カベナント・ケンブリッジ 日本人教会

韓国ソウル市冠岳区、冠岳警察署バス停前ケンブリッジハウス2F

牧師の日記と随想 その2

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 韓国人は登山が大好きである。

 まず健康管理のために登山をする。お金も掛からないし道具も要らない。(が、実際は服装に金が掛かかるし、ストックなどの道具も必要である。)前回、山登りということでジーンズ、ポロシャツ、運動靴と“散歩の服装”で行って大恥をかいた。とにかく、何をするにも服装からというのが韓国である。

 また、山登りは人間関係を作るためでもある。いろいろな仕事をしている人々が集まって山に登りながら話し合いをする。登山であるからどんな人がきても仲間に加われる。しかし、人間関係がすぎて、家族をおいて山に登るのはいただけない。まず、家族と一緒にするのが基本である。

 ちなみに、韓国では自転車のサイクリングも人気がある。グループで競輪選手まがいの服装をして漢江沿いの道路を颯爽と走っている。

 そして、時間の管理のためでもある。魚つりと同様に朝早くから駅に集まってでかけるのである。私も子供の頃、夏休みに“早朝の山登り”をしたことを今も記憶している。近所の大人と一緒に近くの山に登り、そこの広場でラジオ体操をしたり将棋をしたりした。ラジオ体操がなければ、一日はしまりの無い一日となってしまうのである。山を降りて、家に帰った後、配達されているヨーグルトを食べるのが楽しみであった。 

 カベナントでも、8月15日(月)には山登り半分で南漢山城に行くことにしている。ここは、昔の古戦場であり周囲には石垣も張り巡らされている。準備してくださる執事の皆様に感謝したい。



 

タイへの旅行

今年は私たちの結婚30周年である。まだ十年位しか過ごしていない気持ちであるが、よく30年もきたものと思う。大雑把にいって最初の10年は神戸で牧師をし、その後、20年は韓国で牧師をしてきた。

今年に入り、家内が糖尿病と五十肩でニッチモサッチモも行かなくなった。かろうじて白石文化大学の仕事は続けてきたが、それ以外の教会の牧会は、体の調子を見ながらの休み休みであった。

あちらの病院、こちらの病院と、毎週いろいろな治療施設にいって検査や相談を受けた。西洋式病院、漢方病院など、渡り歩いた。

ある時、ハレルヤ教会役員会の送別会にいった。そして、そのことをいうと永登浦の病院を紹介された。それで、そこに行って治療を受けると飛躍的に良くなった。そして、「もうこれ以上は(良くならない、と言うのか、無理をしないというか)来なくて良い」と言われるところまできた。見かけは、ほぼ90%まで回復したのである。

後は、糖尿病との闘いである。これは、急によくなるわけが無いので長いお付き合いを覚悟していきたい。

それで、回復記念に、また結婚30周年記念に3泊の旅行をした。日本には行くこともあろうと思い、またどこに行っても我々はホテルを使う状況にあるので、経済的なことを考えて人気のタイにした。そして、タイの人々や風景や食物などを経験したきた。

飛行機は片道5時間である。行きは夜中につき、帰りは夜中に出発という不定期な旅行であった。でも、向こうでのんびりした雰囲気を楽しんできた。やはり日本は忙しすぎるようである。

写真を撮ってきたが、このブログには載せられないのが不便である。

許南整執事の授与式

7月25日、午前11時30分、日本大使館公邸で、我が許南整執事の勲章授与式がありました。日ごろ、通訳を黙々とされている執事が、日本の天皇、首相の名前で勲章を受けるのは、大変名誉なことであり、カベナントにとっても大きな誇りです。

当日は、武藤正敏大使から勲章の授与をいただき、その後、全員で昼食のもてなしも受ける名誉な時を持ちました。聞くところによると、武藤大使は韓国は4回目の赴任で、韓国語が大変堪能で駆使されていました。

