心の旅と世界旅(心への旅・心の外への旅)

こころの旅・世界旅、心身の健康と心の安定、禅の心、生き甲斐について

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 『佐伯の殿様浦でもつ』の佐伯の浦には、津久見浦・上浦・中浦・下浦の4つがあった。津久見浦は、津久見市になってしまった。上浦は、前に述べたように大分南部の日豊線はトンネルの多い所で、ここからトンネル掘りの専門の出稼ぎ・一人親方が多く出た所である。中浦は鶴見と言う所である。演歌『男の港』と言う歌がある。その歌を知っている人は、中心の町松浦(まつら)位は聞いた事があるかもしれない。下浦には、米水津(ヨノウズ)・蒲江(カマエ)がある。トンネルが出来るまでは、ここに佐伯から陸路で行くのは大変だった。海側は断崖で急斜面のつづら折の悪路をジグザグに上り下りしていくしかなかった。不便な所であった。(今では隧道・トンネルで容易にいけるが。)今でも佐伯の浦々は、海産物・干物で有名である。
 大分県の最南端宮崎県境に蒲江がある。日本発の世界企業キヤノンは誰でも知っている。この会社の創業者の一人(最初に創業したという意味ではない。)で初代社長に御手洗毅さんと言う人がいた。この人が蒲江の出身である。御手洗と言う苗字はちょっと興味を惹く苗字であるが、蒲江には多い。本来は神社などで手を清める所と言う意味であろうが、瀬戸内海の大崎下島や愛媛松山興居島などにその地名はある。前に瀬戸内海にいた水軍・海賊が蒲江に流れ着いて、御手洗姓を名乗ったとの話しを聞いた事がある。御手洗毅さんは、北大医学部に進み産婦人科医であった。太平洋戦争後は、もっぱらキヤノンの経営に専念するようになり、カメラ・医療機器・事務機の開発生産をするようになった。(今で言うベンチャー企業であった。)カメラといえば、朝鮮戦争の時米軍が、日本のメーカーを集め、ドイツのライカに変わるカメラを安価で作るよう要請したことが、その後の日本のカメラメーカーの発展の基礎となったと言うことを聞いた事がある。朝鮮戦争・ベトナム戦争の従軍米軍兵士のカメラ購入が日本の精密器機・カメラ産業を発展させたのではなかろうか。(キヤノンもこの恩恵を受けたのではなかろうか。)
 外国人向け英語ツアーで浅草・浅草寺の案内があった。外国人に浅草観音が覚えにくければ、Canonと覚えれば言いとガイドさんは言っていた。このガイドさんは、観音からキヤノンが発想されたことを知っているのだろうかと疑問に思った。キヤノンの創業者の中に観音信仰の人がいて、初めはクウァンノン(昔の人はカをクウァと発音していた。)カメラとしていたのを、あまりにもドメスティック(国内的)なので、キヤノン(英語で別の意味もあるが)としたのである。(観音からキヤノンになった。)
 キヤノンはごく初期の段階から海外に目を向けていた会社である。その影響か中南米や東欧でもCanonの広告をよく見かける。初代社長の息子さんが何代目かの社長をしていたが急逝し、創業者の甥に当たる人が社長になった。(この人も蒲江で育ち高校一年までは、佐伯鶴城に通い、その後東京に転校した。そのキヤノンの社長は、その後経団連の会長になった。経団連の土光さんを知る世代には、アメリカ滞在が長かったせいかアメリカナイズされすぎ、少し奇異に感じられると思うが。)
初代社長が大分蒲江出身、その後の社長にも蒲江の人がいると言うことで、またキヤノンには大分の関係者もいて、キヤノンの工場も大分に何箇所かある。

 宇目 大分県の水系は、山国川、駅館(やっかん)川、筑後川(上流部)、大分川、大野川、番匠川、北川(上流部)に分かれる。宇目は、北川水系で北川上流(下流は宮崎県で、宮崎県境付近に北川ダムがある。)である。宇目は、現在佐伯市に編入されているが、昔は豊後国大野郡宇目郷(国・郡・郷(里)制で言うと)で、幕藩時代は竹田の中川・岡藩の領地であった。(宇目は、日向と豊後の豊後側の国境で、日向・北川からの薩軍の侵入があり、フロイスの本の戦国時代の薩豊戦争でも、明治期の西南戦争でもよく登場する。)
 大分の干し椎茸の生産は、量・質共に日本一であることは、誰もが認めるところである。
