カベナント・ケンブリッジ 日本人教会

韓国ソウル市冠岳区、冠岳警察署バス停前ケンブリッジハウス2F

御言葉の小道(教会員の皆様へ)

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クリスチャンは病気の時どのように癒しを求めるのか

1、主に癒しを求める

パウロは、「肉体に一つの刺を与えられた」(IIコリント12:7)。病気を良いものと考える人はいない。パウロも「サタンの使いです」と言うように、病気で不自由、迷惑、苦労した。それは、サタンが与えたものであった。

ヨブの試練と病気も、サタンが神の許しを得て加えたもので、それも決して良いものではなかった。

しかし、たとえ、サタンが与えたものでも、主の許しによったのであり、主のご計画と目的があった。それで、ヨブも試練の最中に、神に顔を向けて賛美し、神のなさったことである確信し、不満や愚痴を言って罪を犯さなかった。

主なる神様が、病気になることを許される。勿論、直接に病気を与えるか、サタンを通して間接的に与えるかの別はある)。それゆえ、最終的に病気を癒すのは神である。それゆえ、病気のときに、神に癒しを祈るのである。パウロも、病気の時に主に「三度願った」。それは、全てが主の御手のうちにあるからである。


2、原因不明の病気の原因を詮索する必要はない。

神が、病気の原因と理由を知らされる場合と知らされない場合がある。知らされる場合は、病院の検査などを通して明らかにされる。ストレス、過労、暴飲暴食、遺伝などが理由で病気になることもある。それに対して、治療と対処をする必要がある。なぜなら、その答えも、神からメッセージであり、それに対して対処する義務がある。

しかし、その理由と原因が神から知らされない場合がある。その時は、それを詮索しないのが良い。特に、悪霊により病気になったかどうかについて軽率に判断できない。ヨブの場合も、サタンが試練を加えたが、そうであっても、彼はそれを「主が与えた」のだといった。すべてを主に帰している。それゆえ、なぜ、自分にこのような試練と病気が与えられたのか、神のみの知る領域に入って、自問自答する必要は無い。ただ、神の愛を信じ、そのご計画の中にあることを覚えて、祈りながら、神に助けを求めるのである。

生まれつき盲人のこじきに対して、弟子たちは、「だれが罪を犯したのか」と、その原因をイエスにたずねた。その時イエスは、両親でも本人でもないと人間の詮索を拒まれた。そして、ただ、神の栄光が表れるためである答えた。病気の中にも、神のご計画があり、神の栄光という目的があることを教えた。

それゆえ、原因が分かるときも、分からないときも、前向きに癒しを求める必要がある。すなわち、癒し主である神に祈りながら、どのように治療するか、どのように対処するかを神に知恵と悟りを与えてもらうのである。

3、病気を通して、神の栄光を現すことを考える。

パウロは、癒しを求めて祈ったが癒されなかった。しかし、その中でどのように神に仕えるべきかの新しい悟りが与えられた。それは、大いに喜んで弱さを誇ることであった。すなわち病気のままで奉仕をすることが、神の栄光を現すことであるとしったのである。

生まれつき盲人の場合も、その原因は神に任せて、彼がどのようにして神の栄光を現す人生を送るかが、彼の人生の課題となった。

それゆえ、病気のとき、癒しを祈り、治療をうけながら、どのようにしてこの病気から神の栄光を現し、神に奉仕するかを、積極的、肯定的に考えることが求められる。


4、信者は祈りだけで癒されるのか

パウロは病気の時に三度主に祈った。彼は、奇跡により死人を生き返らせたり、奇跡により毒蛇の毒から救ったことがある。きっと、奇跡で病気を癒せると信じたはずである。ところが、ここでは、祈っても主は癒されなかった。

では、パウロの祈りの不足か、主の力が病気に負けたのか。そのどちらでもない。祈りで癒されない場合も、神が悟りと知恵を与えた。すなわち、「私の力は、弱さのうちに完全に表れる」という神の御心であたった。また、神の弱さは、人間の強さよりも強いことである。こうして、病気をもったまま、伝道して神の力を現すのが、神の目的であった。彼は病気の原因がわからず、癒されない理由も最初は分からなかった。しかし、祈りのなかで回答を与えられたのである。

ここから、我々が病気の時に、どうするのかが教えられる。ヨブであれ、パウロであり、病気を主管する神を見上げて、神に祈った。それゆえ、我々も病気の時に、主に癒しと救いを願うのである。イエスも、「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と主に、癒しを求めることを教えている。

