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クリスチャンは病気の時どのように癒しを求めるのか
1、主に癒しを求める
パウロは、「肉体に一つの刺を与えられた」(IIコリント12:7)。病気を良いものと考える人はいない。パウロも「サタンの使いです」と言うように、病気で不自由、迷惑、苦労した。それは、サタンが与えたものであった。
ヨブの試練と病気も、サタンが神の許しを得て加えたもので、それも決して良いものではなかった。
しかし、たとえ、サタンが与えたものでも、主の許しによったのであり、主のご計画と目的があった。それで、ヨブも試練の最中に、神に顔を向けて賛美し、神のなさったことである確信し、不満や愚痴を言って罪を犯さなかった。
主なる神様が、病気になることを許される。勿論、直接に病気を与えるか、サタンを通して間接的に与えるかの別はある)。それゆえ、最終的に病気を癒すのは神である。それゆえ、病気のときに、神に癒しを祈るのである。パウロも、病気の時に主に「三度願った」。それは、全てが主の御手のうちにあるからである。
2、原因不明の病気の原因を詮索する必要はない。
神が、病気の原因と理由を知らされる場合と知らされない場合がある。知らされる場合は、病院の検査などを通して明らかにされる。ストレス、過労、暴飲暴食、遺伝などが理由で病気になることもある。それに対して、治療と対処をする必要がある。なぜなら、その答えも、神からメッセージであり、それに対して対処する義務がある。
しかし、その理由と原因が神から知らされない場合がある。その時は、それを詮索しないのが良い。特に、悪霊により病気になったかどうかについて軽率に判断できない。ヨブの場合も、サタンが試練を加えたが、そうであっても、彼はそれを「主が与えた」のだといった。すべてを主に帰している。それゆえ、なぜ、自分にこのような試練と病気が与えられたのか、神のみの知る領域に入って、自問自答する必要は無い。ただ、神の愛を信じ、そのご計画の中にあることを覚えて、祈りながら、神に助けを求めるのである。
生まれつき盲人のこじきに対して、弟子たちは、「だれが罪を犯したのか」と、その原因をイエスにたずねた。その時イエスは、両親でも本人でもないと人間の詮索を拒まれた。そして、ただ、神の栄光が表れるためである答えた。病気の中にも、神のご計画があり、神の栄光という目的があることを教えた。
それゆえ、原因が分かるときも、分からないときも、前向きに癒しを求める必要がある。すなわち、癒し主である神に祈りながら、どのように治療するか、どのように対処するかを神に知恵と悟りを与えてもらうのである。
3、病気を通して、神の栄光を現すことを考える。
パウロは、癒しを求めて祈ったが癒されなかった。しかし、その中でどのように神に仕えるべきかの新しい悟りが与えられた。それは、大いに喜んで弱さを誇ることであった。すなわち病気のままで奉仕をすることが、神の栄光を現すことであるとしったのである。
生まれつき盲人の場合も、その原因は神に任せて、彼がどのようにして神の栄光を現す人生を送るかが、彼の人生の課題となった。
それゆえ、病気のとき、癒しを祈り、治療をうけながら、どのようにしてこの病気から神の栄光を現し、神に奉仕するかを、積極的、肯定的に考えることが求められる。
4、信者は祈りだけで癒されるのか
パウロは病気の時に三度主に祈った。彼は、奇跡により死人を生き返らせたり、奇跡により毒蛇の毒から救ったことがある。きっと、奇跡で病気を癒せると信じたはずである。ところが、ここでは、祈っても主は癒されなかった。
では、パウロの祈りの不足か、主の力が病気に負けたのか。そのどちらでもない。祈りで癒されない場合も、神が悟りと知恵を与えた。すなわち、「私の力は、弱さのうちに完全に表れる」という神の御心であたった。また、神の弱さは、人間の強さよりも強いことである。こうして、病気をもったまま、伝道して神の力を現すのが、神の目的であった。彼は病気の原因がわからず、癒されない理由も最初は分からなかった。しかし、祈りのなかで回答を与えられたのである。
ここから、我々が病気の時に、どうするのかが教えられる。ヨブであれ、パウロであり、病気を主管する神を見上げて、神に祈った。それゆえ、我々も病気の時に、主に癒しと救いを願うのである。イエスも、「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と主に、癒しを求めることを教えている。
次に、パウロが祈って癒しを求めたが、癒されなかった。それは、祈りだけで癒しを求めることだけが、主の行う治療ではないからである。もし、パウロが、祈りにより癒されたとなると、信者は祈りにより癒しを求める務めがある。そして、祈って癒されないなら、不信仰か、信仰の弱いものとされる。
勿論、パウロが祈って癒されなかったのは彼が不信仰であるとは、いい得ない。むしろ、神がそこから何かを教えているといえる。それは、主のなさる癒しには、いろいろな方法があるということであろう。
5、祈りと共に与えられた医薬品を用いて治療を受ける
祈って癒されなかったパウロは、テモテの病気のために祈りだけを命じなかった。「少量のぶどう酒をのみなさい」と勧める。それは、当時の医薬品ともいえる。すなわち、パウロは、祈りだけではなく、必要な医薬品を用いる治療を勧めた。ここから、我々が病気のとき、祈りだけの奇跡的な治療だけではなく(それもある)、必要な医薬品を用いて治療を受けることも、神の癒しであると結論できる。
そして、いずれの場合でも、癒しは神の哀れみによりなさるのである。ある場合は、奇跡的に癒し、ある場合は病院や薬で癒される。
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