越後米沢街道・十三峠交流会 ブログ

・・・「越後米沢街道・十三峠交流会」や事務局(ここ掘れ和ん話ん探検隊)の活動報告など・・・
5月6日、宇津峠のキタコブシが見事に咲いていました。
少し散り始めてはいましたが、まだまだたくさんの白い花をつけています。

宇津峠のキタコブシは推定樹齢200年、樹高20m、幹回り2,5mと、キタコブシとしては県内有数の巨木と言われています。
毎年、まだ残雪の残る春の時期に花を咲かせます。
冬は雪深い峠も、ようやく春めいてまいりました。

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講演会 

 米沢藩(上杉家)と関川村・渡邉家の関わり

 平成28年10月5日(水)表記講演会が開催されました。
本年度は、「越後米沢街道を活用した北陸地方との交流」をテーマとして
「やまがた社会貢献基金」の支援を得て実施されたものです。
 
 この講演会の目的は「越後米沢街道」が藩と藩を繋ぐ役割をも果たしてきたこと、具体的には「米沢藩」が「渡邉家」より絶大な支援を得て、財政を再建したことにあげられます。そのいきさつや歴史的な背景などについて、渡邉邸の見学とあわせて実際に本家本元で実施されました。参加者は越後米沢街道・十三峠交流会会員も含めて32名でした。講演は米沢市の「おしょうしなガイドの会」副会長の前山みゑ子さんにお願いしました。

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≪講演内容≫
「おしょうしな」とは、上杉家に仕えた所だけで使っている方言で「ありがとう」の意味。米沢や置賜地方では当たり前のように使われている。
 この越後米沢街道・十三峠といわれる街道は、米沢では「越後街道」と呼ばれている。大変険しい街道であった。約70kmで、いまから五百年ほど前、江戸時代は上杉家が抑えていたが、その前7年は蒲生氏が、その前212年は伊達家の領地であった。米沢藩のみがこの街道を整備したのではなく、ここ関川村の渡邉家でも、街道の道幅を広げるなどの大改修にも力を入れている。
 米沢への上り荷は「塩」「お茶」「鉄」「海魚」などが運ばれていた。下り荷として「米」(新潟の港から北前船)「たばこ」「青そ」「うるし」等であった。
 
(上杉家の歴史)
 上杉家が米沢を治めるようになったのは関ヶ原の戦いの2年前で、上杉景勝公は豊臣家の家来として戦ったが、敗戦したため、120万石から30万石に減らされた。さらに後継が無くお家断絶のため15万石となった。戊辰戦争の時には3万石となってしまっている。

(上杉鷹山公について)
 九州高鍋藩で生まれた。実際には江戸で生まれ育った。
 10歳の時に上杉家に迎えられた。米沢藩は非常に苦しい時代があった。治憲公は17歳で藩主になっているが、35歳で隠居して米沢藩の立て直しに尽力した。
 「成せば為る。為さねば為らぬ何事も。為さぬは人の為さぬなりけり」という言葉を残した。72歳で亡くなったが、その時までに、受け継いだ借金16万両〜20万両(約400億円)はほぼ返していたが、渡邉家からの借金を返し終えたのは江戸末期と言われている。
 
(上杉家の借金)
 自然災害や参勤交代、短命藩主で、ことあるごとに幕府の言いなりに金を使わされた等の理由により、借金が膨大に増えていった。
 そのために、鷹山公は出費を抑える「一汁一菜」等の大倹約をした。また、金の入る取り組みとして「桑、うるし」等を植栽し量産できるようにした。桑の木が一番の成果であり、桑の葉で養蚕を行い繭を作った。そして、機を織ったのは上杉武士の奥方であった。皆協力して「米沢織」として世に出した。
 「おたかぽっぽ」「成島焼」等もその当時作ったものである。農業も振興し、自ら赴いて農地を増やしていった。
また、米沢に藩校「興譲館」を創った。年寄を敬い、少子化対策(子供を産むことを奨励)、「看病休暇」「草木塔の建立」「ウコギ栽培」「米沢鯉の養殖」等を実践した。
 
(米沢藩の財政)
 米沢藩では藩を運営するため、各地区、各人より借金をしている。
 特に酒田の本間様、越後の渡邉家、三輪家からは大変な借財をしているが、特に渡邉家には語りつくせないほどの恩義を受けている。
 渡邉家は上杉家のために、近隣からかき集めても貸してくれた。
 
