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			<title>心の旅と世界旅（心への旅・心の外への旅）</title>
			<description>人生50年強生きて来て、感じたこと・思った事・考えた事・体験した事、を述べてみた。
内容は、心の中への旅・インナートリップ（禅について）、心の外への旅・アウタートリップ（国内旅行・海外50カ国一人旅）である。（心・心と体の健康・旅という切り口からも、読む事が出来ると思う。）

心の中への旅では、主に禅について書いている。禅の内容は、現代人の心の安定・ストレス解消・不安の解消や、地域近隣社会の崩壊・人間関係の崩壊による寂しさ孤独感の解消に役に立つかも知れない。又自己とは何か、を振り返って考えようとしている人にも参考になるかも知れない。禅と哲学の関係では、心の持ちようは禅の精神で、物事の考え方・処し方は、哲学の成果を応用して、と言うことを提案している。禅については、心の安定と其の応用（集中力・持続力をつける）だけでなく、禅・仏教の本質とその体得法についても述べているつもりである。又これを読めば、禅とは何かを自分なりに理解し、人にも説明出来、更に又必要があれば外国人にも説明出来ると思う。西洋的な理性・合理主義的な考え方の日本への影響と、それと禅の考え方の関係についても書いている。

心の外への旅（国内旅行・海外50カ国一人旅）では、人は何故旅をするのか、海外５０カ国一人旅、旅行手段としての英語、日本の地理歴史、（日本に関係ある）世界の地理歴史、自分が生まれ育った大分県の地理歴史も述べてみた。

文は約27万３千語（４００字で６８０ページ）あるが、最初から最後まで一本の思考の細い糸で繋げているつもりである。日頃あまりものを考える習慣の無い人、本を読む習慣の無い人が、いきなり読むのは多少難しいかもしれない。時間の無い人は、禅とか武士道とか旅行とか大分県についてとか、個別に読んでもいいと思う。
　（著作権は文章製作者にあり、無断天体を禁じます。）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kokorozentabi</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>心の旅と世界旅（心への旅・心の外への旅）</title>
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			<description>人生50年強生きて来て、感じたこと・思った事・考えた事・体験した事、を述べてみた。
内容は、心の中への旅・インナートリップ（禅について）、心の外への旅・アウタートリップ（国内旅行・海外50カ国一人旅）である。（心・心と体の健康・旅という切り口からも、読む事が出来ると思う。）

心の中への旅では、主に禅について書いている。禅の内容は、現代人の心の安定・ストレス解消・不安の解消や、地域近隣社会の崩壊・人間関係の崩壊による寂しさ孤独感の解消に役に立つかも知れない。又自己とは何か、を振り返って考えようとしている人にも参考になるかも知れない。禅と哲学の関係では、心の持ちようは禅の精神で、物事の考え方・処し方は、哲学の成果を応用して、と言うことを提案している。禅については、心の安定と其の応用（集中力・持続力をつける）だけでなく、禅・仏教の本質とその体得法についても述べているつもりである。又これを読めば、禅とは何かを自分なりに理解し、人にも説明出来、更に又必要があれば外国人にも説明出来ると思う。西洋的な理性・合理主義的な考え方の日本への影響と、それと禅の考え方の関係についても書いている。

心の外への旅（国内旅行・海外50カ国一人旅）では、人は何故旅をするのか、海外５０カ国一人旅、旅行手段としての英語、日本の地理歴史、（日本に関係ある）世界の地理歴史、自分が生まれ育った大分県の地理歴史も述べてみた。

