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			<title>カベナント・ケンブリッジ 日本人教会</title>
			<description>ソウル二村洞にある日本人キリスト教会です。二村洞は、日本人が一番沢山住んでいる日本人町と言えるでしょう。
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/koki4843</link>
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			<title>カベナント・ケンブリッジ 日本人教会</title>
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			<description>ソウル二村洞にある日本人キリスト教会です。二村洞は、日本人が一番沢山住んでいる日本人町と言えるでしょう。
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		<item>
			<title>一連隊の悪霊　　マタイ８：２８－３４</title>
			<description>一連隊の悪霊　　マタイ８：２８－３４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
白石大学の日本語課の朴勝呼教授からこんな話を聞いた。&lt;br /&gt;
日本人の牧師が来て大学のチャペルでお説教をしていただいた。その時、イエスが聖書の中で、悪霊に向かって、「悪霊よでていけ！」と言われる記録がある。その箇所を日本人牧師がいったとき、朴先生はそれを韓国語に翻訳しようとしたが、その前に「アンナガー！」と、会衆のどこかで叫んだのを聞いた。それは、悪霊がどこかで聞いていて、日本語で「出て行け」という言葉を悪霊が直ぐに理解して、韓国語でアンナガーと応えたのであり、それで震えるほど驚いたそうである。&lt;br /&gt;
悪霊は、我々の眼には見えないが存在している、日本語も分り、説教も聴いている。しかし、イエスの邪魔をしている。&lt;br /&gt;
今日も、悪霊の存在をしって、我々は注意しなければならない。どのように、注意すべきか。&lt;br /&gt;
今日の箇所は、ガリラヤ湖の東部の地方にあるガダラ人の場所の話である。そこの人々は異邦人で、ユダヤ人が嫌う豚を飼って生活していた。そこにイエスが入っていかれた。早速、悪霊につかれた二人の人が、イエスの伝道の邪魔をしに来た。物語は、＜悪霊につかれた男の悲惨な姿＞から始まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　I　　悪霊に疲れた男の惨めな姿&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）マタイ８：２８「悪霊につかれた人が二人、墓から出てきて、イエスに出会った。」とある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
近代の文明社会では、悪霊につかれた人が、聖書時代とは違った形ででいる。賢く、知恵深く、活動し、有る場合は、人を大量に殺す殺人、詐欺や、うわさや悪口を言って回る働きなど、いろいろの悪霊の働きがある。悪霊は、「捜し求めながら、歩き回っています。」とある（Iペテロ５：８）。丁度ハエが、どこからか、汚いものを探して飛んでくるようで、悪霊も悪い考えをする人がどこにいるか探している。そして、人が、教会にくることを邪魔したり、信仰者のツマズキを与えたりする。我々は、悪霊の働きには、注意しなければならない。 また、悪霊が好むような場所――悪い嘘つきの集まり、淫乱な場所に近づいてはいけない。また、教会の関係では、異端の教えである聖書に反対する教えに警戒しなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）悪霊につかれた人が、「墓から出てきた。」ユダヤ人の墓は岩の中をくりぬいた洞窟で、人が中に入って隠れることもできた。そして、墓の中は暗黒で、「内側は、死人の骨やあらゆる汚れたものが一杯ある」。（マタイ２３：２７）。普通の人間では、恐ろしい、気持ちが悪いと感じるような場所で惨な生活をしていた。＃昔、サーカスで蛇を首に巻いて、楽しく会話をしている女性がいたが。気が狂っているのである。この二人の人生は、ただ食べたり飲んだり、寝たり遊んだりして生存はしていても、その人生は、死人の人生であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）また、男は、２８節「ひどく凶暴で、だれもその道を通れないほでであった。」悪魔は、普通の人以上の力を与えたので彼らは＜暴力的＞に生きていた。時々、暴力的で、破壊的な言葉を使うひとがいるが、悪霊の働きである。マルコ福音書５：４「足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまった。」占い、魔術、死者との交流などがあるが、それも、神が悪霊に不思議な力を与えているからである。また、悪霊につかれると、自分を痛める悲惨な状態になる。悪霊は、人生を破壊する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）しかし、悪霊は、悪い姿をして出てくるだけではない。時には、見かけは、綺麗に化粧をし、服で飾っている、IIコリント１１：１４「光の御使いに変装する」、そして、「ご機嫌はいかがですか。大変でしょう。同情しますよ。」と、その人に同情するような言葉で近づく。しかし、その心の中は、嘘、ねたみ、憎しみ、不潔がある。もし、心の中を、レントゲンで撮影すると、その人の心は、この墓に住んでいる惨めな男と同じである。&lt;br /&gt;
　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　II イエスキリストが悪霊から人を解放する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）悪霊からの開放は、イエスの持つ聖霊の力しかできない。心の中にイエスが入り、聖霊により、新たにしてもらう以外にない。教育をつけ、文化を向上させ、道徳や社会制度を高めても、人間が健全で正しい生活に戻ることは無い。民主主義が発達し、文化の発達した米国には、日本の５０倍の比率で弁護士が必要な社会という。法律は一般の市民の生活を守るためであるが、もし、悪霊が働くと、市民の生活を不自由に縛る社会になった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）イエスがくると、悪霊は叫んだ。マルコ５：７「いと高き神の子、イエス様、いったい私たちが何をしたと言うのですか。どうか苦しめないでください。」どうか、自分達を追い出さないでほしい。自分たちは、何も悪いことはしていない。人間は、イエスさまのことを良く知らない。しかし、悪霊は、イエス様を正しくよく知っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）しかし、悪霊は、＜神の許可しなしに動けない＞。神が許可した範囲で動ける。悪霊の頭は悪魔であるが、悪魔は、神に作れられ天使であった。しかし、神に背いてあくまになり、そん部下が悪霊である。悪魔は、「堕落天使」と呼ばれている。部下の悪霊は、マルコでは、名前は＜レギオン＞といい、ローマ時代では４～６千の＜一連隊＞をさしているように、軍隊組織をもち、働いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）この悪魔と悪霊を、神は永遠の裁きに定められた。彼らは救いの可能性がないので、人間を誘い込み滅ぼそうとして、神を信じないように働いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（５）悪霊は、２９節「もう、私たちを苦しめにこられたのですか」という。男の中に入っていた悪霊は、しばらくは、快適で居心地がよかった。２９節「まだ、その時でないのに」キリストが最後の審判をすることを悪魔は知っている。その時をできるだけ、先に引き伸ばそうと願っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（６）悪霊はイエスに願っている。それは、悪霊もイエスの命令に、従順にしたがうから。「豚の群れの中においだしてください。」と頼んだ。すると、イエスは彼らに「行け」と命令した。イエスの許可があれば、悪霊も動ける。すると、悪霊は、豚の群れにはいり、その豚はがけから湖に駆け下り、豚は死んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（７）我々は、悪霊や悪霊につかれた人を注意しなければならないが、ただ、びくびくと恐れる必要はない。悪霊より、もって力の有る最高の支配者である＜イエス様と共にいれば安全である＞。イエス様の下にいるクリスチャンは、神の保護と守りで確りと守られている。時には、クリスチャンも、試練や誘惑に遭うが、その試練も、＜神が許可したものであり、我々が耐えることが出来る範囲の試練＞である。さらに、＜試練を通して克服したら、義の道が用意されている＞。それゆえ、クリスチャンにとっては、試練も益となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（８）ヤコブ４：７，８「神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔は、あなたがたから逃げ去ります。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（９）昔、家の近くに、庭のある家があった。その庭の隅には犬小屋があり、犬がいて出たり入ったりしていた。私が通るとき、いつも私の近くに走って。威張ってほえるのである。あるとき、犬が犬小屋に入っていた。私が、近くにいっても出てっこないし、オイ、と呼んでも、耳をぴくっと動かすだけで、寝ているふりをしている。主人がいないので、自分は何も出来ないので、静かにしているのである。主人がいるときだけ、威張ってほえる犬である。賢い犬で、教えられた。我々も同様に、一人で弱くてなにもできない。いつも、主人であるキリストともにいなければならない。キリストと一緒にいれば、大丈夫である。悪霊も近寄ってはこない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　III 悪霊から開放された人の新しい人生&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）豚を飼っていた人々は、悪霊に付かれた男のことや、悪霊が入った豚が湖に駆け下りていった出来事を報告した。すると、３４節、町中の人々がイエスに、「この地方を立ち去ってくださいと願った。」イエスは、悪霊に支配された男を救った。しかし、町の人々は、男の救いよりも、豚が大切であった。それでイエスが居るよりも居ないほうを選んだ。そして、イエスに町から出て行くように願った。神の力を見たが、神の愛を悟らなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）ガダラの人々は、この世の生活が重大であった。イエスが来られることで、人生が自由になり、悪霊から解放され、人間らしく新しく生きることができたのに、生活の手段がなくなるので、イエスに立ち去るように願った。これは、多くの人がイエスを信じない理由である。イエスを信じたら、友人達と遊べなくなり、イエスを信じたら、嘘がつけなくなり、会社では昇進しなくなり、イエスを信じたら、感謝の献金をするので、生活が貧しくなる。それで、イエスを信じようとしない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）これと反対に、悪霊から救われた男達は、このあと、「イエスに従いたい」といった。しかし、イエスは、「家に帰り、神がしたことを聞かせる」ように命じた。すなわち、イエスのことを伝える伝道をするように命令した。／世蓮⇒る人には、伝道者として、「私にしたがってきなさい」という。△泙拭⇒る人には、自分の家庭にかえって、家族の救いの働きを始めるようにいった。どちらでも、神に喜ばれる伝道である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）我々も、かって悪魔の奴隷で、この世の幸いを求めて生活していた。 しかし、この男のように、キリストの恵みにより、悪霊から解放され、明るい心に変えられた。そこで、キリストが命じているのは、神の恵みを人々に伝えて伝道をすることである。それは、伝道者になる人もいるし、自分の家で証をするひともいる。とにかく、我々は、クリスチャンは、イエスを伝える伝道者になるように、神は招いている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論　今日は、一連隊の悪霊について学んだ。５０００の悪霊が連隊をつくっている。日本には、８００万の悪霊がいる。その中で我々が神に選ばれて、教会にきている。それは出会った人に、教会に導き、伝道をする使命があることを信じる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/koki4843/65316983.html</link>
			<pubDate>Sun, 01 Sep 2019 21:22:23 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>イエスは、中風の男を癒した。　マルコ２：１－１２</title>
			<description>イエスは、中風の男を癒した。　マルコ２：１－１２&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