実は宇目が日本の椎茸人口栽培発祥の地とされている。(伊豆説もあるが、伊豆は17世紀末から18世紀にかけての話で、豊後岡藩宇目郷の話は、17世紀前半の話で少し古い。)江戸時代の初期、寛永の時代(1624年〜1644年)豊後佐伯藩津久見浦(千怒浦)の百姓源兵衛が、豊後竹田岡藩の大野郡宇目郷・木浦の葛葉(梅津越えをして清川・竹田にいたる手前)で、出稼ぎの炭焼きをしていた。そして偶然、炭焼き用に切り出し捨てた、伐木に椎茸が生えているのを見つけた。たぶんナタで枝を落とした(皮に切れ目を入れた)伐木に、椎茸が生えたのであろう。そのことを注意深く観察して、伐採原木にナタで切れ込みをいれ、自然の風で空気中から椎茸の菌(胞子)を呼び込む人工栽培の方法を確立した。椎茸栽培に適した木は、コナラ・クヌギで椎や樫で無いことも分かった。(たぶん皮の厚いほうが突き破るエネルギーが必要でそれだけ肉厚の良い椎茸が出来るということであろう。)傾山の東側には椎茸の原木となる木が多く、中川藩は直営で事業を行い、椎茸の人工栽培は東の佐伯藩にも広まっていった。元々宇目・木浦(宇目の唄げんか、墨付け祭りで有名)には、木浦鉱山があった。木浦鉱山の産出量が少なくなり、鉱夫の失業対策も兼ねて、岡藩に特に願い出て、農業に影響を与えない範囲内で、と言う事で人工栽培が認められた、と言う事である。(木浦鉱山は、今は廃坑に近いが、今でも舗装道路の滑り止めに使う硬い岩石のエメリー鉱が掘られていると言うのを近くの人から聞いたことがある。)中川藩の直営になった後、最盛期には、日向に通じる街道を遮断して生産し、竹田藩の特産品となったと言う事である。その後源兵衛の出身地津久見のナバ師は、全国にこの椎茸の人口栽培法を広めて行ったとされる。
 昭和17年に鉈目(ナタメ)式に変わる培養種駒が開発されたが、種駒の駒打ちによる栽培法(鉈で原木に切れ目を入れ,風で菌(胞子)が運ばれてくるのを待つ方法から、人工的に原木に菌を打ち込む方法)が普及したのは、戦後になってからである。最近は椎茸人工栽培技術流出による安価な中国産、菌床栽培、によってコスト高の原木栽培による干し椎茸は苦戦している。しかし、中国産に対しては食の安全不信、菌床栽培に対しては、オガクズを固めた菌床栽培より天然原木による自然栽培の方が味・香り・食感・肉質共に上だとして、原木栽培による干し椎茸を好む人も多い。
 宇目には、傾き山の南側、日向高千穂に通じる日之影線、杉が越えの全く人家の見えない季節ごとの感動的な神秘的な山の景色、一枚岩の美しい渓谷の藤河内渓谷もある。(車で一人で行った時は、川沿いの切り立った崖沿いの道は、所々に落石があり、怖い思いもした。)

 以上長々だらだら書いてきたが、結局『心の安定・精神の自由』を如何に図り、自分自身で如何に『考える』か(考える為には、色々な事をいろいろな角度から、多くを広く知らないと考えられない。内部・外部への出来るだけの意識の拡大はその為である。)と言う事を述べて来たつもりである。

 「心の内・外の旅」は、最初の「来た!見た!すごい!」の段階から、だんだん「量は質に転化する。」で、人間の生き方・ものの本質・全体と個の関係を考えるようになってくる。

佐伯(サイキともサエキとも読む)
  佐伯市は、今回の平成の大合併で九州一面積が広い市になってしまった。(番匠川水系全域と、宮崎県の県北・延岡の北側に流れ出る北川の上流域の宇目と、海岸部の上浦・鶴見・米水津・蒲江とからなる。)従来の南海部郡がそのまま佐伯市になってしまったからである。臼杵佐志生から佐伯までの日豊線は、リアス式海岸の為日豊線の列車の車窓から変化に富んだ島々・海岸線を真近に見ることが出来る。日豊線の絶景ポイントである。 
  佐伯より南の宮崎延岡までの日豊線は、山岳地帯の難所で、日豊線開設のとき、海ルート(海岸線蒲江のルート)を取るか山ルート(内陸の直川・宇目重岡・宗太郎峠)を取るかの問題があったが、結局山ルート(内陸ルート)が採られた。その為佐伯から宮崎延岡までは海は見えない。日豊線は大分県南では、山が多くトンネルが多い所なので、未だに複線化されていない。日豊線の佐伯から先はトンネル工事の難工事が多かった為、佐伯の上浦と呼ばれる地域の人々はトンネル・隧道工事を専門とする作業員が多くいた。その為後々までも全国のトンネル・隧道工事に出稼ぎに行く『一人親方』が多くいた。
 佐伯は番匠川の三角州に発達した町である。(女島・長島と言う所があるが、たぶん島が三角州の発達や埋め立てでのみこまれてしまったものと思う。)
