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佐伯(サイキともサエキとも読む)
佐伯市は、今回の平成の大合併で九州一面積が広い市になってしまった。(番匠川水系全域と、宮崎県の県北・延岡の北側に流れ出る北川の上流域の宇目と、海岸部の上浦・鶴見・米水津・蒲江とからなる。)従来の南海部郡がそのまま佐伯市になってしまったからである。臼杵佐志生から佐伯までの日豊線は、リアス式海岸の為日豊線の列車の車窓から変化に富んだ島々・海岸線を真近に見ることが出来る。日豊線の絶景ポイントである。
佐伯より南の宮崎延岡までの日豊線は、山岳地帯の難所で、日豊線開設のとき、海ルート(海岸線蒲江のルート)を取るか山ルート(内陸の直川・宇目重岡・宗太郎峠)を取るかの問題があったが、結局山ルート(内陸ルート)が採られた。その為佐伯から宮崎延岡までは海は見えない。日豊線は大分県南では、山が多くトンネルが多い所なので、未だに複線化されていない。日豊線の佐伯から先はトンネル工事の難工事が多かった為、佐伯の上浦と呼ばれる地域の人々はトンネル・隧道工事を専門とする作業員が多くいた。その為後々までも全国のトンネル・隧道工事に出稼ぎに行く『一人親方』が多くいた。
佐伯は番匠川の三角州に発達した町である。(女島・長島と言う所があるが、たぶん島が三角州の発達や埋め立てでのみこまれてしまったものと思う。)
佐伯は、幕藩時代佐伯藩で2万石の小さな藩であった。ただ『佐伯の殿様浦でもつ』と言われたように、米の生産量石高では測れない海産物による収入が多くあったといわれる。佐伯藩の特産品に干鰯(ほしか)と言うものがあった。昔鰯(いわし)を干してこれを肥料として使っていた。ずいぶん臭い物であったろうが、化学肥料がつくられる前はこれが関西の藍・綿作の農業肥料として主に使われていた(金肥)。その為佐伯藩は、毛利氏が転封になって佐伯に来たごく初期の段階から、沿岸の木を伐採することを禁じた。沿岸の木を切ると海に栄養分が無くなり海が荒れ、鰯が近づかなくなる、と言うことを経験的に知っていたからであろう。最近漁師が、陸地が荒れると海も荒れる陸地に木を植えよう、と言う運動をしているが、佐伯藩では当然のこととして江戸時代の初期から行われていたことである。
高校の時、何故毛利藩と言うのか疑問に思った。中国地方の大大名で、関が原で破れ周防・長門2国に減封となった長州藩の毛利氏と何か関係があるのでは(親戚か分家か)と疑問に思った。後で調べて分かった事は、藩祖毛利高政は豊臣秀吉に仕え備中高松城攻めに参加した。秀吉が本能寺の変を知り、『中国大返し』の時、高政は毛利方へ人質として送られた。その時、毛利輝元からその人柄を愛され『森』も『毛利』も同じではないかと、『毛利』の姓を送られたと言う。(それ以前は森を姓としていた。)秀吉の時代は豊後・隈に2万石を認められていた。関が原の時は、西軍から東軍に味方し、家康に所領をそのまま認められ、関が原の翌年1601年に日田・隈から、佐伯に転封となった。以来幕末まで毛利氏はそのまま佐伯藩の藩主であった。という事であった。それで城山の東側にある養賢寺(臨済宗の寺)の中にある、『毛利家』藩主代々の墓の意味が分かった。
毛利氏が日田から佐伯に転封になって、佐伯氏の居城だった栂牟礼城(とがむれじょう)から今の城山に山城(やまじろ)を築いた。この城は北の丸と西の丸の両翼が長く、あたかも鶴が羽を広げたようだとして、鶴屋城とか鶴城とか呼ばれていた。山城の城郭はその後失火により消失し、麓に三の丸を築きそこで政務を執り政庁としていた。三の丸の跡は、今も城山の登り口の南西部に残っている。