子供の頃、学校が終わって友人の家に遊びのために誘いでかけて。友人を呼ぶと家の中から出てきた。しかし、その後、家の中から、出て行くな。宿題をしてからだ」という、大きな怒鳴り声をきいた。私は、「お父さんが、遊びに行くなと起こっているから、今日はやめよう」といったが、友人は、「大丈夫、父は中風だから動けない。口で言うだけだ」とこたえた。それが、私が中風の人を人を、初めて知った出来事。それいらい、中風は、恐ろしい病気だな。口は動くが、体は動けない病気だな」とおもった。昔は、中風になれば寝たきりになるが、最近は中風もリハビリで治るのである。今日は、イエス様が、中風を癒された物語から、不治の病を癒すイエス様の力を学ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　Ｉ　４人の男が、中風の人を連れてきた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）イエスがガリラヤ湖の西岸にあるカペナウムの町に来られ、ある家で説教をしていた。カペナウは、マタイ福音書には「自分の町」と呼ばれて、イエスの活動の本拠地であった。すると、そこに、中風の男が、床に寝かされ運んでこられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）担いできたのは、４人の友達であった。彼らは中風の男を、遠いところからイエスのところに担いできた。 しかし、家はすでに戸口までいっぱいであった。大入り満員で、中に入れなかった。（ケンブリッジ日本人教会が、そのようにいっぱいになるように、祈ろう）。そこで４人は相談し、家の外側についている階段を上って、屋上からイエスが話しておられるあたりの屋根をはがして、男を寝たままつり下ろそうとした。パレスチナの地方は雨が少なく、屋根は木の枝などで覆っているていどで、簡単に取り外しができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）ここから、第一に学ぶのは＜人を救いに導く伝道とは、 愛のいる仕事である＞。中風の男を担いで、つれてくるのはもっと大変な仕事だ。この愛による労苦と、知恵が中風の癒しにつながった。人は、人をクリスチャンにすることは出来ない。それは神様のみがなさる働きである。しかし、人をキリストの場所に連れてくることは、我々の責任である。また、その人がキリストと出会うまで努力と愛がいる。 Ｉコリント１３：４－７に愛の性質がある。「寛容、親切、ねたまず、自慢せず、高慢にならず、この物語は そのように、人を導く、愛を教えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）第二に、 愛というのは、神が与えた知恵で行うことである。彼らは家の戸口がいっぱいで、中風の男を家の中に入れられないのを見た。失望したと思おう。しかし、神が知恵をあたえた。それは、屋根を剥いで下につり下すこと。伝道にも、祈りをして、神が与えた知恵をさとって行わねばならない。自分は、出来ないと諦めてはならない。愛は一言も、文句を言わないで、可能な方法を探して働くことである。＜意志のあるところに方法はある＞。通常の手段では出来ないことも、神に祈り、解決策を考えだせば、方法はある。困難なときや失望した時にも、静かに祈り、黙って考えて奉仕をするとき、神は手段をも与えてくれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（５）、第三に、 伝道も、仲間と一緒に働いて、人を導く伝道がある。&lt;br /&gt;
この４人は仲間同士、力を合わせて、中風の男を担いできた。一人では担いで来れないが４人なら担いでこれる。伝道も、仲間を探して、友人を見つけて、協力をしてもらう。その協力する伝道の姿をみて、イエスは大変感心した。&lt;br /&gt;
 　　　&lt;br /&gt;
　　ＩＩ　４人の男には、信仰があった&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）イエスは、５節「彼らの信仰を見て」といった。彼らとは、中風になった男と、担いできた４人の男性である。イエスは、彼らの信仰をみた。信仰は見えないが、運んできた彼らの愛の行いが信仰であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一に、我々の信仰は、われわれの行いに現れるし、現すようにしなければならない。 信仰は心の中のことであるが、表に表れる。我々の信仰は態度や行いで、大声で語っている。彼らは、 その行いで、自分たちが、何を求めているか、＜直してください＞ということを、かたっていた。 真実の信仰は、何も言わなくてもその行いを見れば分る。教会にきて、静かに出席し、黙って座っている人の態度から、信仰が分かる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）第二に、その信仰の一致があった。中風の男の信仰と、その男の仲間仲間には、信仰で一致していた。彼らは、家に入れないときは、屋上に上がり、屋上の屋根をはいで、中風の男をつりおろした。こうして、イエスはこの５人の男たちの内に、中風を癒してくださるという信仰の一致をみた。すなわち、我々がばらばらでは、力もでないし、イエスも奇蹟を行わない。我々が一つになって、イエスの奇跡にあずかれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）「あなたがたがのうち、二人がどんなことでも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私の父は、それをかなえてくださいます。」（マタイ１８：１９）。教会に、この４人の男のように、信仰の一致があるなら、奇蹟が起こるはずである。 病気で苦しむ人の救いと癒しを願いを、教会の仲間が一つになるならば、その信仰の一致がある時、神様が答えてくださる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（５）第三に、信仰は成長するものである。我々の体は、何を食べるかできまる。肉を食べ、野菜を食べて体が形成される。我々の信仰は、聞くことで決まる。何を聞くのか、（つまらない、うわさやよくない話を聞くのではなく、神の言葉やお説教を聞くことで、信仰が成長するようにねがう。ローマ１０：１７「信仰は、聞くことから始まり、聞くことは、キリストについての、御言葉によるのです」皆さんが、お説教を良く効いて信仰を成長させるように、願います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ＩＩＩ　イエスは、体も罪も、癒すことが出来る神である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）イエスは、中風の人に、５節「子よ。あなたの罪は赦された。」といわれた。彼らは、「体が癒されました」という言葉を期待していたのに、「罪は赦された」と、癒しとは別の、「魂の救い」について答えられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）当時、パレスチナのユダヤ人たちは、全ての病気は何かの罪をおかした結果であると考えた。 ヨハネ９章で、生まれつきの盲人がいたが、弟子たちは彼の病気は、「誰が罪を犯したのですか。彼ですか、両親ですか」と質問した。ユダヤ教の教師のアレキサンダーは「病人はそのすべての罪が赦されるまで直らない」と、罪によって病が起こるというのは、正統派のユダヤ教であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）それで、この中風の男も、何かの理由で、神の前に罪を犯したのではないかと、心で考えていた。それで、イエスは、罪の意識を持つ男に、「あなたの罪はゆるされた」とこの男に罪の赦しを宣言された。さらに、男に言うだけではなく、罪の赦しを与えた証拠として、体の癒しを与え、この男に「置きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。すると、中風の男は、とこを取り上げて、みなの見ている前で、出て行った。こうしてイエスが、罪を赦す力がある神、体を癒す神であることが証明された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）．リスチャンは地上では、イエスを信じることで魂の癒しをもらえる。&lt;br /&gt;
△泙拭▲ぅ┘垢蓮体の癒しも与えるので、癒しを祈ればよい。＜癌でも、どんな病気でも、中風の男のように、まず、罪の赦しをもらって、その後で体の癒しをもらう＞。しかし、地上では、全ての病気が癒されるということではない。それは、神が決める。癒すことや癒されないのは、神様に任せればよい。い發掘⊆されなければ、その人が罪を赦されないと考えないで、その姿のままで主に仕える道があるからである。病気のままで、主に仕える道を発見して、奉仕すればよい。＃パウロも、立派なキリストの弟子であったが、病気のために３回祈ったが、結局癒されなかった。しかし、彼が、罪があったのではなく、主の恵みは、病気の中にも十分であることがわかって、病気で、伝道したのである。病気がなおされて、伝道し、病気が治らなくても。主の恵みを感謝して伝道するのが、クリスチャンである。ヂ臉擇覆海箸蓮▲リスチャンも、いつか死のである。しかし、その死も、イエスが再臨されるときに、死なない体に作り変えられるので、それを期待して待てばよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論　＜四隅のつとめ＞という言葉がある日本の教会では、この中風の男の物語から、４人の仲間が一組になって伝道し、４人で祈る方法をと伝道するグループがあった。これは、大いに参考になる話である。われわれが、この中風の男の友達のように、四隅の務めによって、一人の友人を４人で一緒に連れてくるのは、神に喜ばれると信じる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/koki4843/65316289.html</link>
			<pubDate>Fri, 30 Aug 2019 21:15:54 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>生まれつきの盲人の開眼　　ヨハネ９：１－６</title>
			<description>生まれつきの盲人の開眼　　ヨハネ９：１－６&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昔，生まれつき目が見えない人についての話を聞いたことがある。有る人親切な人が、生まれつき盲人の彼をつれて、目の見えない彼に、美しい自然について、説明してやった。「空は青く、野原には青い草があり、河がながれて、赤、黄色、白の花が咲き乱れている。」と状況を詳しく説明して少しでも神の素晴らしさが分かるようにいった。しかし、盲人はいった。「先生、私は、生まれつき盲人で、赤や黄色という色が、分からないのです。」と答えたのである。この答えを聞いて、その人は説明が出来なくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
旧約、新約の聖書に、多くの奇跡物語がでてくるが、盲人の目が見えるようになった奇跡は特別な奇跡である。&lt;br /&gt;
（１）旧約聖書には盲人がみえるようになった奇跡は無い。新約聖書の中に出てくるだけ。&lt;br /&gt;
（２）新約の中でも、盲人の目が見える奇跡は、イエス様一人がした。なぜかと言うと、＜盲人の目が見えるようになるという奇跡＞は、旧約時代から待ち望んでいたメシヤ（救い主）が来たという印であり、イエス様が、約束のメシヤであることを教えている理由である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、ヨハネ福音書９章から、イエスと弟子達が、道を歩いていることから話が始まる。&lt;br /&gt;
　　　&lt;br /&gt;