 佐伯は、幕藩時代佐伯藩で2万石の小さな藩であった。ただ『佐伯の殿様浦でもつ』と言われたように、米の生産量石高では測れない海産物による収入が多くあったといわれる。佐伯藩の特産品に干鰯(ほしか)と言うものがあった。昔鰯(いわし)を干してこれを肥料として使っていた。ずいぶん臭い物であったろうが、化学肥料がつくられる前はこれが関西の藍・綿作の農業肥料として主に使われていた(金肥)。その為佐伯藩は、毛利氏が転封になって佐伯に来たごく初期の段階から、沿岸の木を伐採することを禁じた。沿岸の木を切ると海に栄養分が無くなり海が荒れ、鰯が近づかなくなる、と言うことを経験的に知っていたからであろう。最近漁師が、陸地が荒れると海も荒れる陸地に木を植えよう、と言う運動をしているが、佐伯藩では当然のこととして江戸時代の初期から行われていたことである。
 高校の時、何故毛利藩と言うのか疑問に思った。中国地方の大大名で、関が原で破れ周防・長門2国に減封となった長州藩の毛利氏と何か関係があるのでは(親戚か分家か)と疑問に思った。後で調べて分かった事は、藩祖毛利高政は豊臣秀吉に仕え備中高松城攻めに参加した。秀吉が本能寺の変を知り、『中国大返し』の時、高政は毛利方へ人質として送られた。その時、毛利輝元からその人柄を愛され『森』も『毛利』も同じではないかと、『毛利』の姓を送られたと言う。(それ以前は森を姓としていた。)秀吉の時代は豊後・隈に2万石を認められていた。関が原の時は、西軍から東軍に味方し、家康に所領をそのまま認められ、関が原の翌年1601年に日田・隈から、佐伯に転封となった。以来幕末まで毛利氏はそのまま佐伯藩の藩主であった。という事であった。それで城山の東側にある養賢寺(臨済宗の寺)の中にある、『毛利家』藩主代々の墓の意味が分かった。
 毛利氏が日田から佐伯に転封になって、佐伯氏の居城だった栂牟礼城(とがむれじょう)から今の城山に山城(やまじろ)を築いた。この城は北の丸と西の丸の両翼が長く、あたかも鶴が羽を広げたようだとして、鶴屋城とか鶴城とか呼ばれていた。山城の城郭はその後失火により消失し、麓に三の丸を築きそこで政務を執り政庁としていた。三の丸の跡は、今も城山の登り口の南西部に残っている。
 城の東側に県立高校の佐伯鶴城(ツルシロでなくカクジョウと音読み)高校がある。今はどうだか知らないが、雨が降ったあとグランドが使えない時の体育の時間、体育の先生が城山で出席簿を持って城山の上で、出席をとるというのがあった。結構登るのがしんどく(標高140メートルくらい)、学校から頂上まで行って帰ってくれば体育の1時限はつぶれるというものであった。城山には、千葉銚子出身の文人で、1年ほど佐伯に英語教師として赴任してきた、国木田独歩の碑がある。(ついでながら、佐伯に関係する文人として、国木田独歩以外に、佐伯育ちの漫画家の富永一郎も有名である。)
 佐伯はリアス式海岸の海があり、量はそれほどでもないが色々な種類の魚が獲れる。これをネタに寿司を、佐伯名物として売り出そうとしている。(2〜3回佐伯の市役所の周りの寿司屋に入ってみたことがある。)
 佐伯には、太平洋戦争前昭和の初期、海軍航空隊があった。豊後水道の守りの航空隊設置・飛行場を豊後佐伯にするか宮崎日向にするか問題はあったが、結局佐伯に決まった。戦前海軍航空隊の飛行場が、番匠川の三角州を埋め立て拡張して出来たおかげで、軍都佐伯として町は潤ったと言う。佐伯駅から飛行場の基地まで行く道路の途中の中川の橋は、確か海軍橋と言っていたように思う。実際どうなっていたのか確かめようと橋の名を橋まで行って確かめたことがある。海運橋となっていた。(しんにょう・しんにゅうが付いていた。)これはたぶん敗戦の時GHQの軍国主義的要素の払しょく指示で改名させられたのだと思った。ただしこれは気の利いた改名で、分かる人にはどういう意味か分かるようにしたものであって、思わずにやりとしたものである。戦後海軍の飛行場跡は、戦後工場誘致がなされ、興人のパルプ工場となった。飛行場の跡には、海軍の飛行機用のコンクリートで固めた『防空格納庫』が点在していた。(同じような格納庫はベトナム戦争後のベトナム・サイゴンの空港でも見たことがある。その時はまだ戦闘の傷跡が残り、格納庫は攻撃を受け黒ずんでいた。最近再びホーチミン(サイゴン)に行った時は、消防車・救急車などの格納場としていまだに使われていた。)その後興人のパルプ工場は、佐伯湾にチョコレート色の廃液を流し公害問題がおき、また倒産騒動が起きたことが記憶に残る。