文は約27万３千語（４００字で６８０ページ）あるが、最初から最後まで一本の思考の細い糸で繋げているつもりである。日頃あまりものを考える習慣の無い人、本を読む習慣の無い人が、いきなり読むのは多少難しいかもしれない。時間の無い人は、禅とか武士道とか旅行とか大分県についてとか、個別に読んでもいいと思う。
　（著作権は文章製作者にあり、無断天体を禁じます。）</description>
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			<title>■○▲大分の地理歴史　１３</title>
			<description>　『佐伯の殿様浦でもつ』の佐伯の浦には、津久見浦・上浦・中浦・下浦の4つがあった。津久見浦は、津久見市になってしまった。上浦は、前に述べたように大分南部の日豊線はトンネルの多い所で、ここからトンネル掘りの専門の出稼ぎ・一人親方が多く出た所である。中浦は鶴見と言う所である。演歌『男の港』と言う歌がある。その歌を知っている人は、中心の町松浦（まつら）位は聞いた事があるかもしれない。下浦には、米水津（ヨノウズ）・蒲江（カマエ）がある。トンネルが出来るまでは、ここに佐伯から陸路で行くのは大変だった。海側は断崖で急斜面のつづら折の悪路をジグザグに上り下りしていくしかなかった。不便な所であった。（今では隧道・トンネルで容易にいけるが。）今でも佐伯の浦々は、海産物・干物で有名である。&lt;br /&gt;
　大分県の最南端宮崎県境に蒲江がある。日本発の世界企業キヤノンは誰でも知っている。この会社の創業者の一人（最初に創業したという意味ではない。）で初代社長に御手洗毅さんと言う人がいた。この人が蒲江の出身である。御手洗と言う苗字はちょっと興味を惹く苗字であるが、蒲江には多い。本来は神社などで手を清める所と言う意味であろうが、瀬戸内海の大崎下島や愛媛松山興居島などにその地名はある。前に瀬戸内海にいた水軍・海賊が蒲江に流れ着いて、御手洗姓を名乗ったとの話しを聞いた事がある。御手洗毅さんは、北大医学部に進み産婦人科医であった。太平洋戦争後は、もっぱらキヤノンの経営に専念するようになり、カメラ・医療機器・事務機の開発生産をするようになった。（今で言うベンチャー企業であった。）カメラといえば、朝鮮戦争の時米軍が、日本のメーカーを集め、ドイツのライカに変わるカメラを安価で作るよう要請したことが、その後の日本のカメラメーカーの発展の基礎となったと言うことを聞いた事がある。朝鮮戦争・ベトナム戦争の従軍米軍兵士のカメラ購入が日本の精密器機・カメラ産業を発展させたのではなかろうか。（キヤノンもこの恩恵を受けたのではなかろうか。）&lt;br /&gt;
　外国人向け英語ツアーで浅草・浅草寺の案内があった。外国人に浅草観音が覚えにくければ、Canonと覚えれば言いとガイドさんは言っていた。このガイドさんは、観音からキヤノンが発想されたことを知っているのだろうかと疑問に思った。キヤノンの創業者の中に観音信仰の人がいて、初めはクウァンノン（昔の人はカをクウァと発音していた。）カメラとしていたのを、あまりにもドメスティック（国内的）なので、キヤノン（英語で別の意味もあるが）としたのである。（観音からキヤノンになった。）&lt;br /&gt;
　キヤノンはごく初期の段階から海外に目を向けていた会社である。その影響か中南米や東欧でもCanonの広告をよく見かける。初代社長の息子さんが何代目かの社長をしていたが急逝し、創業者の甥に当たる人が社長になった。（この人も蒲江で育ち高校一年までは、佐伯鶴城に通い、その後東京に転校した。そのキヤノンの社長は、その後経団連の会長になった。経団連の土光さんを知る世代には、アメリカ滞在が長かったせいかアメリカナイズされすぎ、少し奇異に感じられると思うが。）&lt;br /&gt;
初代社長が大分蒲江出身、その後の社長にも蒲江の人がいると言うことで、またキヤノンには大分の関係者もいて、キヤノンの工場も大分に何箇所かある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　宇目　大分県の水系は、山国川、駅館（やっかん）川、筑後川（上流部）、大分川、大野川、番匠川、北川（上流部）に分かれる。宇目は、北川水系で北川上流（下流は宮崎県で、宮崎県境付近に北川ダムがある。）である。宇目は、現在佐伯市に編入されているが、昔は豊後国大野郡宇目郷（国・郡・郷（里）制で言うと）で、幕藩時代は竹田の中川・岡藩の領地であった。（宇目は、日向と豊後の豊後側の国境で、日向・北川からの薩軍の侵入があり、フロイスの本の戦国時代の薩豊戦争でも、明治期の西南戦争でもよく登場する。）&lt;br /&gt;