　　　　Ｉ　盲目の人との出会い&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）９：２「弟子達は、彼についてイエスに質問していった。先生、彼が盲目に生まれついてのは、だらが罪を犯したのですか＞」弟子達が、彼が生まれつき盲人であることを知ったのかは不明であるが、その悲惨な状態が、有名であったのであろう。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）生まれつき盲人の彼には両親がいたが、彼は、両親の顔をみたことがない。どれほど、自分を生んだ親の顔をみたかったであろう。しかし、彼には見ることができなかった。人間的な治療では、全く不可能な状況であり、希望は無かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）しかし、我々の状態と、彼の悲惨な状態とは、どれほどの差異があるだろうか。我々は肉眼はもって見ることは見える。しかし、我々の心はどうだろうか。醜い罪の悲惨さの中に、暗くなっているのではないだろうか。利己主義、ねたみ、欲張りで汚れており、暗黒の世界で生きている。そして、明るい、神の国、永遠の命についての問題は全く見えないのである。心が腐って、真っ暗であるので、悟れない。生まれつきの人間は、神の世界や信仰の世界については、無知であり、霊的盲目なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）エペソ４：１８「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心の故に、神の命から遠く離れている」と説明している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ＩＩ　弟子達が質問をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）９：２「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか、この人ですか。その両親ですか」弟子たちは、自分達が霊的盲目であるのとわすれて、この男の盲目の理由をイエスに尋ねた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）当時、ユダヤ人は、　禳劼い簓垤の原因は、本人が罪を犯したことからくる＞と考えていた。これは、日本では、仏教の教え＜因縁生起＞＜因果応報＞と呼ばれ、この世界の全てのことは、原因があると教える。この仏教の教えは、この世界が、偶然ではなく道理があることを教えた。逆に、未文化の世界をみれば、呪い、占い、巫女の教えなどの＜迷信＞で、混乱させていた。しかし、仏教は、何かの結果には原因があると教えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）以上の、原因結果の思想で弟子は、２節「この人ですか。その両親ですか。」とたずねた。，海凌佑任垢？この人が、生まれる前に、罪を犯したというのは、ヤコブとエソウが母親のおなかの中で、蹴飛ばしあって罪を犯したことから例証する、△修領梢討任垢、と質問したのは、 悪い親カラスから、悪い卵が生まれるのろ同様に、両親の罪により、生まれつき盲人が生まれたのですか、と質問した。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　　　　 ＩＩＩ　イエスの沈黙&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）．ぅ┘垢蓮∩瓦討虜劼い砲蓮原因があることを教えている。弟子がいったことを、一部分肯定した。しかし、全ての事故や、病気にたいして、その原因を結び付けることに沈黙した。たとえば、暴飲暴食をしても病気になる人もいれば、ならない人もいる。すべての災いを、何かの原因に結び付けてはならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）聖書の例として、ルカ１３：４「シロアムの塔がたおれば、１８人が死んだが、彼らは、エルサレムのひとよりも罪が深いといってはならない」イエスは、悪い災害があっても、その災いにあった人人が、特別に罪を犯したのではない。と教えた。かえって、この世界では、善良で真実な人に試練がくるのが常である。ヨブは正しい人であったと聖書はいう。しかし、彼は神の御心によって、酷い苦しみにあった。ヨブの災いは、罪を犯したからではない。彼の悲惨は、彼のした悪が理由ではないと、神は教えた。隠された、神のご計画と御心によって、悲惨が起きたのである。それゆえ、全ての悪の結果を何かの、過去の悪の原因にするのは、間違っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）イエスは、その男の盲目という悲惨の理由について、沈黙され、＜人間は、神に任せる領域があることを教えた＞。ヨブの場合も、彼が財産を失い、子供が死に、自分も悲惨な皮膚病を患った。しかし、それは、彼が、罪の結果ではなく、神にのみ隠された理由がある。教会に行っている人でも事故にあう人もいる。会社がうまく行かない場合がある。その理由は、明白に分っている理由は別にして、なぜ、過去にさかのぼり、何の理由でこうなったかを、詮索してはならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）人間には、神にのみゆだねなければならない領域がある。それゆえ、我々は、謙遜に、分らないことがあっても、全てを神にまかせて、謙遜に生活し、いつも「喜び、感謝、平和な生活」をすれば良い。すると、神が納得の行く回答を明らかにしてくださる。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　　　ＩＶ　イエスの前向きな解答&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）３節「神の業がこの人に現れるためです」この人が、悲惨になった理由は、人間には分からなかった。しかし、イエス様は、目的を教えた。このな悲惨な男は、神に栄光を現わすこと目的があり、悲惨さは手段になっているのである。生まれつき盲目と言う、絶望的な状況であっても、＜神の栄光を現わすように、いきる＞という、目的があると教えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）自分の悲惨さをしって、なぜだろう、どうしてだろう、あの人が悪い、あの人に出会ったのが、悪いと過去の人生を悔やんだり、どうしようもない失敗をこうかいするのではなく、将来に向かって、明日に向かって、前向きに生きることを教えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）、皆さんも、きっと、過去に失敗したり、後悔していることがあるとおもう。それについて、くよくよ考えるのは、何も積極的な意味が出てこない。それよりも、全てのことを、益としてくださる神と共に歩めば、我々の失敗の人生も、神に栄光を現わす最高の人生となるのである。神は我々の人生にたいして、＜計画と目的＞を持っている。不治の病といえる、生まれつき盲人の男の人生も、神は、将来に開かれた、希望を与える人生に変えてくださるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）イエスは、７節「シロアムの池で洗いなさい」。このシロアムとは、＜訳して言えば、遣わされた者＞という意味。この遣わされた者とは、イエスキリストの別名である。イエスこそ、神が遣わされたお方である。シロアムのイエスのところにくるときに、罪を洗い清められ、人生が、１８０度変わる。心の目がひらかれて、神の栄光の現わす人生をおくれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（５）イザヤ３５：４，５「神は来て、あなたがたを救われる。その時、盲人の目は開かれる」と約束がある。神が遣わされたイエスキリストを信じて、イエスと共に歩むときに、＜神の栄光を現わす＞人生をおくり、人生の目的をはたすことができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論　三浦綾子さんは、このヨハネ９章の実言葉によって、支ええられた人である。長い闘病生活のなかで、周囲の人々から「あれは、先祖のたたり、悪いことをした罰だ・・｝といわれ、廃品同様の人生と思われた。しかし、聖書を通して、キリストを信じ、どんなひとも、神にとって大切な使命があることを知った。そして、この言葉に力付けられて、クリスチャンになって、この度は、福音を分かりやすく伝える人生は始まった。そして、不幸と思えた状況も全ては、神の愛の道具であって、神の栄光に用いられるのだと生きることができた。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/koki4843/65313995.html</link>
			<pubDate>Mon, 19 Aug 2019 10:42:46 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>嵐の時の対処方法　　　　　マタイ８：２３－２７</title>
			<description>嵐の時の対処方法　　　　　マタイ８：２３－２７&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
小学生のころ、１４歳兄と一緒に須磨の海岸で泳いだ経験がある。今年９０歳になる兄は、水泳が得意なので、自分の両肩に手をおいて、私と一緒に泳いで行こうといった。ただし、兄の両肩に手を置くだけで、絶対にしがみついては、二人とも沈むのでだめだといった。私は怖かったが、兄は、両肩に手を載せた私を、どんどんと沖に泳いで連れて行った。そして、もう私は、自力で泳いでもどることも出来ないところまで泳いで言った。もし、兄が沈めば自分も沈んでしまう。私にとりそれは、危機的状況であった。幸い、兄は向きを変えて岸に返したので、岸に無事たどり着いてほっとした。&lt;br /&gt;
そのとき、兄の言葉を信じて、従うことで恐ろしい状況からすくわれた。今日は、イエスと一緒にガリラヤの海を渡った弟子が、嵐に出会ったときどのように反応したかについて学びながら、嵐にであったときの対処方法を学びたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　I　神は、信仰者に試みをあたえる&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）２３節「イエスが船にお乗りになると、弟子たちも従った。」マルコ７：４５「イエスは、弟子たちを強いて船にのりこませたが、向かい風の為にこぎあぐねていた。無理に弟子たちを船に乗せて出発したが嵐にあったのである。ここで、[弟子]とは、．ぅ┘垢帽ゴ饋瓦鬚發辰討い訖与諭知識としてイエスを立派な人と知っているが、神としては信じていない従わない人（ニコデモのようなひと）。イエスを公に神の子と告白して、忠実に従った１２弟子たち。ここでの弟子たちとは、いろいろな弟子が船に乗っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）２４節「すると、湖に大暴風がおこって船は大波をこうむった。」イエスの乗った船が大暴風雨にあったとある。イエスが命じて弟子たちが従ったのに嵐が来たのは、弟子たちは理解できなかった。イエスの命令に従たのに、＜災い＞がきたた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）ここで学ぶべきことは、．ぅ┘垢暴召Δ箸蓮必ずしも平穏無事な人生の約束ではない。世の人と同じく嵐と困難にであう。∋砲蓮熱心にイエスの言葉に従っている信者に、危険や困難に出会う。聖書は言う。IIテモテ３：１２「たしかに、キリスト･イエスにあって敬虔に生きようと願うものはみな迫害をうけます。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）それゆえ、信仰者が、／仰の迫害を受けたり、会社の事業で失敗したり、Ｉ袖い篁里暴于颪辰燭蠅靴討癲決して、恥ずかしく思ったり、悩んだりする必要はない。すべて、信仰者の人生の中で、神の働きの中で起きている。それらは、信仰を強く鍛錬する、信仰のテストなのである。そのような時、なぜ、こうなったかを質問しないで、神はどのようにすることを望んでおられるかを祈り、聖書の教えに従って神のお考えを調べれることがよい。&lt;br /&gt;
　　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　II　嵐のときに、全能の神に任せる大切さ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）２４節「船は大波をかぶった。」マルコでは「イエスは眠っておられた。」船は嵐にあい、水が船の中にはいってきたので、弟子たちは、水を外にくみ出して船が沈まないようにした。これは、人間としてしなければならない当然の働きである。じっとしているのは、人としての責任を放棄すること。他方、 朝から伝道や病気の癒しの活動をつづけていたの、人間として疲れた。イエスは、人間とおなじく、痛みと悲惨を経験された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(2)ヘブライ４：１５「私たちの弱さに同情できないかたではありません。罪は犯されませんでしたが、全ての点で、私たちと同じように、試みに合われたのです。」&lt;br /&gt;
弟子たちは大騒ぎしている。イエスは眠っておられる。弟子たちの大騒ぎとイエスが眠っているのが対照的で有る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）なぜ、イエスは嵐のときに、水が船の中にはいってきた状況で眠れるのか。&lt;br /&gt;