 ジョイフル 昭和40年代半ば、佐伯の『幹線道路』(佐伯の人は固有名詞のように使っていた。)沿い、佐伯警察署(大手前から幹線道路沿いに移転した)の方から船頭町へ行く途中、三叉路を過ぎて左側に、小さな食堂が在った。食堂は店を建て替え、一階と二階を店舗とし三階を住宅とする焼肉屋を開いた。これが結構当時としてはハイカラで流行った。そして焼肉園と名称を変え、佐伯から大分に向かう国道10号線沿いの弥生にも支店を持った。その後大分に出て、大分大学の下国道10号線沿いに旦野原店を開いた。そしてその店の後ろに小さな調理場加工場・事務所を作り、大分にも数店舗出店し焼肉店のチェーン店を営んでいた。
 チェーン展開については、東京のコンサルタント会社が、箱根で毎月セミナーを開き、ダイエーの中内さん伊藤ヨーカ堂の伊藤さんジャスコの岡田さんらの若くてやる気のある経営者を集め、アメリカにあって日本に無い流通業・サービス業・小売業を日本に広めようとしていた。当時は『流通革命』と言う言葉があった。当時流通は、二重・三重に問屋が物流に介在していた。この複雑な流通を単純化し、メーカー・問屋主導でなく、小売業が力を持ち、小売業主導で良い物を安く消費者に提供し、日本の消費者物価を下げていこうと言う運動であった。
 九州では、この流通革命・小売業チェーンとしては、佐伯の寿崎さんが、箱根のセミナーに参加し、寿屋チェーンを展開していた。(寿屋はその後九州全体に店舗網を広げるため、熊本に本社を移し多店舗展開を進めて行った。この時期有力スーパーは全国で陣取り合戦を行っていた。寿屋は、後に巨大な借り入れと多店舗展開による不採算店の増加で、次第に傾屋と言われだし、ついには倒産した。寿屋の発祥の地佐伯市大手前のスーパー・デパート(?)の大きなビルは『つわものどもが、夢の跡』で、解体され無くなってしまった。倒産の真の原因は、ダイエー中内さんと同じく、カリスマ指導者に対する歯止めがかから無かった、ということであろう。ダイエーに至っては、最初は流通革命をうたいながら次第に不動産バブル・不動産錬金術の魔力にとりつかれ、しまいには不動産屋が小売もやっていると言うような状況になっていた。)

 ジョイフルの創業者は、佐伯の寿屋の寿崎さんが箱根のセミナーに通っているのを知ってだと思うが、東京の流通のセミナーに通い始めた。これで焼肉屋のチェーン展開を始めていたのである。そしてまた大分に面白い焼肉屋があるということで、大分の肉の問屋さんの紹介で、大阪のフレンドリーの創業者重里善四郎社長(故人)と知りあえた。ここで重里社長から、これからはファミリーレストランがいい、ファミリーレストランをやらないか、との誘いを受けた。当時重里兄弟は大阪の駅の近くで『すし半』を経営していた。重里善四郎さんの弟の重里進さん(故人)は、新業態のファミリーレストラン・チェーン『サト』を先行させていた。弟さんの成功で、重里善四郎社長もファミリーレストラン業態に興味を示し、大阪と京都の間国道1号線沿いの枚方に新しいタイプのファミリーレストランの一号店『フレンドリー』を作ろうとしていた。
 こういう状況の中で、当時東京にいた私に(創業者と比較的近い関係にあったので)ファミリーレストランをやらないかとの話があった。そこで神奈川の学生時代に土地勘があった東横線元住吉のデニーズで働きながら、セミナーに通い東京中のファミリーレストランを1年弱研究した。そうこうする内に、枚方の『フレンドリー』が出来上がりそうになって、重里社長から『東京のファミリーレストランを教えて欲しい、気付いた事を教えて欲しい。』、と言う事で、難波の重里社長の自宅に住み込みで、チェック項目50項目くらいを出し、枚方の店を手伝った。これが認められて、(大分の店舗の)参考にするなら店舗も厨房も図面も実際も全て見せてあげる、写真も撮ってよい、との了承をもらった。(今もジョイフルの本社にその張り合わせの厨房写真はあるはずである。フレンドリー枚方店では、6〜7ヶ月手伝い勉強させてもらったような気がする。)
