する。

(1)水が無くて、困難なとき、「マラ」(苦い、という意味である。)にきた。すると、水がでてきたので彼らは喜んで飲んだ。しかし、23節「マラの水は苦くて飲むことができなかった。」水はあったが、毒水で飲むことができなかった。飲めば飲むほどもっと渇く<毒水>であった。このように、毒水をイスラエルは経験し、彼らは、その場所を、(苦いという意味の)「マラ」と呼んだ。
★海で船が遭難して、水が無くなくなる。有る人は、海の水を飲む。船長は飲むな、と命令したが、乾きに負けて飲んでしまった。すると、その人は、もっと、もっと渇きがでて苦しむ。

(2)この世界も同様である。今の世界は荒野の世界である。毒水があふれる世界である。たとえば、<麻薬、賭博、酒、この世のありとあらゆる快楽>は神の御心に適わない毒水である。最初は楽しく、楽であるが、あとでは自分を殺してしまう、毒水になる。

(4)エデンの園でエバは、神が、とって食べてはならない、と命じた善悪を知る木の実を見ると、「食べるのによく、目に慕わしく、賢くするという木はいかにも好ましかった」(創世記3;6)。本当に、彼らに幸せを与えると思ったのであった。その結果、全人類が罪人になる契約違反の罪を犯した。良いか悪いかは、人間が決めることではない。神の教えによって判断しなければならない。神が許さないものは、我々を害するのである。神に善悪と我々の人生を、任せきらねば、大きな渇きで苦しむのである。

(5)信仰生活において、問題があれば、かならず解決策もある。神は、この世界に、毒水がでることを許可した。しかし、神はこれを甘くする道も備えられた。神の命じる、一本の木の枝を苦い水に投げこむことである。これが、福音である。キリストの十字架である。 問題があっても祈る時に、神は解決を与えてくれる。それは、小さい、細い道であることが多い。それを見つけることである。
詩篇25:4「主のあなたの道を、あなたの小道を私にしらせてください」とある(詩篇25:4)。

こうして、人生の終わりに、<私の人生に、おくの出来事があった。いくらかの困難もあった。しかし、神はその苦しみを甘くするものが与えられた。>といえるのである。神は、イエスキリストの聖霊を送って、力を与えられる。我々は、不満や不平をいえば、それが自分の心にはいって、心が聞いている。そこから、悪い考えが、次々と生まれる。しかし、それでは解決にならない。神に向かって祈り、叫べば、神は解決をあたえる。
 
       III 神の所には、甘い水に変わる

(1)神は、モーセの祈りを聞いて答えた。25節「主が彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げた。すると、その水は甘くなった。」この木がどいう木かは、聖書は説明していない。ただ、主が与えた木、ということである。神は、望みのないイスラエルに、解決の木を与えた。

(2)それは、この<毒水>の流れる人生に、神が与えた木を投げると、水が甘くなった。神が与えた祈りの答えによって解決できる。

(3)この世界は、罪により汚れた世界である。人間自身も、<頭から、足の先まで、罪にけがれている>。この木を投げ入れるとは、新約のキリストの十字架が、その罪を清めて解決できる。人は、十字架を信じるとき、罪が赦され、呪われた人生が祝福に変わる。、イエスに十字架は、人の罪が清められる。信じるとき、その人の心は聖霊によって清められる。ヨハネ7:38「私を信じるものは、その人の心の奥底から出る、いける水の川が流れる」とある。

(4)イエスが、カナの結婚式に弟子とでかけた。そこで、ぶどう酒がなくなった。それえ、母が、イエスにそのことをいうと、女の方、あなたと私が何の関係があるのか。といった。それえは、イエスは、人に命令されて奇跡をおこなう方ではない、といういういみ。 しかし、婚礼の主人の名誉のために、水を瓶に入れる命令をした。そうして、水がぶどう酒に変える奇跡をした。イエスのところには、いつも、不平のない、甘い水に変える力がある。

 IV 結論
 ルツ記のナオミは、ベツレヘムで自分を「マラ」(苦しみ)と呼んだ。かつて、<自分中心の人生>で、モアブで苦しみにあった。しかし心を変えて、ベツレヘムに戻り、神と一緒に生きる人生になった。やがて、彼女は孫オベデ孫を抱き、救い主ダビデが生まれた。神の所にもどれば、苦い毒水を飲んだ人生でも、神に帰ることにより、やがて甘い水の流れをのむ人生に変えらる。

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