それは、神の守りを信じていたからである。 自然世界も、神の作られえた世界であり、神の統治、管理、導きの下にある世界である。そして、世界は、神の支えがないなら、一瞬のうちに混乱してしまい、消えてしまう世界である。この信仰がイエスはあるので、全能の神にゆだねて寝ることができた。イエスは、神に任せる信仰を弟子たちに教えようとされた。それで、嵐にも寝ておられた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（4）詩篇３：５「私は身を横たえて眠る。私はまた目を覚ます。主が支えてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民も私は恐れない。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（5）人生において、危機的状況がおこるとき、第一に、神を見上げて、神により頼むことを忘れてしまう。大慌てして、どうしたらよいか混乱する。信仰者として、第一番目に、問題を神に任せる義務を忘れてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（6）弟子たちは、イエスのように、全能の神の支配があることをわすれた。神が、守ってくださるという信仰をもて、心に平安を持つことが第一である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その中で、自分達にできる解決への努力をし、知恵を絞り、問題を乗り切ることを神は教えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（7） 弟子が体験した嵐のなかで沈みそうになったのは、危機的状況のなかで、神にゆだねる信仰の訓練のためであった。もし、我々が、人生の嵐のなかで神の守りを信じる信仰を養うなら、たとえ、嵐であっても有益である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（８）交通事故が起きれば、たいていはお騒ぎする。そして、怒って車から出たために、後から来た車に引かれたりすることがある。交通事故にあったとき、神が、この程度で事故に治めてくれたと感謝して、静かに解決と対処を考えれば、大きな事故も防げる。生活上のトラブルも同じで、神は、私達が耐えるだけの試練を与えて、コントロールしておられると理解すれば、トラブルも、神への信仰を確認する道具となって、益である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　III　危機的状況のときに、イエスに祈ること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）２５節「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」弟子たちの中には、ガリラヤ湖を良くしっている漁師のペテロがいた。彼らは湖についてはイエスよりも専門家であり、知識があった。しかし、その彼らが、「おぼれそうです」と、イエスに自分たちの無力をさらけ出して、救いを求めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）われわれも、自分の能力や知恵では、どうしようも解決できないときがある。そのとき、イエスにも、祈ればよい。神の知恵は、我々の知恵よりも、賢い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）２６節「イエスは言われた。『なぜ、怖がるのか。信仰の薄いものたちだ。』それから、起き上がり、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。」イエスは、全能の神である。我々の人生の王であり、この自然世界の王である。イエスは言われた。「私は天においてもちにおいても、一切の権威をゆだねられている」。それだから、イエスに祈れば解決に導く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）人間にはどうしようもな天災も人災も、神の支配にあることをわすれてはいけない。それゆえ、動転しないで神に祈り、神が支配されている信仰にたって行動しよう。イエスは、我々の祈りを聞いて、全世界を治めてくれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（５）イエスが、風と湖を叱った。するとおおなぎになった。我々には、どうすることもできない自然の力も、イエスは服従させることができるのである&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（６）実際、イエスは、死んだ人を生き返らせ、病気を薬で医療でなおすことができる。時には、直接、奇跡でなおす力が有る。人間社会に働いている、悪霊も、イエスの命令に従う。死の世界も支配して、死んでも復活させてくれる。それゆえ、信仰者は、どのように絶望的な状況にであっても、動転してはいけない。最後はイエスによりたのめば、イエスが一番良い解決をしてくださる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論　&lt;br /&gt;
アメリカのカーネギーは平均値の法則から、人は起こりそうもない９９％の危機的状況のことを心配したり悩んだりする。起こりそうにない、無駄なところにエネルギーを消耗している。イエスキリストを信じる我々は、全能の神に守られている。神が与えた能力、神経、時間、頭脳を、無駄に使うのではなく、神をみあげて、、神に感謝し、助けをもとめ、救いの道を教えてくださいと祈るべきである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
危機的状況でも、惜しげもなく与える知恵を下さり、解決に導くイエスがおられる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/koki4843/65312520.html</link>
			<pubDate>Mon, 12 Aug 2019 10:59:37 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>取税人を招かれたイエス マタイ９：９－１３</title>
			<description>取税人を招かれたイエス マタイ９：９－１３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私がよく読んだ小説家・夏目漱石の作品に、『心』がある。次のように主人公は語っている。「この世界に良い人と、悪い人がいるのではなく、良いとおもっていた普通の人が悪い人になる。それが恐ろしい」という。小説『心』の主人公は、大富豪の一人息子で東京で学んでいたが、両親が急に死んだため、叔父さんに家と財産をまかせ自分は東京で勉強をつづけた。最初は、叔父さんは正直でよく管理していたが、だんだんと、心が変わり、最後は自分には一部屋だけしか与えないで、叔父さん家族が家の全部を支配した、貯金通帳も叔父さんが管理するようになった、と言いう話である。人は、こうして、心が変わるのである。それで、心が＜ころころ＞変わるので、＜こころ＞というらしい。&lt;br /&gt;
　　新約聖書の第一の記録はマタイが書いた。彼はいろいろの罪を犯し、誰が見ても、正真正銘の悪人であった。しかし、イエスの所に来て、罪の赦しを体験し、神の子供とさる幸いな人生を生きた。今日は、彼が、どのようにイエスの弟子になり、その心と人生がかわったかを学ぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　I　イエスが、取税人のマタイを招かれた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）９節「イエスは、そこを去って道を通りながら、取税所にすわっているマタイという人をご覧になった」「そこ」とは、交通の要路であるガリラヤ地方のカペナウムである。そこには通行税を取るローマの収税所があった。当時、パレスチナ地方は、ローマ政府の支配の下でユダヤ人の取税人たちが税金を徴収していた。ー萓膿佑燭舛蓮一定の税金をローマ政府に払う請負制で仕事をしており、実際はそれ以上の不正な額を集めて、金持ちであった。△泙拭彼等は、ローマ政府の仕事をしていたので売国者とみなされた。それで、ユダヤ人でありながら会堂からは締め出され、汚れた動物とみなされ、盗賊、殺人者と同一人物とみなされた。こうして、取税人は罪人であり、全ての人から嫌わた男である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）聖書にはもう一人の取税人ザアカイがいたが、彼も同様に取税人であり、不正な富を蓄え、金持ちとなった。お金だけが友だちであり、こんな悪い人間を理解する親しい友人もいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）このマタイを、イエスはごらんになった。９節「イエスは取税所に座っているマタイという人をご覧になった。」マルコ福音書には、２：１４「レビが座っていた」とある。マタイもレビも同じ人物である。昔は、一人の人がユダヤの名前とローマ人の名前の二つの名前を持っていた。マタイはローマ人の名前であり、レビは、ユダヤ人の名前であろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）９節「『私についてきなさい』といわれた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」マタイは、誰もが知る、罪人であるが、イエスは彼をまねかれた。決して、イエスは、一緒に散歩でもしようと、誘ったのではなく、当時の指導者が自分の弟子にする表現である。イエスは、同じ意味で我々にイエスの弟子になるように招いている。「すべてつかれた人、重荷を負っている人は私のところにきなさい、私が休ませて上げます」（マタイ１１：２８）といわれた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（５）イエスが、「来なさい｣といわれたのは＜信じる＞という意味である。イエスの所に来るとは、イエスを救い主として信じること。マタイが、このイエスの招きに、直ぐに立ち上がってイエスに従ったは、イエスを救い主として信じたのでる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（６）ここで、ルカの福音書９：９では、「彼は立ち上がって、何もかも捨ててイエスに従った」とある。マタイがした行動には、＜なにもかもすてた＞という、犠牲があったと記している。ルカ福音書では、なにもかもすてた、と記録した。実際にマタイがイエスに従うには、犠牲があった。安定した職業をすて、仲間を失うこともあった。しかし、見返りに、イエスと一緒にいることで、神に赦された安心と、心の平和を得ることができたのであえる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（７）我々がキリストに従うとき、物質的に貧しくなるかもしれない。しかし、放棄したものに勝る心の平安と安心を、イエスを通して受けるのである。教会にきて何の徳があるか。神が与えるのは、＜心の安心と平安と感謝＞でり、それを礼拝と交わりで、確信することがができる。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　　　II　イエスは、神中心に生きる人生に導く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）イエスに従っていくマタイは、生活がかわった。１０節「イエスが家で食事の席についておられると・・・」ここでは、誰の家でイエスが食事をしているかが分からないが、ルカが、５：２９「そこで、レビは自分の家でイエスのために大きな振る舞いをした。」マタイ自身が自分の家で、食事の席を設けていたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）最初、マタイは「何もかも捨ててイエスに従った」とかかれている。しかし、マタイは、すっからかんになったのか？そうではない、マタイは、イエスを招待する家があり、イエスのために宴会をもてなすお「金」もあった。それゆえ、マタイが「何もかも捨てた」というのは、イエスに従うのに邪魔となる仕事、信仰の妨害となる事柄、世的な生き方、を全てを捨てたのである。しかし、イエスへの奉仕につかう道具となる物は捨てずに持っていた。それらは、家であり、お金であり、イエスへの奉仕の能力であり。それは、この世的には使わないで、神のために使う人生になったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）クリスチャンになれば、全てを捧げるように命じていない。―淑の一の献金のは、神のものだから神に捧げるのである。それは、神の国の市民としての神に捧げる義務を果たす。△靴し、残りの十分の９は、自分のものとして、使うようにおしえられていおる。そのお金は、聖霊なる神の導きのもとで、神に栄光を現すように、神の喜ばれるように、使えばよい。ある宗教団体のように、信者の自由を奪い、無条件に捧げる強制は教えていない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）お酒やタバコの問題も、聖書は、規則を定めてはいない。クリスチャンが、神の栄光を現すためにつかう自由の問題である。その自由は、自分勝手に使う自由ではなく、伝道のために、健康のために、節制して使わねばならない。特に 、韓国は、クリスチャンはお酒は駄目だという文化がある。その文化も神が与えたのであるから、その文化を尊重して、自由を節制して使うことが聖書的である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（５）１０節「取税人や罪人が大勢来て、イエスやその弟子たちと一緒に食事の席についていた。」マタイがイエスの弟子となって最初にしたのは、自分の仕事の仲間と同僚を招いて、イエスを紹介した。ここに我々が学ぶ、伝道の方法が教えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
