親の苦労

2年ぶりに、庭の紅葉に鳩が巣を作りました。
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忙しくてノーマークだったよ…不覚。
娘によれば、すでに産卵済みとのこと。
これで、樹下に駐車できないし、夏季の庭木消毒もできないし、ベランダに布団も干せません。

一応、家族会議(駆除するのは厳密には条例違反)
父「困ったね。どうする?」
娘A「可哀想だから、そっとしておこうよ」(やっぱりそう来たか)
娘B「あんな丸見えで、カラスに襲われないかなあ」(保護すること前提かよ)
息子C「あれは、一昨年に巣立った子が親になって戻って来たね」(そうなのか??)
A「お父さんとお母さんが代わる代わるに温めてるよ」(観察してたのか)
B「こんなに暑くて大丈夫かなあ」(そこまで知らんがな)
C「巣立ったうちの、飛ぶのが下手だった方の子だね。間違いない」(根拠はあるのかよ)
A「ポーポ、ポッポポーって鳴くよね」(お前ヒマなのか?)
B「お父さんが私たちを睨んでたよ。卵を守っているんだね」(どっちがオスなの?先住民はウチだぜ?)
C「あの子は何て名前だったかなあ」(人の話を聞け!)

誰も父の苦労の心配はせず、他人?の親に共感しています…

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永遠のボーイズ

バックストリートボーイズ(BSB)が新曲を出した!
というニュースを聞いて、おお!まだ活動していたのか!!
とMVを観たわけですよ。

・・・どれが誰だよ。メタボスターズかよ!
もはや昔の面影すら感じない映像がそこにはありました。
そもそもBSBという言葉が通じるのは、どのくらいの世代までなんですかね。

BSBもスパイスガールズも同世代。
学生時代だったもんなあ。あれから20年かあ。
きっと俺も同じなんだろうな、、、
今週は久々に腰痛も出てるもんな。

そう考えると、SMAPはよく頑張ったね。


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正直、驚いたよ

誰もが思ったんだろうけど、
心を打つ若者の会見の翌日に、
恐ろしく醜悪な会見を見せられたね。
正直という言葉がここまで軽いとは。
反面教師として子どもに見せるべきかどうか、、、

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Giant Weight (造語)

GWはいつもと違うことをしなければいけないらしい!?
という、世間のムードに急かされて、
ダイエットしたいのに、逆に思う存分食ってみることにしました。
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深夜に、ハンバーガーと寿司とラーメンをハシゴで食います。
シェイクシャックバーガーは、聞くほどではなかったです。
仕上げに焼き芋食べて終わりにしましょうね。
ゲップ🤤

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先に宣言しておこう。
議論が紛糾するかもしれないが、外野は安易な気持ちでは参加しないように。
何事も責任と覚悟は必要なのだ。だから私はいつも匿名では無い。

さて、何とも面白い雑誌?記事を読んだ。もちろん、この場合の面白いは皮肉である。

現状で特段に許可を得ていないので、リンクは貼らないが、ネット上で公開されているものなので、タイトルを挙げるのは構わないであろう。『JB press』で伊東乾という方が書いている、「受験生必見、入試問題原著者の逆襲」というコラム記事である。私はネット記事を読んだが、冊子もあるのだろうか。
検索すればすぐに全文が出てくるであろうから、冒頭での私の勝手な要約は避けることにする。
まずは、誤解の無いように記事をご覧あれ。自らの解釈の上に立って思考する。当然の作法だ。

で、この記事の何が面白いか。
筆者の伊東氏は、自らの著書が入試問題に引用されたことを機に(記念して?)、読書の意義や大学入試現代文の奥深さについて語られている。と、同時に入試対策を生業とする受験業界に対して、引用著書の意義を踏まえずに文章を分析しようとする意識や力量の欠如を指摘している。当該業界に片足を突っ込んでいる者として、省みて拝聴すべきであろう。その論理が破綻していなければ、だ。

まず、私がこの記事から読み解いた主張はこうだ。
文の一部を解釈するだけで、その文章を書いた著者の見解や意図を曲解した「受験教育」をするな。
大学入試問題はもっと深い思想に基づいて作成されているもので、テクニック的な文の解釈で商売をする受験業界の指導は下らない。受験生諸君よ、そんな小手先に騙されず、深い読書を重ねよ。言い換えて表現すれば、木を見て森を見ずになるな、といったところか。
ところでこの記事、ご本人の本意はどうだか知らないが、受験生へのアドバイスと称して、受験業界を卑下する部分にやたらと力点が置かれている。というか、粗探しに必死である。立派な経歴をお持ちのようだが、何か予備校にコンプレックスを感じるような過去でもあるのだろうか。