 焼肉園はジョイフルと名前を変え、東京のデニーズのオペレーション・枚方のフレンドリー店舗を参考に、大分の197号線沿いの萩原(製材所跡)に、(東京・大阪のハードとソフトのシステムを持ってきて)第一店舗を開店した。(ジョイフルは、最初ココスの図面があったので、ココスにしようと言う話があったが、私が『そんな自己存在意義の無い名前でなく、ジョイフルにしましょう。』と提案した。頭の中に楽しい空間の提供と言う事があったからである。(ココスであれば、全国展開の時茨城の霞グループの『ココス』とバッティングし問題を生じたと思う。ジョイフルの名自体は、最初はカタカナであったが、英語名にした時、単なる英語のアジェクティブ(形容詞)のJoyfulにせず、造語のJoyfull(joy+full)にした為、商標の問題でバッティングせずクリアー出来た。)
 その後ジョイフルは、24時間営業・低価格・郊外型・ロードサイド・駐車場完備を売りに九州中に店舗を拡大していった。最初は九州だけであったが、山口下関のガソリンスタンド跡に出店し成功し、全国展開を考えるようになった。全国展開は当初地域子会社を作り子会社ごとに作る予定であったが、社長の代替わりで子会社を吸収し本体で進める事になった。現在ジョイフルは全国700店舗ほどある。
 創業者は、ジョイフルを福岡証券取引所に上場し、その創業者利益の一部で、当時四国の来島ドックが持っていた、別府の油屋熊八創業の『別府亀の井ホテル』を買い取り、建て直しシティーホテルとした。これが成功し、『亀の井ホテル』は、低価格・泊食分離・駐車場完備・ロードサイド(駅前立地でなく)・ファミレス融合のビジネスホテル・チェーンを現在目指している。多店舗展開のシステムが完成し、全国ビジネスホテル100店構想を打ち出している。

 臼杵
 日豊線の臼杵駅に降りてみた。駅前には何も無い。駅を背にして橋を渡りまっすぐ7〜8百メートル行った突き当りの左側に臼杵城址がある。街はその城址の北東側に開けている。ここは最近城下町の街並みとして、杵築と共に町並みを保存し、観光スポットとして売り込んでいる。城から見て北北東の山際の寺町の辺りでは、場所によると木造建築の古いお寺・民家・瓦(いらか)しか見えず、まるで江戸時代にタイムスリップしたかに思える所がある。
臼杵に日本の歴史を大きく変えた事件があった所がある。
臼杵・佐志生(さしう)・黒島。日豊線佐志生駅をおり海のほうへ下って行った佐志生より目と鼻の先、海上250メートルくらい離れた小さな島、黒島がある。(地元では海水浴場として知られている。) ここに(佐伯の大入島=おおにうじまとの説もあるが)1600年の関が原の戦いの少し前、オランダ船リーフデ号が難破漂着した。リーフデ号は、オランダが西回り(大西洋・マゼラン海峡・太平洋経由)で、初めて派遣したオランダの5隻の艦隊の一隻であった。(他は離散した。)リーフデ号の乗組員の中に、日本史でも有名な、ヤン・ヨーステン(オランダ人)、ウイリアム・アダムス(イギリス人・三浦按針)がいた。ここで重要な事は、リーフデ号はその船尾にエラスムス像を飾っていたと言うことである。(この像は現存する。栃木の龍江院と言う所が所有し、東京国立博物館が寄託を受けている。私は上野と大宰府で見たことがある。)エラスムスは、オランダの人文学者で、カトリックを批判し、ルターと並び****タントの象徴であり、少なくとも****タントの象徴と解釈・理解されていた。宗教改革では、ヨーロッパでは『エラスムスは卵を産んで、ルターがこれを孵した』と言われるように、エラスムスは****タントの象徴であり、エラスムスの像を船に飾ってあったと言う事は、****タントの証拠を示していたと言える。リーフデ号がエラスムス像を飾っていたのは、明らかにイ**ス会とは違う、布教目的で無く領土的野心も無く、あくまで交易が目的、と言う意思の表明であったのではなかろうか。スペインは中南米のアステカ・マヤ・インカ、アジアのフィリッピンを征服占領・植民地化し、ポルトガルはブラジル・東インドのモルッカ諸島・中国のマカオを征服占領・植民地化した。そして共に日本に明らかにカトリック布教を目的として日本に来ていた。しかし、スペインからの独立でスペインと戦っていた新興国オランダ(1648年に正式にスペインから独立。)は、****タントで交易以外キリスト教布教・領土的野心はない、ということをアピールしたのではなかろうか。リーフデ号のオランダ人乗組員ヤン・ヨーステンは、こう徳川幕府を説得したのではなかろうか。