心の旅と世界旅(心への旅・心の外への旅)

こころの旅・世界旅、心身の健康と心の安定、禅の心、生き甲斐について

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 臼杵
 日豊線の臼杵駅に降りてみた。駅前には何も無い。駅を背にして橋を渡りまっすぐ7〜8百メートル行った突き当りの左側に臼杵城址がある。街はその城址の北東側に開けている。ここは最近城下町の街並みとして、杵築と共に町並みを保存し、観光スポットとして売り込んでいる。城から見て北北東の山際の寺町の辺りでは、場所によると木造建築の古いお寺・民家・瓦(いらか)しか見えず、まるで江戸時代にタイムスリップしたかに思える所がある。
臼杵に日本の歴史を大きく変えた事件があった所がある。
臼杵・佐志生(さしう)・黒島。日豊線佐志生駅をおり海のほうへ下って行った佐志生より目と鼻の先、海上250メートルくらい離れた小さな島、黒島がある。(地元では海水浴場として知られている。) ここに(佐伯の大入島=おおにうじまとの説もあるが)1600年の関が原の戦いの少し前、オランダ船リーフデ号が難破漂着した。リーフデ号は、オランダが西回り(大西洋・マゼラン海峡・太平洋経由)で、初めて派遣したオランダの5隻の艦隊の一隻であった。(他は離散した。)リーフデ号の乗組員の中に、日本史でも有名な、ヤン・ヨーステン(オランダ人)、ウイリアム・アダムス(イギリス人・三浦按針)がいた。ここで重要な事は、リーフデ号はその船尾にエラスムス像を飾っていたと言うことである。(この像は現存する。栃木の龍江院と言う所が所有し、東京国立博物館が寄託を受けている。私は上野と大宰府で見たことがある。)エラスムスは、オランダの人文学者で、カトリックを批判し、ルターと並び****タントの象徴であり、少なくとも****タントの象徴と解釈・理解されていた。宗教改革では、ヨーロッパでは『エラスムスは卵を産んで、ルターがこれを孵した』と言われるように、エラスムスは****タントの象徴であり、エラスムスの像を船に飾ってあったと言う事は、****タントの証拠を示していたと言える。リーフデ号がエラスムス像を飾っていたのは、明らかにイ**ス会とは違う、布教目的で無く領土的野心も無く、あくまで交易が目的、と言う意思の表明であったのではなかろうか。スペインは中南米のアステカ・マヤ・インカ、アジアのフィリッピンを征服占領・植民地化し、ポルトガルはブラジル・東インドのモルッカ諸島・中国のマカオを征服占領・植民地化した。そして共に日本に明らかにカトリック布教を目的として日本に来ていた。しかし、スペインからの独立でスペインと戦っていた新興国オランダ(1648年に正式にスペインから独立。)は、****タントで交易以外キリスト教布教・領土的野心はない、ということをアピールしたのではなかろうか。リーフデ号のオランダ人乗組員ヤン・ヨーステンは、こう徳川幕府を説得したのではなかろうか。実際島原の乱の時、オランダは海上から反乱軍に砲撃を加え、カトリック教徒を攻撃し、幕府の信認をえた。これによって、幕府は、ポルトガル・スペインを追い払い、オランダと幕末まで交易する事となった。(リーフデ号で、臼杵黒島に漂着し徳川家康に面会したヤン・ヨーステンの功績が大きく、徳川幕府の外交政策を決める決め手になったと思う。)イギリスとの交易については余り知られていない。イギリスは、ヘンリー8世の時王の離婚問題でローマ教皇と対立し、ローマ・****ク教会と別に、イギリス国教会を確立していた。リーフデ号が漂着した1600年頃イギリスは、エリザベス1世の治世であった。女王は、イギリス国教会をローマ****クに近いものとするか***スタントに近いものにするか混乱があったところ、結局***スタントの方向に舵取りをした女王であった。その事のウイリアム・アダムスの徳川幕府に対する説得もあってか、オランダと共に日本との交易が認められていた。そして一時期イギリスは日本と交易をしていた。しかし、イギリスはアンボイナ事件で一時東南アジアでのオランダとの競争に敗れ、活動の中心をインド植民地に集中し、日本から一度撤退した。イギリスは再度50年後、日本に交易再開を申し入れたが、イギリス国王チャールズ2世がポルトガルの王女と結婚している事、その****ク的傾向を問題にされ、徳川幕府に断られた。(イギリスがポルトガルと同様の国になることを恐れたためであろう。)