次に、パウロが祈って癒しを求めたが、癒されなかった。それは、祈りだけで癒しを求めることだけが、主の行う治療ではないからである。もし、パウロが、祈りにより癒されたとなると、信者は祈りにより癒しを求める務めがある。そして、祈って癒されないなら、不信仰か、信仰の弱いものとされる。

勿論、パウロが祈って癒されなかったのは彼が不信仰であるとは、いい得ない。むしろ、神がそこから何かを教えているといえる。それは、主のなさる癒しには、いろいろな方法があるということであろう。

5、祈りと共に与えられた医薬品を用いて治療を受ける

祈って癒されなかったパウロは、テモテの病気のために祈りだけを命じなかった。「少量のぶどう酒をのみなさい」と勧める。それは、当時の医薬品ともいえる。すなわち、パウロは、祈りだけではなく、必要な医薬品を用いる治療を勧めた。ここから、我々が病気のとき、祈りだけの奇跡的な治療だけではなく(それもある)、必要な医薬品を用いて治療を受けることも、神の癒しであると結論できる。

そして、いずれの場合でも、癒しは神の哀れみによりなさるのである。ある場合は、奇跡的に癒し、ある場合は病院や薬で癒される。

空の鳥を見なさい。

空の鳥を見なさい。

イエス様は、自然界をさして神のこと、人生のことを教えておられます。

空の鳥というと、季節の変わり目の時期に群れを成して空を飛びながら移動する渡り鳥を思い出します。実に見事な三角形をつくって飛んでいるかと思うと、急に方向転換をします。それが、合図でもあるのかのように、群れ全体が右に左にいっせいに方向をかえるのです。しかも、方向を変えた後も全体の体制が乱れず、すぐに別の体制になっています。おそらく、一羽ずつの鳥が一瞬のうちに自分のとるべき行動を判断しているのでしょう。実に見事です。


鳥だけではありません。深い海洋の魚の群れの映像を見ているときも、無数の小魚が群れを成して綺麗な形を作って泳いでいます。海の中で敵が襲ってこないように、小さい魚が集まって大きな魚の形に見せる工夫と知恵だということを読んだことがあいます。その場合も、群れの全体が右に旋回したり、左に向きを変えたり、一匹の魚が動くように自由自在に泳ぎ回ります。それも、一匹の魚は瞬間的に自分の取るべき行動を判断するのでしょう。

アフリカのシマウマも、ライオンやトラが襲ってくる時、やはり集団になり頭を中心に足を外側に向けて一つの円を作ります。そして、襲ってくる獣を後ろ足で蹴飛ばして追い散らします。弱い動物も、一つになって身を守り敵を防ぐ知恵と判断を神が備えてくれているのでしょう。


こうして、罪を犯さなかった動物には、本能により自分たちを守ることが出来るように守っておられます。しかし、罪を犯した人間は神が与えた知恵と判断を忘れ、自分勝手に生きるようになり、危険と滅びを招くようになりました。

その人間に対して、神は聖書という神の言葉を与えて、人間が自分の身を救い、知恵深く生きるように助けを与えておられます。日々、この神の御言葉に守られ、導かれて生活するように祈りましょう。

(1)人はよく忘れるものです。自分が被害を受けたことは、「10年前にこんなことをされた」と思い出し、他人に与えた好意も「こんなことをしてやった」と、自慢話を繰り返します。にもかかわらず、他者から受けた恩恵は、そのときは涙を流して感謝しても、年がたつにつれて忘れてしまうものです。

(2)ヨセフの物語でも、牢屋でヨセフから夢を解き明かしてもらって救われた献酌官は、夢の通りに解放されると、「彼のことを忘れてしまった」のです。さらに、ヨセフの無実の罪を「パロに話す」という約束もすっかり忘れて、2年がたってしまいました。自分の苦しみは一日でも我慢できないのに、他人の苦しみは3年でも耐えられる、という言葉があります。ヨセフのいらだちと絶望はどれほどだったでしょうか。

(3)ヨセフは正直で、善良な人でした。人間社会を理解する点において、幼い面がありましたが真実な人でした。そんな彼の人生は、人々により裏切られ、失望もさせられ、まさに大波にもまれる小船のようでした。頼みの綱の人から約束を忘れられて、ヨセフがどんなに絶望したかは想像に難くありません。

(4)私たちは、自分では大したことではないと思っていることでも、人にとっては人生と生命にかかわる重大事もあるということを覚えるべきです。それで、頼まれたことや約束ごとはなんとしてもはたさねばなりません。勿論、神に対する約束ならなおのことです。