さて、内容について触れよう。
人間というのは勝手なもので、伊東氏のようロジカルを自認する人間であっても、頭に血がのぼると自らのことは見えなくなるらしい。以下、この記事と同じ手法で論じてみる。
まずは、どうやら某受験産業から掲載許諾の問い合わせが来た際に、お名前を誤記されたとのこと。一般に名前を間違えられることは、気を悪くすることに繋がりやすい。ご同情申し上げる。私も「烈巳」が「烈己」や「烈美」になっていることは日常茶飯事だし、こんなわかりやすい苗字すら誤記されることがある。だが同時に、自分自身も他人の名前を間違えて覚えたり読み書きすることはあるので、そのたびに他人に同じ不快な思いをさせているであろうことと省みる材料としている。
話を戻すと、その名前の誤記に対する皮肉が受験業界に対する批判の準備であると。
もちろん、お手紙を差し上げるにあたって、相手のお名前を確認するというのは、礼儀として欠かせないことだ。間違えた方に相応の責任はある。ただそれを業界や組織の性格に起因させることが出来るかどうかは別問題だろう。
その上で、教養がおありである筆者は、何かを執筆する際には、引用を間違えないように細心の注意と敬意を払うようにという作法を当然に知っているはずだ。では、記事中の代ゼミの解説を引用した部分を挙げよう。
「やや読みにくさを感じる受験線もいたかと思われる」
受験線て何なんだ。もちろん、こんなものは単なる変換ミスだろう。どういう読みで変換すればこんな字になるかは知らないが。
もしくは、筆者ではなく、よくある編集のミスだ。
例えば、私の下らない著作を伊東氏のような方の名著と同列に並べる気は毛頭ないが、一応として出版物という形だけを共通点に経験を述べさせていただくなら、編集の段階で手直し??された結果、出版物が誤字だらけになっているケースは珍しく無い。私の場合など、単語の位置を入れ替えられて、文脈すら逆にされてしまったケースもある。
もちろん、最終段階で確認する責任が筆者にあるわけだが、自分で書いた原稿を頭の中に置きながら、それとの字句の照合は、ウォーリーを探せか10回10回ゲームかという意地悪な作業になる訳で、どうしても見過ごしが出てしまう。
ただし、それでも文章に自分の名前を冠して世に出した以上は、間違いの最終責任は自分にあると認識するしかないわけで、読者の方から誤りの指摘を受けるたびに、顔から火が出そうになるのをこらえつつ不備をお詫びしている。そして、自分は他人の意図せぬ変換ミスや誤文をあげつらうことは控えようと、自省に役立てるわけだ。
さて、受験産業から伊東氏への郵便が手書きだったか活字だったか知る由もないが、他人の誤字をあげつらう中で、引用部に同音異義ですらない誤字をするのは、なかなかの恥ずかしさだろう。
ただし、私が今回指摘したい根本は、そんな下らない誤字だの何だのの部分ではない。
例えば伊東氏は、大学入試を作成する方々はもっと深い思考のもとに、読者の問題意識や読書体験を考察した作問をしていると「推測」している。複数の人間が作問のための委員会を結成しているという、一般的に首肯できる部分はともかくとして、自らが所属するわけでない大学の作問人数まで推測するとは恐れ入りますが。
もちろん、知っている情報を書いたら作問者の守秘義務違反を公表することなるわけだが。「間違いなく早稲田文学部の専従の先生でしょう」まで来ると、もはや誰かのツッコミを待っているのかと思えて仕方ない。言語水準云々を語るわりには、「間違いない」という言葉の随分と軽い方だ。
で、その国語入試は受験屋である代ゼミの先生「個人」には分析し得るものではないと断じるわけですが、この解答速報を個人が作成しているという前提の方は何が根拠だったのだろうか。少なくとも私は代ゼミの中にいて、完全に個人が解答速報を掲載しているという話は知らない。良い意味でも、悪い意味でもだ。安易に複数の意見を集めれば、主張や理解は不統一になりがちだし、責任も不明確になる。人間関係によっては(おそらく多くの日本の組織では)、他者の意向が忖度されて、理論が歪むケースももあるだろう。そもそも講師が解答速報を作成するケースが何割あるのか、私はかなり疑問だ。
ちなみに、私は論述日本史の看板背負っているので、代ゼミから速報される国公立系の解答例が私の作成によると思っている受験生がいると思うが、ここ数年はそこにはほとんど関わっていない。自分のテキストの解答例なら責任を持っているが。だから、組織の発表とは異なる意見を持っていることも多々あるわけだ。
そして、ここで問題なのは、伊東氏が比較に近い扱いをした早稲田の問題と代ゼミの概評は、いずれも作成者に関して伊東氏が根拠不明な推測をした上で、一方的に断じられているということだ。さすが論理的な先生、恐れ入る。
そもそも、大学入試が文章の一部分だけを切り取って「国語」の試験にすることに対し、その行為の是非を問う声は、私が受験生だった20年以上前からあった。受験生だって耳にするレベルなのだから、社会一般でそういう認識は広がっていただろう。伊東氏は一世代上の方のようですから、彼の受験生時代は知りませんが。
そして、その問題を長期にわたって指摘され続けながら、その本質的解決ができてないのは、大学の方ではないのだろうか。学術的水準の高いはずの。
もちろん、指摘された代ゼミの概評が正しいといっているわけではない。私だって受け持ちの日本史については、会社の解答速報に苦情を入れることもあるし、当該の国語にも様々な見解があったのだろうとは思う。
ちなみに伊東氏は、大学入試問題は教養ある先生方が作問しているので、受験業界が教える小手先のテクニックなど不要だと仰るわけですが、どのくらい受験業界の授業を知っているのでしょうね。もちろん、そういったものを売りにしている方もいらっしゃると思うが、受験生の需要が様々にあるわけで、それに対応する講師のやり方も様々だ。私の担当する分野など、小手先テクニックで答案書いてしまうと厳しいことは受験生でもわかるタイプの問題であり、常に作問者が歴史学研究の中でどんな意識を持っているかを分析しなければ、人前に出せる解答例すら作成がおぼつかない。これを限られた時間で生徒にフィードバックし、学習方法をアドバイスするのに日々苦労している。私が何かテクニックでも持っているなら、逆に指摘してもらいたいくらいだ。特技として売りにできるかもしれない。
「すべての塾や受験産業が悪いというつもりはない」と述べながら、「塾に登壇している人たち」を一般化して、そこには「数学でも物理でも日本史でも世界史でも」本質は何もない、と断ずる浅薄さ。やっぱり、活躍の幅の広い方には、自ら掲げた一般的な理論すら当てはまらないわけですかね。なにせ国語の入試速報を根拠にするだけで、理数でも歴史でも、現場で語られている内容に本質があるかどうかわかるわけですから。スルメからイカどころか、魚貝の全てを見通せる超人のご様子で、何とも羨ましい限りです。