城の東側に県立高校の佐伯鶴城(ツルシロでなくカクジョウと音読み)高校がある。今はどうだか知らないが、雨が降ったあとグランドが使えない時の体育の時間、体育の先生が城山で出席簿を持って城山の上で、出席をとるというのがあった。結構登るのがしんどく(標高140メートルくらい)、学校から頂上まで行って帰ってくれば体育の1時限はつぶれるというものであった。城山には、千葉銚子出身の文人で、1年ほど佐伯に英語教師として赴任してきた、国木田独歩の碑がある。(ついでながら、佐伯に関係する文人として、国木田独歩以外に、佐伯育ちの漫画家の富永一郎も有名である。)
佐伯はリアス式海岸の海があり、量はそれほどでもないが色々な種類の魚が獲れる。これをネタに寿司を、佐伯名物として売り出そうとしている。(2〜3回佐伯の市役所の周りの寿司屋に入ってみたことがある。)
佐伯には、太平洋戦争前昭和の初期、海軍航空隊があった。豊後水道の守りの航空隊設置・飛行場を豊後佐伯にするか宮崎日向にするか問題はあったが、結局佐伯に決まった。戦前海軍航空隊の飛行場が、番匠川の三角州を埋め立て拡張して出来たおかげで、軍都佐伯として町は潤ったと言う。佐伯駅から飛行場の基地まで行く道路の途中の中川の橋は、確か海軍橋と言っていたように思う。実際どうなっていたのか確かめようと橋の名を橋まで行って確かめたことがある。海運橋となっていた。(しんにょう・しんにゅうが付いていた。)これはたぶん敗戦の時GHQの軍国主義的要素の払しょく指示で改名させられたのだと思った。ただしこれは気の利いた改名で、分かる人にはどういう意味か分かるようにしたものであって、思わずにやりとしたものである。戦後海軍の飛行場跡は、戦後工場誘致がなされ、興人のパルプ工場となった。飛行場の跡には、海軍の飛行機用のコンクリートで固めた『防空格納庫』が点在していた。(同じような格納庫はベトナム戦争後のベトナム・サイゴンの空港でも見たことがある。その時はまだ戦闘の傷跡が残り、格納庫は攻撃を受け黒ずんでいた。最近再びホーチミン(サイゴン)に行った時は、消防車・救急車などの格納場としていまだに使われていた。)その後興人のパルプ工場は、佐伯湾にチョコレート色の廃液を流し公害問題がおき、また倒産騒動が起きたことが記憶に残る。
ジョイフル 昭和40年代半ば、佐伯の『幹線道路』(佐伯の人は固有名詞のように使っていた。)沿い、佐伯警察署(大手前から幹線道路沿いに移転した)の方から船頭町へ行く途中、三叉路を過ぎて左側に、小さな食堂が在った。食堂は店を建て替え、一階と二階を店舗とし三階を住宅とする焼肉屋を開いた。これが結構当時としてはハイカラで流行った。そして焼肉園と名称を変え、佐伯から大分に向かう国道10号線沿いの弥生にも支店を持った。その後大分に出て、大分大学の下国道10号線沿いに旦野原店を開いた。そしてその店の後ろに小さな調理場加工場・事務所を作り、大分にも数店舗出店し焼肉店のチェーン店を営んでいた。
チェーン展開については、東京のコンサルタント会社が、箱根で毎月セミナーを開き、ダイエーの中内さん伊藤ヨーカ堂の伊藤さんジャスコの岡田さんらの若くてやる気のある経営者を集め、アメリカにあって日本に無い流通業・サービス業・小売業を日本に広めようとしていた。当時は『流通革命』と言う言葉があった。当時流通は、二重・三重に問屋が物流に介在していた。この複雑な流通を単純化し、メーカー・問屋主導でなく、小売業が力を持ち、小売業主導で良い物を安く消費者に提供し、日本の消費者物価を下げていこうと言う運動であった。
九州では、この流通革命・小売業チェーンとしては、佐伯の寿崎さんが、箱根のセミナーに参加し、寿屋チェーンを展開していた。(寿屋はその後九州全体に店舗網を広げるため、熊本に本社を移し多店舗展開を進めて行った。この時期有力スーパーは全国で陣取り合戦を行っていた。寿屋は、後に巨大な借り入れと多店舗展開による不採算店の増加で、次第に傾屋と言われだし、ついには倒産した。寿屋の発祥の地佐伯市大手前のスーパー・デパート(?)の大きなビルは『つわものどもが、夢の跡』で、解体され無くなってしまった。倒産の真の原因は、ダイエー中内さんと同じく、カリスマ指導者に対する歯止めがかから無かった、ということであろう。ダイエーに至っては、最初は流通革命をうたいながら次第に不動産バブル・不動産錬金術の魔力にとりつかれ、しまいには不動産屋が小売もやっていると言うような状況になっていた。)