　大分の干し椎茸の生産は、量・質共に日本一であることは、誰もが認めるところである。&lt;br /&gt;
実は宇目が日本の椎茸人口栽培発祥の地とされている。（伊豆説もあるが、伊豆は１７世紀末から１８世紀にかけての話で、豊後岡藩宇目郷の話は、１７世紀前半の話で少し古い。）江戸時代の初期、寛永の時代（１６２４年～１６４４年）豊後佐伯藩津久見浦（千怒浦）の百姓源兵衛が、豊後竹田岡藩の大野郡宇目郷・木浦の葛葉（梅津越えをして清川・竹田にいたる手前）で、出稼ぎの炭焼きをしていた。そして偶然、炭焼き用に切り出し捨てた、伐木に椎茸が生えているのを見つけた。たぶんナタで枝を落とした（皮に切れ目を入れた）伐木に、椎茸が生えたのであろう。そのことを注意深く観察して、伐採原木にナタで切れ込みをいれ、自然の風で空気中から椎茸の菌（胞子）を呼び込む人工栽培の方法を確立した。椎茸栽培に適した木は、コナラ・クヌギで椎や樫で無いことも分かった。（たぶん皮の厚いほうが突き破るエネルギーが必要でそれだけ肉厚の良い椎茸が出来るということであろう。）傾山の東側には椎茸の原木となる木が多く、中川藩は直営で事業を行い、椎茸の人工栽培は東の佐伯藩にも広まっていった。元々宇目・木浦（宇目の唄げんか、墨付け祭りで有名）には、木浦鉱山があった。木浦鉱山の産出量が少なくなり、鉱夫の失業対策も兼ねて、岡藩に特に願い出て、農業に影響を与えない範囲内で、と言う事で人工栽培が認められた、と言う事である。（木浦鉱山は、今は廃坑に近いが、今でも舗装道路の滑り止めに使う硬い岩石のエメリー鉱が掘られていると言うのを近くの人から聞いたことがある。）中川藩の直営になった後、最盛期には、日向に通じる街道を遮断して生産し、竹田藩の特産品となったと言う事である。その後源兵衛の出身地津久見のナバ師は、全国にこの椎茸の人口栽培法を広めて行ったとされる。&lt;br /&gt;
　昭和１７年に鉈目（ナタメ）式に変わる培養種駒が開発されたが、種駒の駒打ちによる栽培法（鉈で原木に切れ目を入れ，風で菌（胞子）が運ばれてくるのを待つ方法から、人工的に原木に菌を打ち込む方法）が普及したのは、戦後になってからである。最近は椎茸人工栽培技術流出による安価な中国産、菌床栽培、によってコスト高の原木栽培による干し椎茸は苦戦している。しかし、中国産に対しては食の安全不信、菌床栽培に対しては、オガクズを固めた菌床栽培より天然原木による自然栽培の方が味・香り・食感・肉質共に上だとして、原木栽培による干し椎茸を好む人も多い。&lt;br /&gt;
　宇目には、傾き山の南側、日向高千穂に通じる日之影線、杉が越えの全く人家の見えない季節ごとの感動的な神秘的な山の景色、一枚岩の美しい渓谷の藤河内渓谷もある。（車で一人で行った時は、川沿いの切り立った崖沿いの道は、所々に落石があり、怖い思いもした。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　以上長々だらだら書いてきたが、結局『心の安定・精神の自由』を如何に図り、自分自身で如何に『考える』か（考える為には、色々な事をいろいろな角度から、多くを広く知らないと考えられない。内部・外部への出来るだけの意識の拡大はその為である。）と言う事を述べて来たつもりである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　「心の内・外の旅」は、最初の「来た！見た！すごい！」の段階から、だんだん「量は質に転化する。」で、人間の生き方・ものの本質・全体と個の関係を考えるようになってくる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kokorozentabi/1615016.html</link>