伊東氏が受験業界とは思考の深さが違うとする大学の入試問題について、一つ経験をお話ししよう。
北海道大学2015年入試の日本史において出題資料に使用された史料文についてである。
それは甲斐国(山梨県)に関する江戸時代末のもので、その中にこの様な意味合いの文がある。
「徳川家康様が甲斐国を支配することになった際、この村に諸税免除の印判状を下さっている」
そんな大昔の入試問でも無いので、気になる方は過去問集でも確認していただきたい。
上記の訳文には当然に私の解釈が反映されているので、本来は「正確に」引用したいところだが、ほとんどの読者はその文の解釈ができないであろうことから、ここでは敢えて訳文とさせていただいた。
そして、この部分には下線が引かれて設問が付されているのだが、設問はこの村が免除された「諸役(諸税)」を具体的に答えることを要求している。
あり得ない。
前後の設問趣旨から考えても、この設問は江戸幕府が課した諸役とその免除を問うているわけだが、徳川家康が甲斐国の支配権得た天正10年(1582年)には、後の江戸幕府の諸役体制は整備されていないし、そもそも、該当村落の各古文書からは天正期の徳川氏が免除した諸役は関銭を主体とするものであることが分かるが、江戸幕府の成立以後は関銭の徴収自体が行われないので、それは個別免除の対象にならない。本来は複数の関係古文書の存在を指摘したいが、一般の方には意味がわからないだろうから、ここでは控えることにする。
つまり、簡単に言うと、この文は近世の諸役が免除されている証拠にはならないし、受験生が近世の諸役として学習するどんな単語を答えたところで、歴史学的に正解にはならない。さらにいえば、甲斐国は武田信玄や徳川家康の伝説を利用した偽文書が数多いことで知られており、この諸役免除の文言も、その伝承自体が事実であるかどうかはまた別の問題が発生する。私は当該文書を含めた古文書を収録する山梨県史の編纂者で当該地域の解説者ともやり取りしたが、やはりこの設問は成立しないというお考えであった。そもそも、幕府創設後の家康が一村落に印判状を与えることすら疑問だと仰った。なるほど、確かにその時点で不自然でもある。
研究の世界につま先を突っ込んで火傷しかけた私程度が見て疑問に思うのだから、大学で該当の時代を研究する先生がそこに気付かずに作問するわけが無い。「専攻の先生」ならだが。
しかし、我々は受験業界の宿命として、受験生用の解答を出さなければいけない。また、私は研究者の先生方を誰よりも尊敬申し上げているので、何かしら私の気付かない意図が含まれた設問であることを期待しつつ、何気ない顔でこの設問を解説し、受験生が知りうる範囲で解答例を示した。
そう、私はリスペクトしている。ストイックな研究の世界で生き残ってきた大学の先生方を。だから、その専門知識に敬意を払いながら、常に著作や入試問を分析する。
そして同時に、その特別な世界と技量の狭さが、入試問題を作るということに関しては、必ずしもプラスに働かないことも認識しているつもりである。伊東氏がいうように、大学入試の問題は大学専任の先生が合議して知性に溢れた深みのあるものとなることが自明なら、この様な問題は手抜きして受験生を軽んじた事例ということになるのだろうか。
伊東氏にとって北大は大学では無いというなら、もちろんこの事例など何の関係も無いが。ただ、その場合は、世の大半の受験生は、そもそも伊東氏の議論の対象外ということになる。実際、現在は入試問題を受験業界に外注する大学すら多くあるから、そんなもの大学入試とは認めないと仰るかもしれない。私もそういった風潮には反対だ。しかし、現実である。
それら全ての現状を知らずしての、あの様な記事だとしたら、筆者こそが自らの狭い見識を認識すべきだろう。