(5)さて、なぜヨセフがこれほど、人に失望させられ、社会に裏切られたかは、彼のそれからの人生にかかわりがありました。すなわち、彼はやがてエジプトの総理大臣となるのですが、エジプトのみならず、当時の全世界を治める重大な任務を果たすのです。そのために、尋常ではない世界と人間に対する知恵が必要でした。この才能と能力を、人々の裏切り、信頼した人の忘却という苦渋の体験を通して、培われたことでしょう。それと同様に、私たちの経験するすべてのことは、善であれ悪であれ、私たちの人生において、またとない教育と知恵を与える機会になることを、ここから理解できます。

(6)また、ヨセフは、ユダの国からエジプトへ、奴隷から主人の執事頭へ、牢屋の囚人の一人から管理者へ、そして、エジプトの王室へと、いろいろな場所に移され、いろいろな人々と出会いました。栄光へ上る道は、数々の経験と環境の変化を通して、着々と前進していきました。神に用いられる人は、同じ場所、自分の地位、安定した環境にすがりつくべきではありません。確かに、自分から進んで場所を捨て、別のところへ出て行く必要はないでしょう。一般的には、できるだけ落ち着いて働くべきです。しかし、もしその場所から、やむを得ず追い出されたり、突然人から捨てられるなら、それは、別の使命と別の場所が用意されていると理解できます。

(7)それゆえ、人生において、大きな引越し、転勤、退職、決別に出会うとき、動揺せずに、しっかりとした態度を維持すべきです。谷底に突き落とされた虫のようになっても、自己嫌悪や他人への恨みや後悔する必要はありません。たとえ人から見放されても、「神は捨てたまわず」と信じて、神が覚えていて別の場所が用意されていると考えればよいのです。

(8)それで、我々にとり大切なことは、こうした移動と変遷の時に、見える環境に心を奪われることなく、ヨセフのように「主が彼とともにおられた」と表現されるように、神への信仰を持ち続けることであります。「神は我が力、我が砦。」この信仰があれば、海を通るときも、山を登るときも、道のない荒野に直面したときも、あわてる必要はありません。神は進むべき場所を供えてくれるのです。

(9)私の知っている大学の総長先生も、ある大学で突然職を失ったのですが、信仰のある先生を神は見放すことはありませんでした。巷では、「美人は誰もほっておかない」とささやかれます。同じく、実力と才能のある人を、世界はほっておきません。そのように、先生は別の大学の総長に抜擢されて現在も活躍されています。なぜ、一箇所で拒まれ、他の所で受け入れられるのか、神のご計画ですから人にはわかりません。大切なことは、どのような局面に直面しようとも、常に主イエスが共におられ導いておられる信仰を持ち続けることです。理由はあとで明らかになるのです。

(10)『足跡』という話を聞きました。ある人が、天国にはいって来し方を眺めると、二組の足跡がづっと続いていたというのです。一組は自分の足跡であり、もう一組は一緒に歩いてくれたイエスの足跡でした。ところが、時々、一組の足跡だけしかなく、もう一組の足跡が消えているところがありました。しかも、その時は、人生で一番困難で苦しいときだったのです。それで、イエスに「なぜ、その苦しいときに、私と一緒に歩いてくれなかったのですか」と質問したそうです。すると、イエスは「その時、私は、あなたを私の背中に負ぶって歩いていたのだよ」と答えたとのことです。


(11)イエスは、信じる者と、常に一緒に歩いてくださいます。いろいろなことを忘れても、このひとつだけは忘れないようにしましょう。このときに、恨みや後悔や恐れから救われるにちがいありません。主イエスは、我々が恐れと恨みから救われるただひとつの道なのです。「たとい死の影の谷を歩くことがあっても、私は災いをおそれません」と告白できるのです(詩篇23:3)。

親の務め

   「ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた」(ヨブ記1:5)

(1)ヨブは神を信じていたが、息子たちの信仰のためにも、力を注いでいた。息子達はすでに成人していたが、彼らを放任させなかった。定期的に自分のところに呼んで「聖別」をした。すなわち、神の前につれてきて一緒に礼拝を捧げたのである。親子が集まり共に時間を過ごすときは、礼拝と伝道の良きときである。

(2)信仰は、その人の自由であるし強制はできない。しかし、親として、子供が神を忘れないように力を注ぐことは大切である。無理やりに強制して反抗させては失敗であるが、子供は、親の信仰の姿勢により神への信仰を学ぶのである。礼拝を大切にする親の信仰の姿勢を証ししたい。むかし、イエスのところに子供達を連れてやってきた親達がいたが、それをイエスはほめ、受け入れたことを思い出す。

