カベナント・ケンブリッジ 日本人教会

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父の家に戻った放蕩息子 ルカ15:11−24 

 先週、有る人が携帯電話をなくして、捜したがなかった。それで、食堂に行ったのでそこに帰ると、携帯電話があった。携帯電話をなくさないように、気をつけたい。携帯電話は、人が探さなければならない。自分で人のところにもどれない。しかし、人間は、聖書の福音を聞いて、神の悟りをえると、神の所にもどることができる。
聖書の中に、神の真理をわかりやすく教える例え話がある。例え話の中で、放蕩息子の話は有名で、これは「福音の要約」といえる。
父なる神が罪人である人間を愛し、どのように救うかを教えている。

I 息子が家を出て放蕩生活をした

(1)12節「ある人に二人の息子がいた。弟が父に財産を分けてほしいというので、父は兄弟に分けてやった」。まず、一つの家庭に父がいて息子二人がいた。 聖書では、父は天の父なる神を表現し、息子は我々人間のことである。一家に家族を愛し保護する一人の父がいるように、この世界には、人を愛する一人の父なる神がいる。神は、呪いや罰を与える神でなく、人を愛し、養う神である。愛の父がいる家庭に安全と幸いがあるように、父なる愛の神を持って生きるとき、人の人生に、安全と幸いがある。

(2)弟は、父が生きいるうちに遺産の相続を要求した。これに対して、父は要望に応えて財産を兄弟に分けた。すると、13節、弟は「なにもかもまとめて、遠い国に旅立った。」 父は能力も無く、世界も知らない弟を、心配と不安の中で旅に出した。 勿論、父は弟を強制的に家にとどめることもできる。しかし、息子は、奴隷や使用人とは違うので、自由にさせて体験して学ばそうと思った。「可愛い子供に旅をさせよ。」という。父の愛による決定なのである。

(3)遠い国にいった弟は、「そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」父の監督もなく、自由にお金を使える素晴らしい人生の始まりと思えた。 しかし、人間は、何も束縛がないと問題がおきる。弟は、お金を湯水のように使って、すぐに無くなり、自分の生活に困る状態になった。
人には規則や束縛があって丁度よい。家、学校、教会、会社、スポーツも規則がいる。 電車にレールがあり、車に道路があって目的地に行けるように、人にもルールや規則があって人生を走ることができる。もしそれがないと人生は、自由であるが、脱線転覆する。イエスはいった。人は、「神の口から出るひとつひとつのことばによる。」神の言葉のない人生は、人間らしく生きることが出来ない。

II 息子は、悲惨な生活の中で悟った

(1)生活が困った弟に、さらに悪いことが重なる。14節「その地に飢饉があった」。その結果お金のない弟は、15節「ある人の所に身を寄せた」。そして、豚の世話をする人になった。ユダヤ人は豚を嫌ったが、彼は嫌いな豚の世話をするようになった。しかし、それでも、弟は飢えで苦しんだ。そして、十分に餌の食べられる<豚が羨ましい。豚になりたい!>とおもったほど。豚以下の人生であった。

(2)この弟の姿は、神から離れた人間の姿を見せている。エデンの園で、神と生活したアダムは、神の子としての満足の人生があった。しかし、神と神の言葉を忘れて、自分一人で賢く生きようとした結果、悪魔が誘惑して悪魔の奴隷となった。その結果、病気、苦しみ、災害、死が世界に入ってきた。この悲惨な世界から救われるために、人は、偶像礼拝、占い、麻薬、快楽である。しかし、それは一時的な満足を与える。弟が豚の餌を食べて満足しようとしたように、この世が与える救いと満足は、豚の餌で腹を満たすようなものである。

(3)こうして、弟は家を飛び出し、自分の知恵と力で生きようとして、結局、悲惨と絶望を味わった。しかし、彼の人生はそれで終わらなかった。17節「しかし、我に返った」。この悲惨と絶望の中で、神は弟に目覚めを与えた。まず、自分が、豚以下の惨めな生活をしている姿に気がついた。 自分がどういう<惨めな姿>かを正しくしることが、救いの初めである、良いことである。

(4)18−20節「立って、お父さんのところに行ってこう言おう」。息子は、長い間忘れていた父と家を思い出した。そして、愛の父をしって、家に戻る決心をした。これは、自分の人生を、父なる愛の神のところに帰って、新たに生きることを知ることである。

(7)息子はこういった。18節「私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪をおかしました」。自分の失敗を告白することは、勇気のいることであり、つらいことである。しかし、聖書は、失敗を認め、告白するところから、新しい出発があると教える。神を信じる人生、神の世界で生きる決心は、まず自分の罪と悪を祈りにより神に告白することから始まる。Iヨハネ1:9「もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私達を清めてくださいます。」

III息子は、父が待つ、家に帰った

(1)20節「こうして、彼は立ち上がって、自分の父のもとにいった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼をいだき口付けした。」息子が家からまだ遠いところにいたのに、父は弟の帰る姿をみつけて走りよった。息子は、長い間、父も家もすっかり忘れていたが、父親は、息子のことを一日も忘れることなく、家の外で待ちつづけたことがわかる。同様に、天の父は、人が惨めな自分と人生に気がついて、神の所に帰る日を、ひたすら待ちつづけている。

(2)父は、家に向かって歩いてくる息子をみて、大急ぎで走りより、息子を抱いた。親を捨て、失敗し、乞食となった息子であるが、とがめることなく、父はそのまま受け入た。そして、再び愛する息子として歓迎し、祝い、喜んだ。

(3)これは、神を忘れた人間が、救い主イエスを信じる信仰により、父なる神の世界にもどるなら、神は喜んで彼を神の子として受け入れることを教える。ヨハネ1:12「このかた(イエスキリスト)を受け入れた人は、神の子供とされる特権を与えられた」。神は、人が神の家に確実に帰るための道をつけてくだっさた。それが、イエスキリストである。人を神に通じるイエスを信じて、神の家にもどり、この世で神の祝福のなかで人生を再出発し、死後には天国の家に迎えられる。

結論 イギリスの有名な話。列車に青年が乗っていたが心配があった。家出したので家に戻れるかどうか。手紙を書き、赦された証拠として、家の庭に白いタオルを掛けてほしい、それを見たら、家に戻ると伝えた。列車の窓から家の庭をみると、シーツ、タオル、白い布が庭の木に一杯掛かってた。神は、神を離れた人を迎える証拠にイエスキリストを送ってくださった。いま、イエスを信じて、神が招く神の家に戻ろう。

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