			<pubDate>Wed, 01 Oct 2008 17:07:06 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>■○▲大分の地理歴史　１２</title>
			<description>佐伯（サイキともサエキとも読む）&lt;br /&gt;
　　佐伯市は、今回の平成の大合併で九州一面積が広い市になってしまった。（番匠川水系全域と、宮崎県の県北・延岡の北側に流れ出る北川の上流域の宇目と、海岸部の上浦・鶴見・米水津・蒲江とからなる。）従来の南海部郡がそのまま佐伯市になってしまったからである。臼杵佐志生から佐伯までの日豊線は、リアス式海岸の為日豊線の列車の車窓から変化に富んだ島々・海岸線を真近に見ることが出来る。日豊線の絶景ポイントである。　&lt;br /&gt;
　　佐伯より南の宮崎延岡までの日豊線は、山岳地帯の難所で、日豊線開設のとき、海ルート（海岸線蒲江のルート）を取るか山ルート（内陸の直川・宇目重岡・宗太郎峠）を取るかの問題があったが、結局山ルート（内陸ルート）が採られた。その為佐伯から宮崎延岡までは海は見えない。日豊線は大分県南では、山が多くトンネルが多い所なので、未だに複線化されていない。日豊線の佐伯から先はトンネル工事の難工事が多かった為、佐伯の上浦と呼ばれる地域の人々はトンネル・隧道工事を専門とする作業員が多くいた。その為後々までも全国のトンネル・隧道工事に出稼ぎに行く『一人親方』が多くいた。&lt;br /&gt;
　佐伯は番匠川の三角州に発達した町である。（女島・長島と言う所があるが、たぶん島が三角州の発達や埋め立てでのみこまれてしまったものと思う。）&lt;br /&gt;
　佐伯は、幕藩時代佐伯藩で２万石の小さな藩であった。ただ『佐伯の殿様浦でもつ』と言われたように、米の生産量石高では測れない海産物による収入が多くあったといわれる。佐伯藩の特産品に干鰯（ほしか）と言うものがあった。昔鰯（いわし）を干してこれを肥料として使っていた。ずいぶん臭い物であったろうが、化学肥料がつくられる前はこれが関西の藍・綿作の農業肥料として主に使われていた（金肥）。その為佐伯藩は、毛利氏が転封になって佐伯に来たごく初期の段階から、沿岸の木を伐採することを禁じた。沿岸の木を切ると海に栄養分が無くなり海が荒れ、鰯が近づかなくなる、と言うことを経験的に知っていたからであろう。最近漁師が、陸地が荒れると海も荒れる陸地に木を植えよう、と言う運動をしているが、佐伯藩では当然のこととして江戸時代の初期から行われていたことである。&lt;br /&gt;
　高校の時、何故毛利藩と言うのか疑問に思った。中国地方の大大名で、関が原で破れ周防・長門２国に減封となった長州藩の毛利氏と何か関係があるのでは（親戚か分家か）と疑問に思った。後で調べて分かった事は、藩祖毛利高政は豊臣秀吉に仕え備中高松城攻めに参加した。秀吉が本能寺の変を知り、『中国大返し』の時、高政は毛利方へ人質として送られた。その時、毛利輝元からその人柄を愛され『森』も『毛利』も同じではないかと、『毛利』の姓を送られたと言う。（それ以前は森を姓としていた。）秀吉の時代は豊後・隈に２万石を認められていた。関が原の時は、西軍から東軍に味方し、家康に所領をそのまま認められ、関が原の翌年１６０１年に日田・隈から、佐伯に転封となった。以来幕末まで毛利氏はそのまま佐伯藩の藩主であった。という事であった。それで城山の東側にある養賢寺（臨済宗の寺）の中にある、『毛利家』藩主代々の墓の意味が分かった。&lt;br /&gt;
　毛利氏が日田から佐伯に転封になって、佐伯氏の居城だった栂牟礼城（とがむれじょう）から今の城山に山城（やまじろ）を築いた。この城は北の丸と西の丸の両翼が長く、あたかも鶴が羽を広げたようだとして、鶴屋城とか鶴城とか呼ばれていた。山城の城郭はその後失火により消失し、麓に三の丸を築きそこで政務を執り政庁としていた。三の丸の跡は、今も城山の登り口の南西部に残っている。&lt;br /&gt;