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また新年度

新年度の忙しさに備えて、
春休みをもらっていました。ごめんなさい。

そろそろ、全員揃っての行動は難しくなってくる子どもたちとも、思い出作りです。
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ローカルスイーツに舌鼓。ミルキーだったね。

父の影響で、こんな若いうちから温泉好きになってしまいました。竹久夢二デザインの浴衣。
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もちろん、色気より食い気。これで、まだ半分だけ並んだ料理です。太る〜
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あ、もちろん、仕事しながら行ったんですよ。温泉は「ついで」ですったら。もう・・・
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え?遊んでない、遊んでないよっ、全然・・・ねえ通りすがりのサナダムシ君。

1人で頑張る母の手伝いに、実家にも行きます。
え、カープの開幕戦は「ついで」ですよ。ついで・・・
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今年も優勝しときんさい!

さあ、充電は完了です。
今週からは生徒も登校して、学校教師も本格化。
そして、来週からは代ゼミも開講!
今年度も木曜日限定で、
3・4限(13時半〜17時)に「東大エグゼクティブコース日本史」(本部校限定)
5・6限(17時半〜21時)に「日本史論述」(サテライン放送にて全国で受講可)
国公立用の日本史講義してます。よろしく!

で、今日はいきなり入学式無料体験プレ講習のハシゴだ!

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3月10日

前にも同じタイトルでブログ書いたかな?
何かレミオロメンの歌にも似たようなのあったような。
あれは卒業の歌か。

でも、長いこと予備校講師をしてきた私には、
どうしても東大の合格発表の日です。
もちろん、東大だけが大学じゃ無いし、
他の日も気にはなっているのですが、
やっぱり象徴なのと、オーラスだからね。
(後期に日本史あることはまず無いので…)

受かったみんな、本当におめでとう。
本当に嬉しいです。よく頑張ったね。
残念だった君、悔しいね。
君が泣かないから、俺も頑張りました。泣かないように。
きっともう少しだったね。

試験ですから、合否は分かれます。
講師の思うようにもなりません。
努力の順番に上からあげたくても、そんな権利はありません。

でも、ただ授業しているだけでは無いんです。
苦しんで頑張っている、その姿に自分の想いを重ねてしまいます。

いつも同じこと書いているはずですが、
合格した人は、あなたと同じように、その学校に恋い焦がれた人がいたことを忘れないであげて欲しいな。そして、思いっきり大学生活を充実させて下さい。