実際島原の乱の時、オランダは海上から反乱軍に砲撃を加え、カトリック教徒を攻撃し、幕府の信認をえた。これによって、幕府は、ポルトガル・スペインを追い払い、オランダと幕末まで交易する事となった。(リーフデ号で、臼杵黒島に漂着し徳川家康に面会したヤン・ヨーステンの功績が大きく、徳川幕府の外交政策を決める決め手になったと思う。)イギリスとの交易については余り知られていない。イギリスは、ヘンリー8世の時王の離婚問題でローマ教皇と対立し、ローマ・****ク教会と別に、イギリス国教会を確立していた。リーフデ号が漂着した1600年頃イギリスは、エリザベス1世の治世であった。女王は、イギリス国教会をローマ****クに近いものとするか***スタントに近いものにするか混乱があったところ、結局***スタントの方向に舵取りをした女王であった。その事のウイリアム・アダムスの徳川幕府に対する説得もあってか、オランダと共に日本との交易が認められていた。そして一時期イギリスは日本と交易をしていた。しかし、イギリスはアンボイナ事件で一時東南アジアでのオランダとの競争に敗れ、活動の中心をインド植民地に集中し、日本から一度撤退した。イギリスは再度50年後、日本に交易再開を申し入れたが、イギリス国王チャールズ2世がポルトガルの王女と結婚している事、その****ク的傾向を問題にされ、徳川幕府に断られた。(イギリスがポルトガルと同様の国になることを恐れたためであろう。)
 この為、世界の情勢は、オランダの時代からイギリスの時代に変化していたが、日本はオランダと長崎出島を通じて、幕末までオランダとのみ西洋との交易をすることとなった。
以上、臼杵・佐志生・黒島への、リーフデ号難破漂着事件は、その後の日本の徳川時代の外交政策に大きな影響を及ぼしているのである。
 話は前後するが、臼杵城は、大友宗麟が戦乱の退避城として臼杵の丹生(にう)島(今は埋立てられて島の面影は無いが)に作られた。この城で有名なのは、薩摩との戦争で日本初の大砲と言われる『国崩し』2門が使われたことである。(この大砲はポルトガルから送られたと言われる。大友宗麟が**シタン大名で無ければ、そんな危険な物を譲り渡さなかったであろう。)靖国神社の本殿の右側に博物館(遊就館)がある。ここでこのとき使われたと言われる大砲を見たことがある。(臼杵の観光案内所と臼杵城跡にレプリカが置かれているが、靖国神社のコピーだと言う事である。)形状からして後ろ込めの大砲のようであった。(2門のうちもう一門はどこに行ったのか、記憶違いでなければ、鹿児島の磯庭園に大友からの戦利品として置かれていた様に思う。)臼杵には唐人町と言われる所が現在もある。大友氏の時代南蛮貿易が盛んでここに唐人が住んでいたのであろう。(ここに唐人と言うのは、唐人お吉に見られるように、必ずしも中国人と言う意味ではなく、外国人・異人でありスペイン・ポルトガルのいわゆる南蛮人が住んでいた町と言う意味であろう。)
 臼杵は、大友氏が滅んだあと、福原氏太田氏稲葉氏と続き、稲葉氏が幕末まで居城した。
臼杵は、深田の臼杵石仏でも有名である。我々が昔見学に行った時は荒れ果てていて、大日地如来像の仏頭は地上におかれたままであったが、今は修復が為され1995年に国宝に指定された。臼杵は又昔から醸造業の盛んな所である。酒・味噌・醤油が昔から作られていた。今でも、醸造業の企業が存在する。
昭和40年代には、大阪セメント工場誘致反対闘争・法廷闘争(風成=カザナシ裁判)で全国的に有名になった。行政側の産業振興・地域開発か住民側の環境保全・公害防止かの争いであった。それまでセメント工場の白い石灰岩で真っ白く屋根が覆われた津久見の町や、興人のパルプ工場の廃液の為、チョコレート色に濁った佐伯湾を見てきている住民にとっては、公害は深刻な問題であった。結局司法決着がはかられ、高裁判断で土地譲渡契約に瑕疵(かし=欠陥・問題)がある、と言うことで、住民側勝訴で決着した。
臼杵はフグでも有名である。また臼杵から竹田にかけてかぼすも有名である。
 臼杵出身のスポーツ選手として有名な人にマラソンの宗兄弟がいる。(高校は佐伯の佐伯豊南高校で卒業後は、宮崎の延岡の旭化成だったので、彼らは、臼杵・佐伯、それから宮崎県北の延岡と日豊線を南へ時間をかけて移動したことになる。)