　城の東側に県立高校の佐伯鶴城（ツルシロでなくカクジョウと音読み）高校がある。今はどうだか知らないが、雨が降ったあとグランドが使えない時の体育の時間、体育の先生が城山で出席簿を持って城山の上で、出席をとるというのがあった。結構登るのがしんどく（標高140メートルくらい）、学校から頂上まで行って帰ってくれば体育の１時限はつぶれるというものであった。城山には、千葉銚子出身の文人で、１年ほど佐伯に英語教師として赴任してきた、国木田独歩の碑がある。（ついでながら、佐伯に関係する文人として、国木田独歩以外に、佐伯育ちの漫画家の富永一郎も有名である。）&lt;br /&gt;
　佐伯はリアス式海岸の海があり、量はそれほどでもないが色々な種類の魚が獲れる。これをネタに寿司を、佐伯名物として売り出そうとしている。（2～3回佐伯の市役所の周りの寿司屋に入ってみたことがある。）&lt;br /&gt;
　佐伯には、太平洋戦争前昭和の初期、海軍航空隊があった。豊後水道の守りの航空隊設置・飛行場を豊後佐伯にするか宮崎日向にするか問題はあったが、結局佐伯に決まった。戦前海軍航空隊の飛行場が、番匠川の三角州を埋め立て拡張して出来たおかげで、軍都佐伯として町は潤ったと言う。佐伯駅から飛行場の基地まで行く道路の途中の中川の橋は、確か海軍橋と言っていたように思う。実際どうなっていたのか確かめようと橋の名を橋まで行って確かめたことがある。海運橋となっていた。（しんにょう・しんにゅうが付いていた。）これはたぶん敗戦の時GHQの軍国主義的要素の払しょく指示で改名させられたのだと思った。ただしこれは気の利いた改名で、分かる人にはどういう意味か分かるようにしたものであって、思わずにやりとしたものである。戦後海軍の飛行場跡は、戦後工場誘致がなされ、興人のパルプ工場となった。飛行場の跡には、海軍の飛行機用のコンクリートで固めた『防空格納庫』が点在していた。（同じような格納庫はベトナム戦争後のベトナム・サイゴンの空港でも見たことがある。その時はまだ戦闘の傷跡が残り、格納庫は攻撃を受け黒ずんでいた。最近再びホーチミン（サイゴン）に行った時は、消防車・救急車などの格納場としていまだに使われていた。）その後興人のパルプ工場は、佐伯湾にチョコレート色の廃液を流し公害問題がおき、また倒産騒動が起きたことが記憶に残る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ジョイフル　昭和40年代半ば、佐伯の『幹線道路』（佐伯の人は固有名詞のように使っていた。）沿い、佐伯警察署（大手前から幹線道路沿いに移転した）の方から船頭町へ行く途中、三叉路を過ぎて左側に、小さな食堂が在った。食堂は店を建て替え、一階と二階を店舗とし三階を住宅とする焼肉屋を開いた。これが結構当時としてはハイカラで流行った。そして焼肉園と名称を変え、佐伯から大分に向かう国道10号線沿いの弥生にも支店を持った。その後大分に出て、大分大学の下国道10号線沿いに旦野原店を開いた。そしてその店の後ろに小さな調理場加工場・事務所を作り、大分にも数店舗出店し焼肉店のチェーン店を営んでいた。&lt;br /&gt;
　チェーン展開については、東京のコンサルタント会社が、箱根で毎月セミナーを開き、ダイエーの中内さん伊藤ヨーカ堂の伊藤さんジャスコの岡田さんらの若くてやる気のある経営者を集め、アメリカにあって日本に無い流通業・サービス業・小売業を日本に広めようとしていた。当時は『流通革命』と言う言葉があった。当時流通は、二重・三重に問屋が物流に介在していた。この複雑な流通を単純化し、メーカー・問屋主導でなく、小売業が力を持ち、小売業主導で良い物を安く消費者に提供し、日本の消費者物価を下げていこうと言う運動であった。&lt;br /&gt;