人間は一人一人、条件も環境も能力も違います。
でも、進学するにしても、捲土重来を期すにしても、
全てを踏まえた自分の決断だと言えるようになって欲しいです。
たかが日本史講師です。が、その覚悟を教えてきたつもりなので。

君たちの人生の1ページになれますように。
全ての教え子たちへ。

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一昨年の邦画、「モヒカン故郷に帰る」をビデオで視た。
特に優れた作品とは思わなかった。
同じ松田龍平主演で路線も似た感じの作品で言えば、
「ジヌよさらば」の方が断然良い出来だと思う。

が、しかし。
どうしてもオーバーラップするよ。これだけ設定揃えられると。
広島の田舎から上京して好きなことやって何年も帰省せず、
子どもができたから結婚すると突然宣言するドラ息子(長男)。
ガンであっという間に死期が近づく頑固な父親。
カープ狂いの家族。
もろ広島弁の、洒落気のない地元女子中学生。
ついでに、宅配ピザの来ない僻地ぶり(笑)。

まあ、山奥と島の違いとか、
永ちゃんファンではないとか、
モヒカンじゃなくて鳥の巣パーマとか、
そういう違いもあるけれど、
全体の雰囲気とか話の筋が、
余りにも自分の世界に重なって、
これ書いたの俺か?と思うぐらいだったね。
ついでに、もたいまさこが演じる母親が母ちゃんそっくりだし。

映画の中で、死の間際の父親が息子に言うんです。
「東京でビッグになって帰って来い。そのつもりで名付けた」
うちの父も病室で最後に会話した時、似たようなこと言いました。
「お前はようやっとる。頑張っとるよ」
息子が父親に褒められるなんて、死別の時だけなんでしょうね。
何にも叶えられず、何にもなれなかった息子を、親は見守ってくれてました。
そんな父親になれるんだろうか。
まだ、人生を語れない半人前です。

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 大阪大学の入学試験で物理の設問に誤りがあったことから、大学入試の問題に対する世間の目が厳しくなっている。アンタッチャブル?な感があって野放しになっていた大学入試問題に緊張感と正確性を要求すること自体は、それによって少なからず人生に影響を受ける、というよりもそこまでの努力に報いるべき結果を待つ若者のことを考えれば、望ましき方向性だと思う。併せて、「可能な範囲で」採点基準を公開すべきだと思うことも、当ブログで過去に主張した通りだし、問題内容の疑義に対するオープンな(そうすることで、便乗する有象無象の売名的なクレームを抑制できるはず)返答システムを確立すべきだとも思う。
 が、しかしだ。
 議論が混同されているような気がするが、明確な「模範解答」を要求することや、些末な部分点の基準を要求することは、大学入試の本質を矮小化する、いかにも視野の狭い行動である。それは、問題には「定型の」解答があるべきだとする、学問の視点とは相反する態度だからだ。
 そもそも、教師でなくとも、試験の採点という作業に関わった経験を持つ人間ならば、採点基準には常に「グレーゾーン」的なものがあることぐらいは実感するはずである。局部的な話からすれば、語学においては表現方法が複数にわたることは想像が難くないし、極端な話、日本語の単語で解答をするタイプであっても、字の美しい汚い、読める読めないの基準は主観が入らざるを得ないことは言うまでもない。そして、話の本筋に戻るならば、解答がわからないものを追求していくことが学問や研究の本質であり、それを探求する機関が大学であることを考えた時、大学入試で問われる能力が、解答を求めようとする「姿勢」であっても何ら不条理なことではないはずなのである。
 センター試験を中心とする大学入試については、現在進行形で改革が唱えられている。文科省のお題目通りに統一試験で実現するかどうかの強い疑義はさておき、その改革の指向が定められた項目の習得を求める知識偏重型でなく、課題解決型にあることは確かである。なればこそ、大学入試問題に「定型」の解答を要求する危険性と矛盾に気付かなければならない。
 こういう議論でいつも事例に使われるので申し訳ないが、東大(国内最高峰ということで宿命と思っていただこう)の日本史入試問題において、過去にこんな設問があった。長文になるのでここでは部分引用に止めるが、誤解のないようにぜひ過去問集等で全文を確認していただきたい。
 