ジョイフルの創業者は、佐伯の寿屋の寿崎さんが箱根のセミナーに通っているのを知ってだと思うが、東京の流通のセミナーに通い始めた。これで焼肉屋のチェーン展開を始めていたのである。そしてまた大分に面白い焼肉屋があるということで、大分の肉の問屋さんの紹介で、大阪のフレンドリーの創業者重里善四郎社長(故人)と知りあえた。ここで重里社長から、これからはファミリーレストランがいい、ファミリーレストランをやらないか、との誘いを受けた。当時重里兄弟は大阪の駅の近くで『すし半』を経営していた。重里善四郎さんの弟の重里進さん(故人)は、新業態のファミリーレストラン・チェーン『サト』を先行させていた。弟さんの成功で、重里善四郎社長もファミリーレストラン業態に興味を示し、大阪と京都の間国道1号線沿いの枚方に新しいタイプのファミリーレストランの一号店『フレンドリー』を作ろうとしていた。
こういう状況の中で、当時東京にいた私に(創業者と比較的近い関係にあったので)ファミリーレストランをやらないかとの話があった。そこで神奈川の学生時代に土地勘があった東横線元住吉のデニーズで働きながら、セミナーに通い東京中のファミリーレストランを1年弱研究した。そうこうする内に、枚方の『フレンドリー』が出来上がりそうになって、重里社長から『東京のファミリーレストランを教えて欲しい、気付いた事を教えて欲しい。』、と言う事で、難波の重里社長の自宅に住み込みで、チェック項目50項目くらいを出し、枚方の店を手伝った。これが認められて、(大分の店舗の)参考にするなら店舗も厨房も図面も実際も全て見せてあげる、写真も撮ってよい、との了承をもらった。(今もジョイフルの本社にその張り合わせの厨房写真はあるはずである。フレンドリー枚方店では、6〜7ヶ月手伝い勉強させてもらったような気がする。)
焼肉園はジョイフルと名前を変え、東京のデニーズのオペレーション・枚方のフレンドリー店舗を参考に、大分の197号線沿いの萩原(製材所跡)に、(東京・大阪のハードとソフトのシステムを持ってきて)第一店舗を開店した。(ジョイフルは、最初ココスの図面があったので、ココスにしようと言う話があったが、私が『そんな自己存在意義の無い名前でなく、ジョイフルにしましょう。』と提案した。頭の中に楽しい空間の提供と言う事があったからである。(ココスであれば、全国展開の時茨城の霞グループの『ココス』とバッティングし問題を生じたと思う。ジョイフルの名自体は、最初はカタカナであったが、英語名にした時、単なる英語のアジェクティブ(形容詞)のJoyfulにせず、造語のJoyfull(joy+full)にした為、商標の問題でバッティングせずクリアー出来た。)
その後ジョイフルは、24時間営業・低価格・郊外型・ロードサイド・駐車場完備を売りに九州中に店舗を拡大していった。最初は九州だけであったが、山口下関のガソリンスタンド跡に出店し成功し、全国展開を考えるようになった。全国展開は当初地域子会社を作り子会社ごとに作る予定であったが、社長の代替わりで子会社を吸収し本体で進める事になった。現在ジョイフルは全国700店舗ほどある。
創業者は、ジョイフルを福岡証券取引所に上場し、その創業者利益の一部で、当時四国の来島ドックが持っていた、別府の油屋熊八創業の『別府亀の井ホテル』を買い取り、建て直しシティーホテルとした。これが成功し、『亀の井ホテル』は、低価格・泊食分離・駐車場完備・ロードサイド(駅前立地でなく)・ファミレス融合のビジネスホテル・チェーンを現在目指している。多店舗展開のシステムが完成し、全国ビジネスホテル100店構想を打ち出している。
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