　九州では、この流通革命・小売業チェーンとしては、佐伯の寿崎さんが、箱根のセミナーに参加し、寿屋チェーンを展開していた。（寿屋はその後九州全体に店舗網を広げるため、熊本に本社を移し多店舗展開を進めて行った。この時期有力スーパーは全国で陣取り合戦を行っていた。寿屋は、後に巨大な借り入れと多店舗展開による不採算店の増加で、次第に傾屋と言われだし、ついには倒産した。寿屋の発祥の地佐伯市大手前のスーパー・デパート（？）の大きなビルは『つわものどもが、夢の跡』で、解体され無くなってしまった。倒産の真の原因は、ダイエー中内さんと同じく、カリスマ指導者に対する歯止めがかから無かった、ということであろう。ダイエーに至っては、最初は流通革命をうたいながら次第に不動産バブル・不動産錬金術の魔力にとりつかれ、しまいには不動産屋が小売もやっていると言うような状況になっていた。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ジョイフルの創業者は、佐伯の寿屋の寿崎さんが箱根のセミナーに通っているのを知ってだと思うが、東京の流通のセミナーに通い始めた。これで焼肉屋のチェーン展開を始めていたのである。そしてまた大分に面白い焼肉屋があるということで、大分の肉の問屋さんの紹介で、大阪のフレンドリーの創業者重里善四郎社長（故人）と知りあえた。ここで重里社長から、これからはファミリーレストランがいい、ファミリーレストランをやらないか、との誘いを受けた。当時重里兄弟は大阪の駅の近くで『すし半』を経営していた。重里善四郎さんの弟の重里進さん（故人）は、新業態のファミリーレストラン・チェーン『サト』を先行させていた。弟さんの成功で、重里善四郎社長もファミリーレストラン業態に興味を示し、大阪と京都の間国道１号線沿いの枚方に新しいタイプのファミリーレストランの一号店『フレンドリー』を作ろうとしていた。&lt;br /&gt;
　こういう状況の中で、当時東京にいた私に（創業者と比較的近い関係にあったので）ファミリーレストランをやらないかとの話があった。そこで神奈川の学生時代に土地勘があった東横線元住吉のデニーズで働きながら、セミナーに通い東京中のファミリーレストランを1年弱研究した。そうこうする内に、枚方の『フレンドリー』が出来上がりそうになって、重里社長から『東京のファミリーレストランを教えて欲しい、気付いた事を教えて欲しい。』、と言う事で、難波の重里社長の自宅に住み込みで、チェック項目５０項目くらいを出し、枚方の店を手伝った。これが認められて、（大分の店舗の）参考にするなら店舗も厨房も図面も実際も全て見せてあげる、写真も撮ってよい、との了承をもらった。（今もジョイフルの本社にその張り合わせの厨房写真はあるはずである。フレンドリー枚方店では、６～７ヶ月手伝い勉強させてもらったような気がする。）&lt;br /&gt;
　焼肉園はジョイフルと名前を変え、東京のデニーズのオペレーション・枚方のフレンドリー店舗を参考に、大分の１９７号線沿いの萩原（製材所跡）に、（東京・大阪のハードとソフトのシステムを持ってきて）第一店舗を開店した。（ジョイフルは、最初ココスの図面があったので、ココスにしようと言う話があったが、私が『そんな自己存在意義の無い名前でなく、ジョイフルにしましょう。』と提案した。頭の中に楽しい空間の提供と言う事があったからである。（ココスであれば、全国展開の時茨城の霞グループの『ココス』とバッティングし問題を生じたと思う。ジョイフルの名自体は、最初はカタカナであったが、英語名にした時、単なる英語のアジェクティブ（形容詞）のJoyfulにせず、造語のJoyfull（joy＋full）にした為、商標の問題でバッティングせずクリアー出来た。）&lt;br /&gt;
　その後ジョイフルは、２４時間営業・低価格・郊外型・ロードサイド・駐車場完備を売りに九州中に店舗を拡大していった。最初は九州だけであったが、山口下関のガソリンスタンド跡に出店し成功し、全国展開を考えるようになった。全国展開は当初地域子会社を作り子会社ごとに作る予定であったが、社長の代替わりで子会社を吸収し本体で進める事になった。現在ジョイフルは全国７００店舗ほどある。&lt;br /&gt;
　創業者は、ジョイフルを福岡証券取引所に上場し、その創業者利益の一部で、当時四国の来島ドックが持っていた、別府の油屋熊八創業の『別府亀の井ホテル』を買い取り、建て直しシティーホテルとした。これが成功し、『亀の井ホテル』は、低価格・泊食分離・駐車場完備・ロードサイド（駅前立地でなく）・ファミレス融合のビジネスホテル・チェーンを現在目指している。多店舗展開のシステムが完成し、全国ビジネスホテル１００店構想を打ち出している。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kokorozentabi/1614784.html</link>