  臼杵の野津と言えば、大分の人は誰でも知っている『吉四六話』(民話・笑い話・とんち話)の広田吉衛門の出た所である。(野津は、佐伯方面から国道10号線を通って中の谷を越え、犬飼に行く途中の内陸にある。)吉四六(キッチョム)は漬物・麦焼酎のブランドにもなっている。

津久見 
県南の佐伯と臼杵の間に津久見市がある。津久見はみかんとセメントの町として有名である。昭和40年代汽車で津久見を通ると、セメント工場の石灰岩の粉塵でまるで雪が降った様に、町の屋根が真っ白になっていたのを思い出す。(今はそうでないが。)県立高校ながら甲子園常連校だった津久見高校を高校野球ファンの人は思い出すかも知れない。(津久見は今は石灰岩の粉塵も姿を消し、かってのセメント産業華やかかりし頃の面影はなくなり、小さな町になり、車で通ると大友宗麟終焉の地、大友宗麟の墓の標識が目立って見える。)

 大分
大分市は大分県の県庁所在地である。大分は郡名が県名になりその県名がそのまま県庁所在地名になっている。律令時代に豊後の国府(位置は若干異なるが)が置かれた為であろう、ここは幕末まで府内(府内藩)と呼ばれた。鎌倉時代には、大友氏が豊後守護になり以降府内に居城した。大友氏は、大友宗麟の時北部九州一体を支配したが、大友宗麟の子大友義統の時秀吉に改易された。秀吉はどうゆう訳か、改易の理由を明確にしている。結論として大将の資質に欠けるということである。(理由は、朝鮮出兵の時の戦線離脱、薩摩との戦争の時豊後はおろか豊前までの逃げ上がり、日向も領地に入れると言ったのにこれを断ったことである。)(しかし戦国時代大将の資質が問われたのに、宗麟もその臣下も何故義統が大友氏を継ぐことをそのまま認めたのであろうか。宗麟については単なる親ばかと言うことであろうか。その後の豊後のキリスト教禁止と大友家取り潰しと言う大混乱に思いいたらなかったのであろうか。)その結果豊後は、秀吉蔵入地(直轄領)と秀吉臣下に配分された。関が原以降は、(他藩の飛び地・天領以外は)外様大名の小藩分立とその監視の譜代2藩(ここ府内藩と杵築藩)の形となった。戦国時代の大友宗麟の時代府内は、南蛮貿易・カトリック布教の日本における中心地の役割をしたという。現在カボチャと言う野菜が日本に定着しているが、南蛮貿易で最初にカンボジアから豊後にもたらされた物だという。有名なフランシスコ・ザビエルも戦国時代日本に来たとき府内に逗留している。(ルイス・フロイスも逗留し日本史豊後編で豊後のこと豊後布教のことを報告している。)
フランシスコ・ザビエルは、スペインのバスクの貴族出身である。パリ大学でイグナチウス・ロヨラらと知り合い、イエズス会結成し東方にカトリックを広めようとし、インドのゴアでの布教を目指した。 はじめ日本に来て布教する予定は無かったが、マラッカで薩摩の日本人ヤジロウと出会い日本布教を決意し、日本を目指し鹿児島に上陸した。日本でのカトリック布教の許可を天皇将軍から得ようと平戸・北九州・山口・堺・京と行ったが、戦乱で京は荒れ果てあきらめて京を去った 山口大内氏のところに逗留中ポルトガル船が豊後に入港し、請われて豊後に赴いた。その後山口の大内氏が滅んだため、一行は豊後府内に留まり、府内は大友宗麟がカトリックの洗礼を受け、改宗しカトリックを奨励したため、一時カトリック布教の日本の中心地となった。フランシスコ・ザビエル自身は、一度ゴアに帰り、中国布教の必要があると中国本土入国準備中、中国沿岸の小島(サンショアン島)で死去した。(彼の遺体は、腐食せず、マラッカ・ゴアに運ばれたが、多くの奇跡を起こしたとの話がある。)この影響で大分・府内はザビエル由来の物がいろいろとある。  
大分は大きな川が2つも流れていて、水枯れがない都市と言われる。大分川(由布院盆地から流れてくる)大野川(九州山地の東側竹田のほうから流れてくる)の二つの川である。大分市はこの二つの川の三角州と沖積平野で成り立っていたため、余り広い土地は無かった。1964年新産業都市に指定され、三角州の海側の埋立地が造成され、製鉄の新日鉄、化学の昭和電工(ここで製造したやせ薬販売のアメリカでの訴訟で会計上巨大特損を生じさせた事件を覚えている人もいるかもしれない。)、石油の九州石油、などの大企業の大規模工場が出来てきて、工業都市として大きく発展してきた。
 大分で有名な食べ物として、『やせうま』、『だんご汁』を紹介したが、ふぐ(臼杵も有名であるが)も有名である。何故有名かと言うと、前述したように、肝を食べさせてくれるからである。それを知っている大分への出張族は、夜の会合で、ふぐ料理屋で肝も注文し、その後は都町へくりだすというパターンが多いように思う。