マタイは、伝道者ではないが、イエスの語る救いの言葉を、人々の聞かせる伝道の場を作った。イエスを人々に紹介する伝道を作った。こうして、現在も一番良い伝道の方法は、人々に言葉で伝道することもあるが、友達や同僚を教会に招いて、イエスの話をきかせることである。マタイのように、＜自分が教会に行っている、ということを友達に伝えることでもよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　III　イエスは、人を健康にする医者である&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）当時のパリサイ人たちは、罪人とは、一緒に、食事をすることは禁止していた。それは、自分が、罪に汚れるからと信じていた。しかし、イエスは、罪人と言われる取税人のマタイを、弟子に招いて、彼らと一緒に食事をしていた。それは、イエスが、取税人の罪を赦す力をもっているからである。「主イエスの血は、全ての悪から我々を清める」のである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを、パリサイ人は、そばで見ていて、罪人と一緒に食事をするのは、赦されないのではないかと弟子達に質問した。それに対して、イエスは答えた。１２節「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。」ご自分を医者にたとえて、説教した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）－１、医者は、健康な人のいる所ではなく、病人のところに行く。同様に、イエスは魂の病人である罪人のいる場所にでかけた。そしていわれた。１３節「私は正しい人を招くためではなく、罪人を招く為にきたのです。」これは、イエスは罪人だけを招くという意味ではない。ローマ３：１０－１２「正しい人はいない。一人もいない」とある。全ての人は、罪人で、心の中に不正と汚れがある。それは神の怒りの下に置かれ、死の裁きがくる。それゆえ、罪人を招くためにきたとは、＜自分が罪人であることを悟った人＞のことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分が正しい人間だと思い込んでいる、パリサイ人のことではなく、取税人など、罪人と言われる人である。自分が罪人であることを認めた人は、魂の医者であるイエスがその罪を赦して、人生を健康にすると教えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論　 最近、日本の俳優やスポーツ選手が、癌にかかって死ぬケースが増えている。彼らは、最初にかかった病院で、病状を訴えたがそのときに、発見されなかったという。それで、手遅れになって、直せなかったらしい。残念である&lt;br /&gt;
神は、我々が罪人であるという。それを知らされたら、早く自分が罪人と認めて、手遅れにならないように、イエスのところにきて、イエスを信じて、健康は魂にしてもらうように祈る。そして、永遠の死に会わないで、何時までも健康であるように祈る。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/koki4843/65312519.html</link>
			<pubDate>Mon, 12 Aug 2019 10:58:44 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>父の家に戻った放蕩息子　ルカ１５：１１－２４　</title>
			<description>父の家に戻った放蕩息子　ルカ１５：１１－２４　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　先週、有る人が携帯電話をなくして、捜したがなかった。それで、食堂に行ったのでそこに帰ると、携帯電話があった。携帯電話をなくさないように、気をつけたい。携帯電話は、人が探さなければならない。自分で人のところにもどれない。しかし、人間は、聖書の福音を聞いて、神の悟りをえると、神の所にもどることができる。&lt;br /&gt;
聖書の中に、神の真理をわかりやすく教える例え話がある。例え話の中で、放蕩息子の話は有名で、これは「福音の要約」といえる。&lt;br /&gt;
父なる神が罪人である人間を愛し、どのように救うかを教えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
I　息子が家を出て放蕩生活をした&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）１2節「ある人に二人の息子がいた。弟が父に財産を分けてほしいというので、父は兄弟に分けてやった」。まず、一つの家庭に父がいて息子二人がいた。 聖書では、父は天の父なる神を表現し、息子は我々人間のことである。一家に家族を愛し保護する一人の父がいるように、この世界には、人を愛する一人の父なる神がいる。神は、呪いや罰を与える神でなく、人を愛し、養う神である。愛の父がいる家庭に安全と幸いがあるように、父なる愛の神を持って生きるとき、人の人生に、安全と幸いがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）弟は、父が生きいるうちに遺産の相続を要求した。これに対して、父は要望に応えて財産を兄弟に分けた。すると、１３節、弟は「なにもかもまとめて、遠い国に旅立った。」 父は能力も無く、世界も知らない弟を、心配と不安の中で旅に出した。 勿論、父は弟を強制的に家にとどめることもできる。しかし、息子は、奴隷や使用人とは違うので、自由にさせて体験して学ばそうと思った。「可愛い子供に旅をさせよ。」という。父の愛による決定なのである。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）遠い国にいった弟は、「そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」父の監督もなく、自由にお金を使える素晴らしい人生の始まりと思えた。 しかし、人間は、何も束縛がないと問題がおきる。弟は、お金を湯水のように使って、すぐに無くなり、自分の生活に困る状態になった。&lt;br /&gt;
人には規則や束縛があって丁度よい。家、学校、教会、会社、スポーツも規則がいる。 電車にレールがあり、車に道路があって目的地に行けるように、人にもルールや規則があって人生を走ることができる。もしそれがないと人生は、自由であるが、脱線転覆する。イエスはいった。人は、「神の口から出るひとつひとつのことばによる。」神の言葉のない人生は、人間らしく生きることが出来ない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
II 息子は、悲惨な生活の中で悟った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）生活が困った弟に、さらに悪いことが重なる。14節「その地に飢饉があった」。その結果お金のない弟は、15節「ある人の所に身を寄せた」。そして、豚の世話をする人になった。ユダヤ人は豚を嫌ったが、彼は嫌いな豚の世話をするようになった。しかし、それでも、弟は飢えで苦しんだ。そして、十分に餌の食べられる＜豚が羨ましい。豚になりたい！＞とおもったほど。豚以下の人生であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）この弟の姿は、神から離れた人間の姿を見せている。エデンの園で、神と生活したアダムは、神の子としての満足の人生があった。しかし、神と神の言葉を忘れて、自分一人で賢く生きようとした結果、悪魔が誘惑して悪魔の奴隷となった。その結果、病気、苦しみ、災害、死が世界に入ってきた。この悲惨な世界から救われるために、人は、偶像礼拝、占い、麻薬、快楽である。しかし、それは一時的な満足を与える。弟が豚の餌を食べて満足しようとしたように、この世が与える救いと満足は、豚の餌で腹を満たすようなものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）こうして、弟は家を飛び出し、自分の知恵と力で生きようとして、結局、悲惨と絶望を味わった。しかし、彼の人生はそれで終わらなかった。17節「しかし、我に返った」。この悲惨と絶望の中で、神は弟に目覚めを与えた。まず、自分が、豚以下の惨めな生活をしている姿に気がついた。 自分がどういう＜惨めな姿＞かを正しくしることが、救いの初めである、良いことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）18－20節「立って、お父さんのところに行ってこう言おう」。息子は、長い間忘れていた父と家を思い出した。そして、愛の父をしって、家に戻る決心をした。これは、自分の人生を、父なる愛の神のところに帰って、新たに生きることを知ることである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（７）息子はこういった。18節「私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪をおかしました」。自分の失敗を告白することは、勇気のいることであり、つらいことである。しかし、聖書は、失敗を認め、告白するところから、新しい出発があると教える。神を信じる人生、神の世界で生きる決心は、まず自分の罪と悪を祈りにより神に告白することから始まる。Ｉヨハネ１：９「もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私達を清めてくださいます。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
III息子は、父が待つ、家に帰った&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）20節「こうして、彼は立ち上がって、自分の父のもとにいった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼をいだき口付けした。」息子が家からまだ遠いところにいたのに、父は弟の帰る姿をみつけて走りよった。息子は、長い間、父も家もすっかり忘れていたが、父親は、息子のことを一日も忘れることなく、家の外で待ちつづけたことがわかる。同様に、天の父は、人が惨めな自分と人生に気がついて、神の所に帰る日を、ひたすら待ちつづけている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）父は、家に向かって歩いてくる息子をみて、大急ぎで走りより、息子を抱いた。親を捨て、失敗し、乞食となった息子であるが、とがめることなく、父はそのまま受け入た。そして、再び愛する息子として歓迎し、祝い、喜んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）これは、神を忘れた人間が、救い主イエスを信じる信仰により、父なる神の世界にもどるなら、神は喜んで彼を神の子として受け入れることを教える。ヨハネ１：１２「このかた（イエスキリスト）を受け入れた人は、神の子供とされる特権を与えられた」。神は、人が神の家に確実に帰るための道をつけてくだっさた。それが、イエスキリストである。人を神に通じるイエスを信じて、神の家にもどり、この世で神の祝福のなかで人生を再出発し、死後には天国の家に迎えられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論　イギリスの有名な話。列車に青年が乗っていたが心配があった。家出したので家に戻れるかどうか。手紙を書き、赦された証拠として、家の庭に白いタオルを掛けてほしい、それを見たら、家に戻ると伝えた。列車の窓から家の庭をみると、シーツ、タオル、白い布が庭の木に一杯掛かってた。神は、神を離れた人を迎える証拠にイエスキリストを送ってくださった。いま、イエスを信じて、神が招く神の家に戻ろう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/koki4843/65310290.html</link>
			<pubDate>Thu, 01 Aug 2019 09:55:30 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>「信者の模範になりなさい」　ピリピ　２：１９－２２</title>
			<description>「信者の模範になりなさい」　ピリピ　２：１９－２２&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
（１）私は、若い頃、新米牧師のとき、神戸市の教会連合の伝道集会に主催者の一人として参加した。始まるまえに、牧師同士の打ち合わせで、委員長の牧師が、私に「三輪君。全員が集まったら、舞台の前に出て行って、皆が見えるように、案内の看板をもって、左から右に移動してくれ」と言われた。私は、会場で全員が見ているので、サンドイッチマンのようで恥ずかしいのでいやだといって断った。」。時間が来て大勢の人が集まったとき、その年取った先生が看板を担いで、舞台の左から右に歩いて見せていた。それを見て、新米の牧師が何と言う失礼なことをしたのかと反省した。その後、私は、いやなことでも、文句はいわないで、先輩牧師の指示を、神からの指示として聞くこが、牧師となる大切だと学んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
パウロは、テモテに「信者の模範になりなさい」と、励ました。人々のお手本になるようにということ。どのよう人がクリスチャンのお手本なのか。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
　　　I　テモテは、任された仕事を忠実に果たした&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）パウロがテモテと出会ったのは、第二回伝道旅行において小アジアのルステラであった。テモテの父親はギリシャ人で、母はユダヤ人で、テモテは、国際結婚したした多様な才能のある弟子であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）1９節「早くテモテをあなた方の所に送りたいと望んでいます」。現在、パウロはローマの牢屋にいる。その世話をするためにテモテがそばにいる。しかし、このとき、パウロは、緊急事態がピリピにあったので、テモテを自分の代理としてピリピ教会に派遣したいと考えた。&lt;br /&gt;
聖書を見ると、テモテの働きは多彩である。&lt;br /&gt;
	ある時はパウロと一緒に伝道旅行をし、&lt;br /&gt;
	ある時は、パウロからはなれて一人で牧師の働きをし、&lt;br /&gt;