当日は、許執事の奥様をはじめ、長女、長男さんも出席され、お父様の栄誉に感動もひとしきりです。

食事を終えた頃には丁度雨もやみ、庭に出て散策と歓談のときを持ちました。写真でその様子を紹介していますので、ご参考ください。

在韓日本人の救いと日韓教会の祝福を願って
――――三輪牧師を支える会の皆さんへのご挨拶――――

ソウル市の二村洞は、地理的にはソウルの中心にあり、日本人が集中して住んでいる日本人街です。ここで日本人教会を立てるビジョンをもって開拓伝道しているのが、カベナントチャペル日本人教会です。

「韓国人は世界に出て行って教会を建て、日本人は世界に出て行って会社を建てる」という言葉があります。これは、両国民のスピリットと国民性を表している言葉といえましょう。しかし、聖書を信じるなら、たとえ小さくても教会を建てようとするのは、クリスチャンの証しと信じます。このたび、支援会のご案内をお送りして、ご支援をお願いできることを心から感謝します。

 韓国はキリスト教の盛んな国です。道を歩いていても、どこにでも教会が見えます。また、ソウルには日本語礼拝を開いている大型韓国教会もいくつかあります。しかし、神様は特別な使命を持ってこの教会を始めてくださいました。「教会の在る町は滅びない」といわれるように、日本人の救いのために、日本の教会が必要だと思うのです。あのアメリカ大リーグで日本人選手が活躍するとは、50年前は誰が思ったことでしょう。しかし、今はそれが現実になりました。そのように、韓国の地に日本人教会をたて、在韓日本人の救いと日韓両教会の祝福のために働こうとしています。

 最後に、この日本人教会にはもう一つの意味があります。それは、先の戦争が終わるまで、日本はこの地に数多くの神社を建て、この国の人々に神社参拝を強制したことです。そして、韓国の教会と韓国の人々に多大の混乱と被害をもたらしました。それに対して、私たちは謝罪と償いができていません。特に、神の戒めの第一戒に禁止されている偶像礼拝を、日本のキリスト教会が犯した罪は計り知れないとおもいます。
 
確かに、この小さい者ができることは広大は砂浜の一粒の砂に比べられるかもしれません。しかし、神とこの国の人々に対して、神社に代えてキリスト教会を建てることにより、その償いの一つにしようと考えているのです。この意味において、昔、故・李賜礼女史(韓国初代牧師・李基豊牧師の愛娘)が、「韓国全土に日本人教会を建てなければなりません」といわれた言葉の意味が納得できます。
 
まだ、独立した会堂をもっていませんが、それがかなった暁には、会堂の庭に「日本人クリスチャンの謝罪の碑」をたて、韓国人たちを招いて礼拝をしたいと願っています。
 最後になりましたが教会と皆様の上に神の祝福があるように祈ります。
                    2011年7月1日       カベナントチャペル日本人教会牧師 三輪修男 

将棋の名人戦と人生

第69期将棋名人戦はまれに見る激しい戦いで、最終の第七局で挑戦者森内俊之9段が新名人になった。

名人の羽生さんは数々のタイトルをもっており、今回も名人として森内俊之九段の挑戦を受けてたった。今期はまさかとも思える初戦からの三連敗で苦戦したが、さすがその後三連勝して最終戦に持ち込むという驚異的な勝負強さを発揮した。

素人目には、どちらが勝っても納得できるような勝負であり、またどちらにも勝機があったように見えるが、羽生さんによると小さいミス(あるいは選択)が重なって、勝敗が決まったようである。

将棋は日本独自の娯楽でありゲームである。それで、同じ勝負の世界であるが碁やチェスとは一味違う日本独特の文化や精神が漂っている。TVなどでタイトル戦の風景を見られたら、その特殊性に気がつかれるであろう。

第一、正規の戦いでは、両者は着物(羽織袴)を着て勝負する。また、立会人も同様である。このあたり、侍が刀で戦う真剣勝負に似ている。命がけで戦うのである。

碁の試合のように、対局者のいわゆる「ぼやき」や「つぶやき」という独り言は聞かれない。棋士が盤上に将棋の駒を打ち付けるピシッという音だけが聞こえる静寂の世界である。そして、その発する音が、ちょうど刀のつばぜり合いのときの“チャリン”という音に似た、緊迫感を作る。