 この為、世界の情勢は、オランダの時代からイギリスの時代に変化していたが、日本はオランダと長崎出島を通じて、幕末までオランダとのみ西洋との交易をすることとなった。
以上、臼杵・佐志生・黒島への、リーフデ号難破漂着事件は、その後の日本の徳川時代の外交政策に大きな影響を及ぼしているのである。
 話は前後するが、臼杵城は、大友宗麟が戦乱の退避城として臼杵の丹生(にう)島(今は埋立てられて島の面影は無いが)に作られた。この城で有名なのは、薩摩との戦争で日本初の大砲と言われる『国崩し』2門が使われたことである。(この大砲はポルトガルから送られたと言われる。大友宗麟が**シタン大名で無ければ、そんな危険な物を譲り渡さなかったであろう。)靖国神社の本殿の右側に博物館(遊就館)がある。ここでこのとき使われたと言われる大砲を見たことがある。(臼杵の観光案内所と臼杵城跡にレプリカが置かれているが、靖国神社のコピーだと言う事である。)形状からして後ろ込めの大砲のようであった。(2門のうちもう一門はどこに行ったのか、記憶違いでなければ、鹿児島の磯庭園に大友からの戦利品として置かれていた様に思う。)臼杵には唐人町と言われる所が現在もある。大友氏の時代南蛮貿易が盛んでここに唐人が住んでいたのであろう。(ここに唐人と言うのは、唐人お吉に見られるように、必ずしも中国人と言う意味ではなく、外国人・異人でありスペイン・ポルトガルのいわゆる南蛮人が住んでいた町と言う意味であろう。)
 臼杵は、大友氏が滅んだあと、福原氏太田氏稲葉氏と続き、稲葉氏が幕末まで居城した。
臼杵は、深田の臼杵石仏でも有名である。我々が昔見学に行った時は荒れ果てていて、大日地如来像の仏頭は地上におかれたままであったが、今は修復が為され1995年に国宝に指定された。臼杵は又昔から醸造業の盛んな所である。酒・味噌・醤油が昔から作られていた。今でも、醸造業の企業が存在する。
昭和40年代には、大阪セメント工場誘致反対闘争・法廷闘争(風成=カザナシ裁判)で全国的に有名になった。行政側の産業振興・地域開発か住民側の環境保全・公害防止かの争いであった。それまでセメント工場の白い石灰岩で真っ白く屋根が覆われた津久見の町や、興人のパルプ工場の廃液の為、チョコレート色に濁った佐伯湾を見てきている住民にとっては、公害は深刻な問題であった。結局司法決着がはかられ、高裁判断で土地譲渡契約に瑕疵(かし=欠陥・問題)がある、と言うことで、住民側勝訴で決着した。
臼杵はフグでも有名である。また臼杵から竹田にかけてかぼすも有名である。
 臼杵出身のスポーツ選手として有名な人にマラソンの宗兄弟がいる。(高校は佐伯の佐伯豊南高校で卒業後は、宮崎の延岡の旭化成だったので、彼らは、臼杵・佐伯、それから宮崎県北の延岡と日豊線を南へ時間をかけて移動したことになる。)
  臼杵の野津と言えば、大分の人は誰でも知っている『吉四六話』(民話・笑い話・とんち話)の広田吉衛門の出た所である。(野津は、佐伯方面から国道10号線を通って中の谷を越え、犬飼に行く途中の内陸にある。)吉四六(キッチョム)は漬物・麦焼酎のブランドにもなっている。

津久見 
県南の佐伯と臼杵の間に津久見市がある。津久見はみかんとセメントの町として有名である。昭和40年代汽車で津久見を通ると、セメント工場の石灰岩の粉塵でまるで雪が降った様に、町の屋根が真っ白になっていたのを思い出す。(今はそうでないが。)県立高校ながら甲子園常連校だった津久見高校を高校野球ファンの人は思い出すかも知れない。(津久見は今は石灰岩の粉塵も姿を消し、かってのセメント産業華やかかりし頃の面影はなくなり、小さな町になり、車で通ると大友宗麟終焉の地、大友宗麟の墓の標識が目立って見える。)


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