	ある時は、パウロの代理として派遣されて仕事をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）テモテには、自分の受け持った仕事があった。しかし、パウロの命令でそれを中止して、苦労と危険の多い長旅をしてピリピにでかけた。これは、テモテが仕事を任されたとき、素直に引き受ける人物である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この世界の「求人広告」では、能力ある人、才能ある人、成果を上げる人が募集される。しかし、神の世界の「求人広告」は、 まず第一に牧師の言うことや、教会から任された奉仕は、好きなことでも、嫌いなことでも、引き受けて、忠実に果たす人である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）有る人がいった。―――教会では、牧師が「Aだと判断」すれば、＜たとえそれが間違っていても自分は、信徒として牧師の意見を聞く＞といった。すこし、問題もあるが、この心が大切である。この心があれば、教会は一致し、分裂しないから、神が教会を建てられる。この心がなければ、神が働かないから、教会は乱れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（５）我々の模範となる、イエスもそのような方であった。イエスは、父なる神から任された務めを、すなおに果たした。ヨハネ５：３０「私は自身の望むことを求めず、私を遣わしたかたの御心を求める」。こうしてイエスは、最後は、人類救済のために、十字架により死ぬ任務を果たされた。それは、何と言う不合理で、不条理なことだろうか。しかし、イエスはその仕事を引き受けたのである。それで、神の国ができた。神の国での立派な人とは、能力ある人ではない。自分に求められた仕事を、喜んで引き受け、それを達成することである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
II　　テモテは、子が親に仕えるように仕えた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）韓国では、良い成績の学生は立派で、悪い成績の学生は、不真面目であると思う。あるとき、白石大学学長先生が、私達に、＜白石大学には、不真面目で成績の悪い学生が何人かいるが、その学生を息子や娘のように指導してほしい。そうすれば、彼らは、一生、先生を慕って付いてくる＞といった。 実際、そうした学生がいると、学校の規則で落第させることもしたが、そんな学生にも親が子をかわいがるように親切に接すると、驚くほど素直で、教会にも何人かがきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）パウロとテモテには、神の家族という意識があった。パウロはテモテのことを、２：22節「子が父に仕えるようにして、奉仕してきました」という。聖書で父と子というのは、 指導者と弟子の関係においても使われる。予言者エリシャは、先生のエリヤに向かって「わが父、我が父」と呼んだ（ＩＩ王２：１２）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）イエスは、「天におられる私の父の御心を行う者は、だれでも私の兄弟、姉妹、母なのです」。すなわち、イエスを信じる人々は、父、母、兄弟姉妹という、神の家族の絆で結ばれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）勿論、時には、家族として、厳しいい注意も警告もする。たとえば、テモテは立派な奉仕者であるが、人間として弱点があった。勿論、だれでも弱点はあり、欠点の無い人は人はいない。そのとき、パウロはテモテに、父として、警告を与えている。「私はあなたに注意したいのです。あなたのうちに与えられた神の賜物を再び燃え立たせてください」（ＩＩテモテ１：６）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（５）さらにパウロはテモテに、アドバイスもした。「年寄りには、父に対するよう、若い人には兄弟に対するよう。年取った夫人には母に対するよう。若い女性には姉妹に対するように」（Iテモテ５：１，２）。教会では、家族のように、指導することを教えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
III、テモテは、自分の賜物を開発した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）会社で新入社員が入社すると、研修期間をもつ。学校では基礎を学ぶが、それを活用するために、訓練をうける。「玉磨かざれば光なし」。テモテも牧師として、経験をとおして賜物を開発する訓練を受けたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）パウロとテモテと同じく牧師同士であるが、個人的に違いがあった。&lt;br /&gt;
	信仰の過程で、パウロは劇的な改心を経験したが、テモテは祖母ロイス、母ユニケを通して自然な形で信仰をもった。（ＩＩテモテ１：５）。&lt;br /&gt;
	また、仕事の内容も、パウロは世界宣教する使命であるが、テモテは最終的にはエペソ教会の牧師としての使命をもった。性格もパウロは激しい論争をするが、テモテは弱い性格。しかし、その違いがあっても、「彼は私と一緒に、福音に奉仕しました」（２：２２）という。&lt;br /&gt;
	賜物の違いもある。＜１＞パウロは、肉体の病気の時、「主に3回祈った」（ＩＩコリント１２：８）。奇跡の癒しをもとめて祈りをした。＜２＞しかし、テモテの病気の時に、奇跡の癒しを願わなかった。むしろ、「胃のために、また、度々起こる病気の為にも、少量のぶどう酒を用いなさい」（Ｉテモテ５：２３）。 神は、奇跡で癒す神であり、また、奇跡でなくて薬で癒す神である。パウロとテモテとは賜物の違いがあった。 この違いがあるが、パウロは、テモテが「私と一緒に、福音に奉仕しました」という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）手の指にはいろいろな指がある。指の違いがあるから手でいろいろな仕事ができる。親指、人差し指、中指、薬指、小指など、その指により働きが違う。そのように、パウロは自分に与えられた賜物により主に仕え、テモテはテモテに与えられた賜物で仕えた。そして、「彼は私と一緒に、福音に奉仕しました」（２：２２）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論　白井伝道師は、今日は日本にいるが来週韓国にもどる。この私にたいして、テモテのようによく奉仕している。最初は、全然笑わなかったが、最近は、やっと笑い顔が出始めてほっとしている。時間を良く守り、どんな仕事も嫌がらないでする。信者の模範になるように、努力しているのを評価したい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
我々も、＜人のお手本になって＞、神には良くやったと誉められ、また人に対しても、あの人のように、と言われるように信仰生活を励みたい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/koki4843/65306128.html</link>
			<pubDate>Sat, 13 Jul 2019 15:58:34 +0900</pubDate>
			<category>アジア</category>
		</item>
		<item>
			<title>主の僕モーセは死んだ　　申命記３４：１－５</title>
			<description>主の僕モーセは死んだ　　申命記３４：１－５&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モーセは、「地上の誰にも勝って、非常に謙遜であった』（民１２：３）。そのモーセに対して、神が最後に語った説教が今日の言葉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 　　　　　　Ｉ　神は、モーセにカナンに入らせなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 （１）１節「モーセは、モアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に上った。」 モーセは８０歳から１２０歳の４０年間、100万以上のイスラエルの民を導いて困難な荒野を旅をした。そして、 主は、荒野の旅を終えた彼に、ついに目的地の全地方を見せられた。 感激するひと時である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 （３）そして神は、山の上で神はモーセに言われた。４節「私は、これをあなたに見せたが、あなたはそこへ渡っていくことはできない。」約束の地をモーセに見せたが、神はそこに彼を入らせない。モーセは、＜なぜですか＞といったとおもう。これだけ苦労して、忍耐して待った約束の地にはいれないとは。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これは、カデシの事件で神が言われた約束である。そこでは水が無かった。そこで神がモーセに、「岩に命令すると水が出る」と言われた。そこで、モーセは岩を打った。モーセは、一回だけ打つべきであったが、怒りにまかせて、２回うった。１回も２回も、大きな差はないと我々は思う。しかし、これは、神の御心ではなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 （４）なぜなら、この事件は「キリストの型」であった。Ｉコリント１０：４「御霊の岩から飲んだのです。その岩とはキリストです。」モーセが岩を打って水が流れたのは、キリストが十字架で打たれ、そこから聖霊が流れる神の救いを教えていた。そのキリストの十字架は、一度だけで繰りかえしはない。モーセが２回岩を打ったのは、キリストの十字架以外の福音を暗示している。これはモーセの罪である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 （５）なぜ、神はモーセの失敗をゆるしてくれないのか。それは、神は、罪を犯したら裁くという道理を重んじる方であることを示している。 愛の神であるが、同時に神の御心に反する行動にたいしては、その罰を受けるのが聖書の教えである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たしかに、人は、どんな罪をおかしても、ごめんなさいといえばその罪は赦され、天国にいける。しかし、罪の罰は、ある。神を信じて、『ごめんなさい』と誤ったから、なんでも赦されるというのは、自分勝手な信仰であり、キリスト教信仰とは違う。もし、そうなら、人殺しも、犯罪も、盗みもすべて、「ごめんなさい」といえば、みな赦されるという不思議な人間をつくる。それでは、警察も、裁判所もいらない世界になる。「神は一人一人にその行いに応じて、報いをお与えになります。」（ローマ２：６）。この世で裁きを逃げても、来る世界で神の裁きが待っているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 （７）マタイ１８：２２に、あるひとが罪を犯して、７度を７０倍するまで赦すようにイエスはいった。この意味は、心の中において、恨みや憎しみの心を完全になくし、報復をするなという教えである。ある人は、これを誤解して、人の犯した罪は、全部帳消しにすることだという。これは、私的解釈で、この世に、悪をしても平気な人が増えて＜この世の地獄を作ってしまう＞。たしかに、罪は赦されて天国に入れるが、他方、この世では罪に対する報いと裁きを受けるというの、聖書の教えである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 　　　　　　　　　II　神の命令によってモーセが死んだ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）モーセがカナンに入れないのは、実際は、困難であった。８０歳の時アマレクとの戦争で手を上げた祈っていたが、疲れてアロンとフルに助けてもらった。今１２０歳のモーセ「目もかすまず、体力もあった」。しかし、いまから、エリコ、アイなどで戦争を続けることは現実的に、不可能だった。それゆえ、神の決定は、無慈悲とも見えるが、モーセを愛する愛からでた妥当な決定であった。ここで、モーセは、歴史の場所から消えたが、神のいるもっと良い場所に移ったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 （２）５節「主の命令によって、主の僕モーセは、モアブの地のその所で死んだ。」モーセは「主の僕」として死んだ。僕は主人の命令に従う。生きるのも死ぬのも、僕は、自分勝手にはできず主人の命令で決まる。モーセは、年を取って死んだのでも、体力が衰えて死んだのもない、病気で死んだのでも、事故で死んだのでもない。主人である神の命令で忠実に死んだのである。結局、モーセは、死に至るまでも、神に従順な人生をすごした。彼は、従順な人物だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 （３）神は、愛する民の命を、その使命が続く限り、守られている。そして、使命がおわれば、与えた命を取る神でもある。モーセが自分の使命を立派に果したので、神が命を取った。それでモーセは死んだのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 （４）我々も、このモーセの人生と生き方に学びたい。これが、キリスト者の人生である。主なる神が、僕である我々に、地上の任務と使命を果たした後、、真の牧者のキリストがいる天の牧場に招いてくださる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 　　　　III　モーセの後は、神はヨシュアに導かせた。&lt;br /&gt;