(3)さらに、「私の息子たちが、あるいは罪を犯して・・・・のろったかもしれない」という。彼は、息子達が罪を犯せば、当然そのために罪の赦しの礼拝をしたであろう。罪を放任する人ではない。しかし、罪を犯したかどうか分からない問題でも、ヨブは罪を意識する人であった。罪に対して敏感であった。イエスは、祭壇の上に供え物を捧げようとした時、「兄弟に恨まれていることを思い出したなら」、兄弟と仲直りするように教えられた。自分が恨みことを持ってはいけないのは当然である。しかし、他人の持つ罪に対しても敏感であることを、イエスは教えている。いつも、神に対して、人に対して、正しい関係を維持することを教えている。

(4)ヨブの、親としての監督の責任を教えられる。子供が神の前に正しく歩むように、親として注意を払ったのである。これは、上に立つ者の責任を教えている。教会でも、牧師は会員の信仰生活に対して、具体的に指示をし、注意を払うことが必要である。それは、その人本人のためであり、同時に監督を任されている牧師の責任でもある。また、ヨブが息子のためにしたように、教会員のために、祈りをもって仕える奉仕の大切さを学ぶ。

(6)今年は、男性宣教会と女性宣教会を組織した。会長はその組織のメンバーの信仰と生活に対して、親のような役目を担っている。神の前に会員の執り成しの祈りをして欲しい。

      世界宣教への発想の転換
 
 使徒の働き1章8節にイエスの宣教プログラムが書かれている。「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで私の証人となります。」

 ここで、イエスが言われたのは、使徒たちの伝道の全体計画であるが、そのなかで、「ユダヤとサマリヤの全土」という表現が興味を引く。イエスは、「ユダヤ、そしてサマリヤ」とは言わずに、「ユダヤとサマリヤ」と言われた。その趣旨は、ユダヤとサマリヤを一緒に伝道するということである。

 当時、ユダヤ人とサマリヤ人とは仲が悪かった。「ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしなかった」(ヨハネ4:9)。それにも関わらず、イエスは二つの民族を同時に伝道するように指示している。これについて、カルヴァンは「不信仰なすべての地方も、同一の恵みに預かるために、聖なる民族と合体されなければならないとおっしゃった」と解説している。新約の教会は、自国だけではなく隣国にも伝道責任をもち、またユダヤ教のような民族主義や民族差別を廃して、どの国とも平和を築きながら、働きを進めなければならない。

 ここから、教会の伝道において、国内伝道と海外伝道という区別はあっても、論理的には、同じ宣教対象として捕らえることを教えている。元インドネシア宣教師の奥山実牧師(私と同じく神戸改革派神学校卒業)は、「海外宣教は国内宣教の延長ではない」と言われている。そして、「国内宣教も海外宣教もみな世界宣教に参加している」という意識を持つようにと述べている(『世界宣教と教会』50頁)。

 即ち、一つ一つの各個教会は、世界宣教の中で、その地域の宣教を担当しているのであり、海外宣教を忘れてはならないのである。これは、まさに、使徒の教会の姿であった。彼らは、アンテオケ、ピリピ、コリントというそれぞれの教会の働きを続けながら、同時に世界宣教にも参加していた。

 これを、日本の教会に当てはめるなら、日本国内の宣教と共に海外宣教、特に隣国の韓国やアジアの宣教にも関わるべきだと思う。時々、「日本国内の伝道がほぼ果たされから、次に海外宣教へ広げればよい」と言われるが、この発想を変えなければ成らない。それでは、いつまでたっても海外宣教は始まらないであろう。

 尾山令仁牧師は、海外宣教の務めを日本の教会が早く始めるように、次のように論述している。「日本の教会の弱さを理由に、海外の教会に奉仕しないできたということは、本末転倒であり、日本の教会が長い間祝福を受け損なっていた。」(中村敏『日本人による海外宣教の歩み』105頁)。

 これは、韓国教会と日本の教会の違う点である。韓国教会は、どの教会でも海外宣教に力を入れている。時には、教会の自己宣伝とも見える部分も無いわけではないが、今日まで約1万人の宣教師が海外に派遣されているという。勿論、その中には医療宣教、教育活動、商用や事業をしながら伝道するケースもある。パウロのした「天幕作りの伝道」である。

 日本人は島国根性と言われるが、日本人クリスチャンはこれを脱して、聖書のいう世界宣教、そして海外宣教に目が開かれるように祈りたい。カベナントチャペル日本人教会は、その規模は小さいが、海外宣教わけても隣国・韓国宣教を担う大切な聖書的使命をもっている。

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