(渡邉家への借金の懇願)
 1778年、上杉家老竹俣当綱(たけのまたまさつな)が藩の苦しい実情を訴え、渡邊家の藩政再建のためにお願い状を持って渡邉家に懇願した際の書状が残っている。また、上杉家から渡邉家にいただいた「弾弓」をいただいた。

(上杉家と渡邉家の固い絆)

 1渡邉家から借金をしてから返済するまで150年の歳月がかかっている

 2渡邉家は米沢藩に対して、誠心誠意尽くしてきた。
 3上杉家は渡邉家に常に感謝の意を忘れなかった。
 4渡邉家や鷹山公の人情の深さが深い縁を作った。
 5今もそのような思いが両地区に受け継がれている。

(鷹山公と渡邉三左衛門の共通点)
身分の高低に関わらず、人を大切にし、人材育成に力を注いでいる。優能な人材には積極的に投資し、藩や家のために尽力してくれるよう導いた。将来に備えたお金の使い方の模範となっている。





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越後米沢街道・十三峠 イザベラバードの足跡調査 

越後米沢街道・十三峠交流会では、本年度の事業の主要なテーマとして「山形・新潟交流」があります。
その事業の第1弾として標記事業が科漁りされました。「イザベラ・バード」がみた新潟から山形への足跡をたどり、当時の文化(特に新潟県側)・自然環境・及び人的交流の素材を見い出し、「山形・新潟(東北・北陸)交流」の進展させることを目的に実施されました。


1 日 時  平成28年7月12日(火) 午前9:00〜午後5:00
2 場 所  関川村〜越後米沢街道〜小国町
3 目 的  新潟県と山形県
       県境近辺におけるイザベラ・バードの足跡をたどり、自然環境や歴史・文化及び人的交
       流の素材について実地調査を行い、将来活用可能な「山形・新潟(東北・北陸)交流」
       の素材を見出す。
4 参加者  実参加者 16名
5 講 師   山形県小国町大字松岡 森林インストラクター 古道ガイド 舟山 功氏

一行が調査した主な場所
【国指定重要文化財 渡邉邸】
母屋は文化14(1817)年再建、三千坪の敷地、五百坪の宅地の大邸宅、貴重な建築物や収蔵品が数多く残されている。特に米沢藩との関わりのある品が多い。隣接して「東桂苑」(渡邉家の分家)がある。
                イメージ 2 渡邉邸正面

【せきかわ歴史とみちの館】
 渡邉邸など、旧米沢街道の十八世紀の町並みが模型で紹介されている。越後米沢街道・十三峠の資料も数多く展示されている。
イメージ 1 建物正面

【越後米沢街道・鷹の巣峠】
下川口が峠の入口、新潟県側からは最初の峠である。越後側からは鷹巣・榎・大里の三峠を経て出羽内陸に入る道を「米沢街道」と呼んでいた。ここ入口から入ってすぐに石塔群がある。「庚申」「馬頭観音」の文字、街道が栄えた当時、牛馬が大切にされたことが伺える。
                       
イメージ 3 下川口 鷹の巣峠入口
《二重坂》
 下川口入口から500mほど進むと「米沢街道 二重坂入口」という標識あり。ここから熊坂を登り、一つめの頂上につくが、中ノ沢に下る。また登り、二つめの頂上鷹の巣峠に達する。当時は大変難儀した峠であった。
イメージ 6 熊坂

【越後米沢街道・榎峠】
 入口は国道113号脇から階段を急登するが、これは現在の国道が出来たためである。
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《無名戦士の墓》
 戊辰戦争時慶応4(1868)年、8月1日に、この榎峠での激戦を繰り広げて戦死した米沢藩士と新発田市藩士の供養塔、高さは約110cm、燈身は44cm角である。                           この供養塔は明治元(1868)年、蛇喰(じゃばみ)村弘長寺の住職と集落の人々によって建立された。
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【越後米沢街道・大里峠】
 畑(はた)鉱山跡 わかぶなスキー場より約30分歩くと、畑鉱山跡に着く。ここではかつて200人を超す従業員がいた銅鉱山である。昭和20年に閉山、かつては集落もあった。
山形県と新潟県の境にある峠、大蛇伝説の舞台となった。峠の頂上には地蔵があり、堂内には「地蔵尊」「観音様」「大里大明神」が祀られている。頂上からは日本海が望める。
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平成28年10月8日(土) 本年度最後の越後米沢街道・十三峠トレッキング 4回目が開催されました。
参加者は20名 講師2名 スタッフ4名(1名はおぐにスポーツクラブYu) 計26名でした。
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朝8時30分、川西町まどか脇駐車場で開会式
スタッフ紹介のあと、注意事項など