第二に、勝負前と勝負中においては、相手と話をすることも、相手の顔や目を見ることもほとんど無い。試合が始まる前、立会人の試合開始の言葉で、互いに頭を下げて挨拶をするだけで、後は黙々と盤上の駒だけが激しく戦うのである。さしずめ、駒を動かす棋士は“歌舞伎のくろこ”のようである。

実は今回の対局者の森内さんも羽生さんも、同じ東京の出身で、子供の頃から長年のライバルとして、数数えられないほど勝負してきた仲間である。だが、「やあ」とか「こんにちは」とも声をかけない。一切無言である。また、勝負が終わってからも勝者をたたえたり、敗者をねぎらったりもしない不思議な世界なのである。とにかく、刀の真剣勝負が終わって生と死が決着したかのようである。

第三に、互いに対話をしない二人のために、立会人が中にはいって二人の対戦相手の意思を聞きながら勝負を進め、あるいは休憩を決めるのである。二人の会話といえるのが出てくるのは、勝負の終わり近くになって、負けを悟った敗者が“投了”を告げるときである。自分の右手を駒台につきながら「ありません」といって、頭を下げ、負けを認める。そして、それを見た勝者も、同時にお辞儀して相手の負けを受けいれ、勝負は終了する。そこで、今までの緊張した糸が切れたかのように、やっと人間世界の雰囲気になる。

こうして勝負が決まると、次に感想戦がある。試合をもう一度最初からリピートしながら二人が対話をする。「この手は悪かったかな?」「ここは、どうだったかな?」など、戦いを客観的に振り返る。その時二人は、勝負を離れて、勝負を眺める論評家の立場になるのである。

数少ない言葉が交わされる感想戦の間、勝者は敗者への配慮を失わない。敗者も未練がましいこともいわない。互いに相手に対する敬意をもって、勝負ができたことを喜びとする世界である。

これは、相撲にも似ている。勝負が終われば対戦した力士はもう一度土俵に上り、相手にむかって一礼して土俵を去る。アマ野球で試合終了後両チームがホームプレート上に整列して挨拶を交わすのと同じである。ここでも、勝負と試合ができたということで、感謝の気持ちを互いに相手に表して終わるのである。

私は、昔はよく将棋をした。神学校時代は、将棋は数少ない神学生の娯楽であった。碁のように長時間はいらず、気分転換にちょうどよい時間、15分位である。将棋をすると、友人の性格や性質が伝わってくる。諦めない人、負け惜しみのひどい人、おおらかな人、よく「待った」を言う人など。

神学校の寮に、大学時代将棋部で将棋をしていたという山中君がいた。さすが、駒をおろすときの手付きがいい。しかし、私と将棋をすると良くぼやくのであった。「普通ね、将棋をする時は、序盤戦で陣地を組み立て、中盤戦では出来るだけ沢山の駒(戦いの武器)を確保し、それから終盤戦に向かうんだよ。なのに、三輪君はいきなり、大駒を切って終盤戦に持ってくるからびっくりするよ・・」とか、「将棋には定石があるのに、三輪君は定石には無い手をさすから困る・・・」とかいって、私の勝ちを認めてくれないのである。

とにかく、碁でも将棋でも、自分の戦法や戦略を決めて、一方的に攻撃するのではない。戦争と同じで、自分の攻撃の手番のあと、相手の手番があるので、相手が仕掛けてくる戦略や戦法を予測して戦わねばならない。それを、「手を読む」という。そして、相手の手を予測して、それに対抗できる最善手をささなければ勝ちに持っていけない。プロは、相手の手を百以上も読んで、それから自分の手をさすという。「読み」の世界である。

これは、単に娯楽やゲームだけではなく、人生を乗り切る場合に通じるものがある。この人生には、自分が直面する状況、人との出会い、乗り切る問題がある。それに対して、どう対処していくかで人生の戦いが決まる。そこで大切なことは、その時にあわてるのではなく、予め予想し、準備しておき、それを乗り切る最善手を見極めるのである。それが、神の御心が何かを考えるといえよう。

聖書の学びや礼拝における説教は、我々の人生における諸問題を予め考える機会であり、神の御心を学ぶ手立てでもある。こうして、日ごろから心の備えをしているとき、実際の人生の勝負においても、乗り切ることができると信じる。


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