 安心院
由布岳・鶴見岳・伽藍岳の北九州側・北側斜面(別府の反対側)の中腹の盆地が安心院である。よそから来た人はアンシンインと読んで安心しているが、アジムと読む。ここは亀のスッポン料理・鏝絵(こてえ)・グリーンツーリズムで有名である。
鏝絵と言うのは、左官さんが漆喰に色を練りこんで漆喰壁に作ったレリーフである。これが安心院によく残っていて有名になっている。グリーンツーリズムとは、農業体験型ツーリズム・農村滞在型ツーリズムである。(漁村滞在型はブルーツーリズムと言うが、山村ツーリズムは色で言うと何になるのかはよく分からない。)本来人間は産業革命が起こるまでは、長い間、農村・漁村・山村に住んでいた。高度に分業化された現代のこの人工的な社会システムは効率的で非常に便利である。しかし何かの原因でシステムが破綻・崩壊してしまうと、人間の食ということさえ他者依存・分業的に成っていて、システム崩壊すると維持できなくなってしまう。その漠然とした不安感があり、何かあった時には最低限の食の自給自足が出来るようにスキルを身に付けておきたいと言う潜在欲求がある為ではなかろうか。(昔は各家庭の家の周りに自家菜園があり、野菜の自給は出来ていた。)又農村・漁村・山村の自然の中でのゆったりしたリズムで生活することは古来からの人間の生活で、心が落ち着きストレス解消にもなると言うことであろう。グリーンツーリズムはだんだん全国で行われてきているが、安心院は其のはしりである。安心院にはサファリーパーク(九州自然動物公園)もある。

由布院 
別府から西に山を越えたところに由布院がある。別府からの車での行き方は3つある。大分を経て久大線・大分川沿いに一般道を遡るルート、九州横断道路を鶴見岳の麓さらに城島高原を抜け由布岳の麓の峠を越えて由布院に下って行くルート、大分自動車道(高速道路)で伽藍岳・鶴見岳・由布岳を『つ』の字状に大回りして、由布院で降りるルートの三つである。九州横断道路を通って由布岳の麓の峠を越えて下っていく途中に絶景ポイントがあり、由布院盆地を西方に全体的に見渡せる。
テレビで全国的に有名になった由布院であるが、由布院と湯布院を混同している人も多い。(同じ読みなので。)よく知らずに印刷物のミスプリントと思っている人もいるのではなかろうか。
由布院と言うのは、由布院盆の中の狭い地域を指す。(例えば由布院駅・由布院温泉・由布岳のように。)湯布院と言うのは、昭和の大合併で由布院と南側の湯平が合併して湯布院町となって使われ始めたのである。(従って湯布院のほうが広域を意味する。また大分県の県名の元となった大分郡は、平成の大合併で由布市となった。その為、由布市>湯布院>由布院と言う関係が成り立つ事となった。ただし温泉保養地というイメージを売り込むために、行政区分の考え方と別に、温泉・お湯のイメージの湯布院と意図的に使う場合もある。)
由布院観光の開発・湯布院の町おこしは、亀の井別荘の中谷さんが有名である。
亀の井別荘は、元々別府観光開発の父油屋熊八の別荘であった所である。
中谷さんのおじいさんが管理をしていて、東京から帰ってきて宿を継いだお孫さんの中谷さんの代になって、もう一度昔の『由布院温泉発展策』の『ドイツバーデン地方の保養温泉に学べ』を思い出し、実際にドイツのバーデン地方を隈無く見学し、『ゆったり、安心、こじんまり』の『滞在型・生活保養温泉地』を目指し、コンセプトを統一しいろいろなアイデアを出して、由布院を今日のような全国的に有名な温泉保養地にしていった。
今日、由布院に行くと、周りを山々で囲まれ、圧迫感ある高いビルも無く、金鱗湖から流れる小川には魚が泳ぎ、藻が茂り、田畑は耕作され田舎の生活があり、時間がゆったりのんびり流れているような感じになる。何か懐かしい昔のゆったりとした農村社会の生活・雰囲気が感じられ、じっと浸っていたい気持ちになる。しかしコンセプトも知らないその場限りの事しか考えないよそ者短期に金を稼ごうとする外部資本が介入し始めると、全国どこにでもあるような観光地になるのではなかろうか。だんだんと俗化して来ている様に感じられる。

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