 （１）３４：９「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満たされていた。」モーセは、いつもヨシュアといしょであった。カデシからカナンの調査をさせたとき、ヨシュアとカレブだけが、神の御心に適った報告をした。それで、他のイスラエルは荒野で死んだが、この二人がカナンに入ることを許可された。 主はモーセに命じて、ヨシュアにモーセの後継者として任命するよにした（民２７：２０）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 （２）神は、モーセではなくヨシュアによってイスラエルを荒野からカナンの地に導かせた。これは、信者に取り意味がある。すなわち、モーセの務めは神の律法を与えることであった。しかし、カナンに導く指導者はヨシュアであった。ヨシュアはギリシャ語でイエスである。すなわち、イエスであるヨシュアによってカナンにはいることができた。人は、モーセの律法では救われず、ヨシュアであるイエスキリストの恵みにより天国に入れることを教えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 結論：私たちにとり、死は、信仰生活の一部分である。死ぬのも神の御心であり、生きるのも神の御心である。こうして、神に任せる人生をいきたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 今日で、朴鍾淳牧師先生の言われたように、忠信教会でのカベナントチャペルは終了する。同時に、私の働きも終わりになる。昔、戦艦が沈むとき、艦長も一緒に海に沈むのが日本の習慣である。私は、ここで、忠信のカベナントは終わるが、朴鍾淳牧師の言われたアドバイスにしたがって、カベナントチャペルを私の自宅に移して再出発するつもりである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 ２５年の間、常に私と一緒に教会の働きに献身してくださった皆さんに、感謝したい。 朴鍾淳牧師先生が言われたとように、皆様は、忠信教会に招かれている。また、朴ダニエル先生の教会も皆様を歓迎している。それは皆様にお任せする。 &lt;br /&gt;
また、ソウルの町で出会ったら挨拶ができるように楽しみにしている。&lt;br /&gt;
 最後に使徒パウロが、エペソ教会の長老達にいったことばを、お送りして終わりたい。使徒２０：３２「いま、私は、あなたがたを、神とその恵みの御言葉とにゆだねます。」アーメン</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/koki4843/65303355.html</link>
			<pubDate>Wed, 03 Jul 2019 09:56:45 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>『７５歳からの再出発』 創世記１２：１－４</title>
			<description>『７５歳からの再出発』 創世記１２：１－４&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
韓国で驚いたのは引越しが多いことである。私は、３０歳まで家の引越しは２回だけ覚えている。しかし、韓国に来て、３０年間で８回あった。引越しは物をなくしたり、何所に行ったか分らなくなる大事件であり、あまりしたくない。しかし、引越しを通して、やがて天国に引越しをすることを考えるのである。&lt;br /&gt;
聖書に出てくるアブラハムも引越しをした人物である。今より４０００年以前の人で、チグリス・ユフラテスの流れにあるウルに住んでいたが、７５歳になって、１２００キロメートル西にあるカナンに引越しをした。彼は、信仰者にはとても親しい人物で、信仰者の父、また、「神の友」と呼ばれた人である。ユダヤ民族の初となり、ユダヤ教とキリスト教の起源ともなった。アブラハムがいなかったら今日のキリスト教はない。このアブラハムと彼の引越しから何を学ぶか。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　　　Ｉ　神は、アブラハムの家族を引越しさせた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）アブラム（＝アブラハム）の父はテラである。テラには、３人の息子．▲屮薀魯燹↓▲淵曠襦↓ハランがいた――年齢の順番はハラン、▲淵曠襦↓アブラハムである。聖書の書き方の順番は、重要な人物から先に書く方法)―――。アブラハムの兄のハランは、先に死んだので、アブラハムは、ハランの息子ロトを引き取り、親代わりに引き取って世話をした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２） 創世記１１：３１「テラは、息子たちをともない、出かけた」とある。アブラハムの父のテラが住んでいたカルデヤのウルは、バビロンの町から近く、偶像礼拝が盛んな町であった。そこで、神は、アブラハムに、神の示す地に行くように命じて、父のテラに相談して、父の指導のもとで、カルデヤのウルを出た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）こうして、テラは、アブラハムの家族をつれてウルからカランにやってきた。しかし、テラは徹底した行動はとらず、途中のカラン（HARAN）に定住してしまった。そして彼は死んだ。残されたのは、アブラハム、サラ、甥のロトで、アブラハムは７５歳であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）１２：１「主は、おおせられた。」アブラハムも、カランで落ち着いてたが、そこから１２００Ｋｍもはなれたカナンの町に向かって再度出発する命令が、神から来た。神は、アブラハムに、引越しの命令がきた。老人になり、家族を引き連れ、 住み慣れた町を出発し、知らない国に引越しするのは大変な労苦と危険をともなう。神は、しばしば、信仰者を、このように引越しさせて、新しい場所に移して、神の仕事を始める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（５）イエスにも多くの人々がついてきたが、イエスは、人をそのまは使わなかった。その中から、さらに、マルコ３：１３、１４「ご自分が望まれる者たちを呼び寄せ、１２人の弟子を任命した」。神は、ご自分の望まれる人を選ばれる。その選択基準は分らないが、神が選んだので聖なる選びである。こうして、アブラハムは、神から選ばれて、カナンの地に向かって出発した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（６）皆さんも神からの選びによって、神を信じる信仰生活にはいった。動機はいろいろある。友達に誘われて、家族が教会にいっていた。日本語を学びたいからなどがあるが、神が選ばれたのである。そして、皆さんを救いだし、信仰生活をはじめて、神の働きをさせる。神の選びを感謝して、その選びに相応しい信仰生活にはげんでほしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　ＩＩ　アブラハムは、信仰により引越しを始めた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
A　全部が分らなくても、信頼して進むべきである。&lt;br /&gt;
（１）カランの土地で住んでいたアブラハムに、神が声をかけられた。&lt;br /&gt;
	創世記１２：１「私が示す地へいきなさい。」&lt;br /&gt;
	へブル１１：８には、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」 どこへ行くのか分からないまま、神の導かれるままに出発した。&lt;br /&gt;
	その目的は、１１：３８「彼らは、カナンの地に行くために」とある。この創世記を記録したモーセが、アブラハムがカナンに到着したあとで書いたのであるが、アブラハム自身は、その時には、どこいくのからなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）信仰生活も、ほとんどは、先がどうなるか、しらされないままに出発する。 なぜ、神が、まえもって到着する場所を教えなかったのか？&lt;br /&gt;
　それは、アブラハムが現在の道を、全力を挙げて、一歩ずつ前進するためである。もし、場所を示せば、そこにいたるまでの、困難や苦しみを見て、前進することを躊躇したり、逆に怠けたりする。我々の人生でも、先が分かれば良いと思うが、前進する気持ちがなくなる。羊が、先が分らないが、羊飼いを信頼して、一歩ずつ歩いていくのと似ている。それが、信仰である。羊が、先の道を全部知ってから進むのは、羊が羊飼いを信頼していない印である。だまって、進むのが信仰者の歩みである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）全部しらべて、確認してから出発するのは、信仰ではない。＜占い＞は、主を信じないで、先を見ながらいく不信仰である。見ないで信じるのは幸いである、とイエスは言われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）さらに、彼の年齢は７５歳である。もう、老後のことを考えて速くは無い。妻サラも居る。家財道具やラクダなどの家畜も居る。それらを移動させて、新しい世界に出発するのは困難があったはず。しかし、彼は、神の命令をきいたとき、 従順に行動に移した。アブラハムが、＜信仰の父&amp;gt;と言われる理由である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）イエスが、漁師のアンデレに「わたしについてきなさい」といった。すると、どこに行くのですか？ 聞かないで、網を捨てて従った。イエスが招かれるとき、私達もそのように、すなおに従いたい。イエスは今、天から声をかけるのではなく、聖霊なる神を通して、心の中で語りかけている。そのとき、すなおに行動し、従いたい。一時は、家族や友人から変人扱いをうけるが、最後は、かならず大きな祝福がくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
B　健全な信仰を養っていなければ成らない&lt;br /&gt;
（５）このような直ぐに神に従う信仰はどうしてできるのか。その信仰は、神の御言葉を聞くことで養われる。 御言葉は 赤ちゃんがミルクを飲むのと似ている。犬の子供達が、何匹も母親の乳を飲む姿をみると、みな我先に、必死で飲んでいる。隣のことは全然気にしない。キリストの言葉を聞くときも、そのような熱心がいる。それが信仰を成長させる。&lt;br /&gt;
それゆえ、神は、アブラハムに、何度も何度も、繰り返して御言葉を聞かせ、信仰を強くした。創世記で、神が直接アブラハムに語られたのは、７回ある。そのつど神は、御言葉をかたり続けて、彼の信仰を強め、不安を除いた。ローマ１０：１７「信仰は、聞くことから始まり、聞くことはキリストについての御言葉によるのです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（６）今も、時々、アブラハムのように、天から、直接神の声を聞いたという人がいる。私は、それには注意が必要であるといいたい。&lt;br /&gt;
第一に、神の声であるかもしれないが、人間の思いであるかもしれない。むしろ、今日は、確実なのは、聖書に神の言葉が記録されている。その神の言葉を、聖霊様の助けによって、読むとき、神の教えを知ることができる。&lt;br /&gt;
第二に、神の言葉は、聖霊が書かせたことばであるから、聖霊の働きと矛盾しない。聖霊は、人の心に入ってその人の人格を変える。その人は、愛が豊かであり、喜びに満ち、平安な心の人になる。その人の生活は、御霊の実りを結んでいる。そのような聖霊に満たされた人を通して、語る言葉をきかねばならない。Iヨハネ４：１「霊だからといって、皆信じてはいけません。それらの霊が、神からのものかどうか、試しなさい。」もし、立派なことを言う人でも、その人が、我がままで、高ぶっており、自己中心的であるなら、その言葉には注意が要る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　ＩＩＩ、神は、世界の民族を祝福するためにアブラハムを引越しさせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）神は、神の目的をもって我々に働きかける。神がアブラハムを選び、神の民にしたのは、神の祝福を全世界に広める目的のため。１２：１「地上のすべての民族はあなたによって祝福される。」という目的である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）神が、第一にしたことは、アブラハムを最初に祝福すること。１２：２「私は貴方を祝福し、大いなるものとする。」アブラハムが神の御用をするため、まず彼が神に祝福されることが必要。いいかえれば、神に選ばれ、神に従うのは、大いなる祝福の始まりである。我々が、主の日に礼拝するのは、神の祝福を受け、神の御用をするに相応しく整えるためである。今日、礼拝を守る皆様すべてに、神の御用をすることができるように、清められ、信仰が整えられ、祝福をもらうように祈る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）神が、第二にしたことは、アブラハムを神の道具とし、祝福の通路になること。それが、神の祝福を全世界の民に広げることができる。１２：３「地上の全ての民は、貴方によって祝福される。」アブラハムは、神の祝福の道具となって、全世界に神の祝福をもたらす務めに招かれた。それゆえ、神は、カナンという、アジアとヨーロッパの道路が交差する、交通の要路、世界の中心に場所に移した。それは、全世界に、神に祝福されたユダヤ人を見せるためである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）同じく、全世界に福音を伝える道具となることが、我々の任務である。我々の周囲の人々が、教会を見て、神の祝福を知るためである。聖霊に満たされ、賛美をし、教会を通して、神の祝福を周囲の人々に伝えるのである。ペテロはいった。Ｉペテロ２：９「あなたがたを、闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の、素晴らしいみわざを、あなたがたがのべ伝えるためなのです」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論　私達は、言葉を通して、生活をとおして、神の祝福を世界に伝える目的で、神に選ばれた。そして、神に招かれて、教会に引越しをしてきた。我々は、祝福の源である。その神の願いと期待に、応えたい。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/koki4843/65300804.html</link>