講師は舟山功さんと三須一郎さん







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小国町間瀬 大久保峠入口にて準備体操
今回も「おぐにスポーツクラブYui」にご協力いただき、バスをチャーターいただきました。極め細かなサポートありがとうございました。











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左側が窪地になっています。
大久保峠の由来は 大きな窪地があることからきているということでした。峠道も地元の方が、今日のために刈り払いをしていただいたとのこと。峠の全ルートではなかったのですが、大変きれいな峠道となっていました。
毎回参加いただいている方々から「段々良くなるねとお褒めの言葉をいただきました。
こんなにきれいに整備されたら、誰でも歩けるように「案内標識」もいれないといけないのかなあ・・・







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宇津峠の頂上 「道普請塔」「宇津大明神」の前で記念撮影 あいにくの雨 
ここと直下の「助け跡」では調査が行われていました。昔の様子が分かるといいですね。
「手ノ子地区協議会宇津峠部会」の方々のがんばりに敬意を表する声が沢山ありました。

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はだか杉の前  ブナも見事でした。                         途中では真下に雲海か 幻想的な風景でした。

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昼食は地蔵堂脇の国道の橋の下、雨をしのいで居心地良く
事務局が準備した「芋煮」完食でした。「温かくておいしい〜」


イメージ 9午後2時
十三等の最後の峠
「諏訪峠」






















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諏訪峠展望所からの置賜平野の眺望は、雨にけむって        諏訪峠を越え、あとはゴールの川西ダリヤ園をめざす。
残念ながら見ることはできなかった。

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諏訪峠の由来ともなった小松の「諏訪神社」その幻想的な佇まいと空間の神秘さに今日の疲れも忘れる。健康で好きな峠歩きやトレッキングができることに感謝した。









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15:10 川西ダリヤ園前の駐車場に到着
全員元気でゴールしました。
ここで、本日の閉会式と4回にわたる「平成28年度十三峠トレッキング」の終了式が行われました。

4回全てに参加し十三峠を走破した方は5名でした。(男4名 女1名) 5名には「十三峠踏破証」「十三峠手ぬぐい」「黒沢峠の苔と草木で作った苔玉」が送られました。

本年も毎回20名を越える参加をいただきました。
講師陣にも年々磨きがかかり、多くの方から評価いただけるイベントになりつつあることを感じました。

皆さんとまたお会いできることを楽しみにしています。
ありがとうございました。
お疲れ様でした。




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「歴史の道百選」、「日本風景街道」に登録され、
イギリス人女性探検家イザベラ・バードの旅行記の舞台にもなった
越後米沢街道・十三峠を全四回に渡りトレッキングします。

第三回は、3600段の美しい古の敷石道が残されている黒沢峠から、バードが宿泊したとされる市野々集落跡を通り、今年新たに古道の一部が整備された桜峠、現在舗装路となっている才ノ頭峠を越え、3つの峠の踏破を目指します。


■日 時■
平成28年8月27日(土) 8:30〜17:00


■コース■
黒沢峠〜桜峠〜才ノ頭峠
(歩行距離:約11.3km)

■案内人■
岡村俊春 氏 (十三峠案内人、黒沢峠敷石道保存会)
三須一郎 氏 (自然観察指導員)

■集 合■
旧白沼小中学校 8:30集合
(山形県西置賜郡小国町大字沼沢547)

■対 象■  どなたでも参加できます

■定 員■  先着20名

■参加費■  1500円(保険料、資料代、等)

■持ち物■
長袖長ズボン、トレッキングシューズ(長靴や滑りにくい靴)、帽子、雨具、手袋、タオル、飲み物、おいしい昼食、敷物

■申込方法■
8月23日(火)までに下記まで電話又はFAX、E-mailにてお申込下さい。




<申込・お問い合わせ>
NPO法人 ここ掘れ和ん話ん探検隊
TEL/FAX 0238−62−5955 (平日8:30〜17:00)
Eメール kokohorewanwan★opal.plala.or.jp
(★を@にかえて送信してください。)

【越後米沢街道・十三峠交流会HP】 http://mount13.web.fc2.com/


*小雨決行。悪天時はコース変更・中止となる場合があります



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