1983年の東大入試より
(前半略)
 「なぜ,平安末・鎌倉という時代にのみ,すぐれた宗教家が輩出したのか。ほかの時代ではなく,どうしてこの時代にこのような現象がおこったのか,説明せよ」。
 この二つの質問には,いまも私は完全な解答を出すことができない。
(網野善彦著『無縁・公界・楽』の序文より)
 上記の文章中の二つの疑問は,高等学校で日本史を学んだ誰もがいだく疑問であろうし,日本の歴史学がいまだ完全な解答をみいだしていないものであると思われる。
 この二つの質問のうち,下線部分の質問にたいして,歴史の流れを総合的に考え,自由な立場から各自の見解を8行以上13行以内でのべよ。
 
 解答の8行から13行というのは、字数にして240字から390字を意味するが、ここではそれは設問の本質に関係ないことはわかるだろう。そもそも、前提として日本の歴史学が解答を「みいだしていない」としているのであって、定型の模範解答など存在しようはずがない。受験生に対して、出題者側が完全な解答を持っていない疑問をぶつけているのである。
 むろん、入試問題としては成立している。この答案で評価されるべきは、質問に真正面から解答しようとしているかどうかや、制限された字数の中で自己矛盾の無い論理展開をしているかどうか、付帯条件である「歴史の流れを総合的に考え」ているかどうか、であろう。
 しかし、ではこの設問の詳細な採点基準を公表できるのか。もちろん、「結果としてこうだった」という事後のまとめは不可能ではないであろう。しかし、それは実際に受験者の答案を採点し終わって、その分析と集計が終わった後であり、あくまで「その回の」結果としての基準である。つまり、大学(作問者)側の想定を超えるような答案(従来にない斬新な視点や論理)が出現した際には、その答案によって基準が変化する可能性があるのであり、所詮は絶対的採点基準とはなりえない。受験当事者たちの答案以外には、適用されない採点基準となるのである。
 自らも片足を突っ込んでいる身で論ずるのは恐縮だが、塾・予備校業界において実施される模擬試験の限界もここにある。模擬試験の存在価値を、本番同様の緊張感や、受験層の中における相対的位置付けに利用するならば、それは非常に意味のあることだとは思う。
 しかし、日本史の問題についていえば、単語や局所的な文節の「有無」で部分点を採点し、その合計点をもとに合格ラインへの到達を判定する傲慢、受験生や妄信的な保護者・教師に与える影響力を考えると、それが必ずしもプラスに働いているとばかりは言えないのでは無いだろうか。多少、バイアスを意識せざるを得ない私の意見ですらこのようであるから、大学の作問者側の気持ちは如何ばかりであろうかと推測する。(いちいち受験業界の模試に反応はしないだろうが)
 今回、大阪大学の問題不備を指摘したのが、塾・予備校関係者だったと報道されたことで(他にもたくさんいたはずだが)、大学に塾・予備校の意見を重視せよとの声が一部からあがっているように見える。もちろん、誰が指摘しようとも、間違いは間違いであるし、立場の違いによってその指摘を軽んじることは論外であると思われるが、それが高じて、大学入試が塾・予備校業界の指導を基準として作成されることが正しいという意見が出るならば、それは本末転倒どころか、仮にも学問という体系に所属しようとする者にとって、自分自身を絞首するような行為である、と警鐘を鳴らしたい。

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以前、某予備校さんが、受験川柳なるものを紹介していました。
本当に生徒から募集したのかどうかは知りませんが、
面白いものが多かったですね。
私が好きだったのは、
「よしやるぞ 口から出るが手が出ない」
ってやつでした。何か受験生時代を思い出して懐かしい気持ちになります。
でも最近はすっかり講師目線になってしまったので、
こういう共感型のは作れないでしょうね。

センターで「あり得ない」点数を取ってしまって、
志望校を変えざるを得ない、と講師に愚痴ってる?生徒がいました。
講師も仕事なのでふんふんと聞いていますが、
どう思われているか、生徒は自分で気付けないんでしょうね。
「ありえない 思ってるのは自分だけ」
「本番で 出せる力が実力だ」
厳しい?作品が頭の中で浮かんできます。
でもね。偶然じゃないんですよ。
それを自覚できない限り、何年受験生「もどき」やっても同じ事です。
抜き打ちではなく、決まった日に行われる入試は、
体調管理も含めてあなたたち次第なのですから。

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