			<pubDate>Tue, 25 Jun 2019 21:08:33 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
		</item>
		<item>
			<title>占いの霊につかれた女との戦い　　使徒１６：１６－２３</title>
			<description>占いの霊につかれた女との戦い　　使徒１６：１６－２３&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最近、日本ではおかしな若者が増えて、社会問題となっている。「ひきこもり」という不思議な人が、１００万人以上jもいるという。その人が、突然、学生や大人を刃物で殺す事件が起きている。その事件を知って、おなじく引きこもりの息子をもった次官をした公務員の父が、長男を刃物で殺す事件もあった。引きこもりの原因はいろいろあるが、偶像礼拝や悪霊の働きから来ていると思うが社会生活が出来ないこと。我々は、週一回教会で礼拝をささげ、神と交わり、兄弟姉妹と交わることにより、我々を悪霊の引きこもりから、守っているので感謝したい。&lt;br /&gt;
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パウロ一行は、アジアを出てヨーロッパに渡った。そして、ピリピというマケドニヤの第一の都市で伝道を始めた。そこで、神を敬うルデヤの心を開かれ、彼女は福音を信じるようになった。こうして、ピリピの町でリバイバルが起きた。その後、パウロたちは、ピリピで、再び、祈り場にいって伝道しようと歩いていくと、占いの霊につかれた女奴隷にであった。そこで、パウロと悪霊の戦いが始まった。&lt;br /&gt;
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　　　　　　I　パウロは、悪霊に妨害される&lt;br /&gt;
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（１）１６節「私達が祈り場に行く途中、占いの霊につかれ若い女奴隷に出会った」パウロやシラスが、祈り場にいって説教しようとする途中に悪霊がやってきた。悪霊は、クリスチャンの集まるところに、集まる。ヨブ記１：６「ある日、神の子らが、主の前にたったっとき、サタンもきてその中にいた」悪霊は、悪霊だけで集まらないで、クリスチャンに近づく霊である。注意が要る。&lt;br /&gt;
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（２）占いの霊は、神に反抗する悪霊の働きで、聖書には、この占いの活動を禁止している。レビ記１９：３１「冷媒や口寄せに心を移してはならない彼らをもとめて、汚されてはならない。」韓国でもシャーマニズムという信仰があり、神のお告げを簡単に聞かせる宗教がある。日本でも、手相や姓名判断などがある。手相は、手に出来たしわである。姓名判断についても、昔、吉田茂総理大臣と同じ、名前の人、同じ誕生日が全国に、同じ人が何百人いるが、それぞれいろいろな生活をしていた。&lt;br /&gt;
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（３）占いは、最初は、よく当たるらしいが、やがては人生　が混乱し、破壊するので注意がいる。占い、まじないは、人間が貪欲になり、なんとか、自分の人生を代えたいと願うこころからくるが、それは＜悪魔の仕事場＞から生まれたものである。神に信頼する信仰者は、良いことも悪いことも、神に従って生きる時に、真の幸いがあると信じる。時には、山を登り、谷を下ることもある。しかし、羊飼いにしたがって歩む羊の様に、最後には、羊の住む家に安全に連れて行ってくれると信じる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）しかし、この世には、羊に、沢山餌をやり、楽だけを与えて引っ張って連れまわす人がいる。しかし、最後は、羊を肉にして市場で売るのである。それが、悪霊の行う＜占いやまじない＞である。神の祝福を願う皆さんは、悪霊の支配する占いやまじないやシャーマニズムから離れて、神を見上げて、神の祝福の中で、生活をしてほしい。&lt;br /&gt;
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（５）１７節「彼女は、パウロの後をついてきて、『この人たちは、いと高き神の僕たちで、救いの道を宣べ伝える人たちです。』と叫び続けた。」 &lt;br /&gt;
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（６）悪霊は、人をだます。ヨハネ８：４４「彼は、偽り者であり、また偽りの父である。」時には、悪霊は、その本質を隠して、近づく。時には、素晴らしいと思えるような人の中に入って働く。IIコリント１１：１４「光の御使いに変装する」のである。美しいことばをつかい、優しい姿をしてでてくるのには注意が要る。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　　　　II　パウロは、イエスキリストの御名で戦った&lt;br /&gt;
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（１）１７節「彼女は、パウロの後をついてきて、『この人たちは、いと高き神の僕たちで、救いの道を宣べ伝える人たちです。』と叫び続けた。&lt;br /&gt;
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∥莪譴蓮◆嵌狃蓮▲僖Ε蹐慮紊鬚弔い討た」悪霊は、パウロの後についてくる。悪霊が、クリスチャンと遠く離れて活動するのは問題ないが、クリスチャンの後に、クリスチャンの仲間のふりをしてついてきて、うそや偽りをいい、悪いことをし、混乱と妨害をおこす。悪霊は、パウロのそばに来て、パウロの欠点を見つけ出し、悪口をいうのである。こうしてパウロの伝道を妨害した。&lt;br /&gt;
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（２）異端という宗教がある。たとえば、新天地という宗教が、自分達だけで活動をするのはいいが、クリスチャンの中に、教会の中に忍び込んで、　嘘や偽りや問題を起こすのので、もっと危険である。&lt;br /&gt;
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（３）第二は、彼女の言うことに惑わされてはならない。彼女の語る一部分は正しそうに見える。悪霊は、「パウロがいと高き神の僕であり、救いの道を伝えている人」という。これは、知識として、神と神の僕は知っているが、　真実に神に使え、神の奉仕をし、神の言うことを聞かない。&lt;br /&gt;
ヤコブ７：１９「悪霊そもの神がお一人であると信じている」 占いの霊につかれた女の言うことは、一部分真実のようである。悪霊は、人間以上に、神を知っている。ヤコブ７：１９「あなた方は、神はお一人だと信じています。それは、立派なことです。しかし、悪霊どもも、そう信じて、身震いしています。』。しかし、悪霊は、神をしっていながら、神に服従し、神の御心を行わないのが特徴である。いうことは、りっぱなことをいうが、生活は、聖書の教えにしたがっていない。 私達は、立派なことを言うクリスチャンではなく、立派な、信仰にもとづく立派な行いをするクリスチャンでありたい　。&lt;br /&gt;
クリスチャンの知識とは、単に知っているのではなく、知ってそのとおりに神に奉仕し、その通りに従順になり、その通り生活が神を敬うようにならねばならない。もし、悪霊が、＜パウロが神の僕であると知っているなら＞、パウロに仕えなければならない。しかし、＜パウロに仕えていない＞これは、真実に＜パウロが神の僕であるとしんじていない＞こと。&lt;br /&gt;
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（４）それゆえ、私達は、その人の知識が問題ではなく、謙遜になって仕えているかどうか、その人の行いがクリスチャンの教えに従っているかどうかを、その人が、真実にキリストを知っているかどうかしるのである。&lt;br /&gt;
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（５）第三は、「彼女は、叫び続けた。」これは、パウロの語る福音が広がらないで、雑音を語ること。人がパウロから聞くことを邪魔をしたり、人が、信仰にはいるのを、妨害すること。パウロを妨害することが、自分の使命のように、パウロの邪魔をして、叫び続けるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
III 神が、パウロに勝利させた&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（１）１８節「幾日もこんなことをするので、困り果てた」悪魔は、時間があるひまな人人と働く。悪霊は、パウロの邪魔をする時間が十分ある。そして、パウロの働きを妨害する。しかも、パウロは、占いを追い返そうとしたが、言うことをきかない。＜幾日もそんなこｋとをする＞ので、パウロは、伝道するよりも、悪霊を追い払うことで、疲れ果てた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（２）今日も悪霊は、教職者＝牧師、伝道師が、困り果てることをする。そして、教職者を疲れ果て、病気にし、教会をやめさせるような、妨害をする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（３）悪霊は、ゴキブリのようである。昔、台所でゴキブリを見つけて、新聞紙でたたいた。ぺちゃん床にたたきつけた。それで安心して部屋にもどり、しばらくしてみると、ゴキブリは、はらわたが出たまま、体をヒキヅって、台所の隅にかくれてしまていた。ゴキブリも、悪霊も、徹底的にころさないでいると、息を吹き返して、行き続ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（４）私が大学時代に通ったことのある東京の、堀の内教会という立派な長老教会がある。以前この話をしたが、教会でうるさい議論があり、その牧師が病気になり、福音が伝えられず、ついに教会がなくなったと聞いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（５）それで、パウロは、悪霊に勝利の宣言をした。１８節「その霊に『イエスキリストの御名によって命じる。この女から出て行け。』」パウロは、悪霊にたいして、＜私の伝道の邪魔をするな＞と命令したが、言うことを聞かない。悪霊は、教職者や伝道者のいうことに従わない霊である。それで最後の方法は、イエスキリストで出会わせること。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（６）パウロが、イエスキリストの御名により命令すると、悪霊は、なんと、「すぐに出て行った。」神の命令にはしたがう、奇跡である。サタンも悪霊も、神の命令に従う存在である。また、神の許可をえて、働く。我々は、自分ではわからないが、神の守りに守られて生きている。それゆえ、神を信じて生きる我々は、悪霊がいるので恐ろしいといってはいけない。時には、悪霊から攻撃をうけるが、その攻撃も神の守りの中で受けている。神の守りのなかで悪霊の試みを受けているので心配する必要はない。全能の神の支配と守りが、イエスキリストを信じ、イエスの御言葉を信じる信仰者は、＜サタン＞に勝つことができる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結論。皆さんも、悪霊の働く場所や、悪霊が好きなところに入ってはいけない。入っていくと、悪霊の働きをうける。家の中でも、外でも、はっきりと偶像のしるしやマジナイを、捨てて、綺麗に聖霊の働く場を造らねばならない。&lt;br /&gt;
私は自分の家に、偶像や悪霊のしるしや絵画がないように、注意している。家の玄関の前に、十字架のしるしをぶら下げ、悪霊が家に入らないように警戒がいる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/koki4843/65297862.html</link>
			<pubDate>Tue, 18 Jun 2019 09:56:35 +0900</pubDate>
			<category>宗教</category>
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