			<pubDate>Wed, 01 Oct 2008 16:58:46 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>■○▲大分の地理歴史　１１</title>
			<description>　臼杵&lt;br /&gt;
　日豊線の臼杵駅に降りてみた。駅前には何も無い。駅を背にして橋を渡りまっすぐ７～８百メートル行った突き当りの左側に臼杵城址がある。街はその城址の北東側に開けている。ここは最近城下町の街並みとして、杵築と共に町並みを保存し、観光スポットとして売り込んでいる。城から見て北北東の山際の寺町の辺りでは、場所によると木造建築の古いお寺・民家・瓦（いらか）しか見えず、まるで江戸時代にタイムスリップしたかに思える所がある。&lt;br /&gt;
臼杵に日本の歴史を大きく変えた事件があった所がある。&lt;br /&gt;
臼杵・佐志生（さしう）・黒島。日豊線佐志生駅をおり海のほうへ下って行った佐志生より目と鼻の先、海上２５０メートルくらい離れた小さな島、黒島がある。(地元では海水浴場として知られている。)　ここに（佐伯の大入島＝おおにうじまとの説もあるが）１６００年の関が原の戦いの少し前、オランダ船リーフデ号が難破漂着した。リーフデ号は、オランダが西回り（大西洋・マゼラン海峡・太平洋経由）で、初めて派遣したオランダの５隻の艦隊の一隻であった。（他は離散した。）リーフデ号の乗組員の中に、日本史でも有名な、ヤン・ヨーステン（オランダ人）、ウイリアム・アダムス（イギリス人・三浦按針）がいた。ここで重要な事は、リーフデ号はその船尾にエラスムス像を飾っていたと言うことである。（この像は現存する。栃木の龍江院と言う所が所有し、東京国立博物館が寄託を受けている。私は上野と大宰府で見たことがある。）エラスムスは、オランダの人文学者で、カトリックを批判し、ルターと並び＊＊＊＊タントの象徴であり、少なくとも＊＊＊＊タントの象徴と解釈・理解されていた。宗教改革では、ヨーロッパでは『エラスムスは卵を産んで、ルターがこれを孵した』と言われるように、エラスムスは＊＊＊＊タントの象徴であり、エラスムスの像を船に飾ってあったと言う事は、＊＊＊＊タントの証拠を示していたと言える。リーフデ号がエラスムス像を飾っていたのは、明らかにイ＊＊ス会とは違う、布教目的で無く領土的野心も無く、あくまで交易が目的、と言う意思の表明であったのではなかろうか。スペインは中南米のアステカ・マヤ・インカ、アジアのフィリッピンを征服占領・植民地化し、ポルトガルはブラジル・東インドのモルッカ諸島・中国のマカオを征服占領・植民地化した。そして共に日本に明らかにカトリック布教を目的として日本に来ていた。しかし、スペインからの独立でスペインと戦っていた新興国オランダ（1648年に正式にスペインから独立。）は、＊＊＊＊タントで交易以外キリスト教布教・領土的野心はない、ということをアピールしたのではなかろうか。リーフデ号のオランダ人乗組員ヤン・ヨーステンは、こう徳川幕府を説得したのではなかろうか。実際島原の乱の時、オランダは海上から反乱軍に砲撃を加え、カトリック教徒を攻撃し、幕府の信認をえた。これによって、幕府は、ポルトガル・スペインを追い払い、オランダと幕末まで交易する事となった。（リーフデ号で、臼杵黒島に漂着し徳川家康に面会したヤン・ヨーステンの功績が大きく、徳川幕府の外交政策を決める決め手になったと思う。）イギリスとの交易については余り知られていない。イギリスは、ヘンリー８世の時王の離婚問題でローマ教皇と対立し、ローマ・＊＊＊＊ク教会と別に、イギリス国教会を確立していた。リーフデ号が漂着した1600年頃イギリスは、エリザベス1世の治世であった。女王は、イギリス国教会をローマ＊＊＊＊クに近いものとするか＊＊＊スタントに近いものにするか混乱があったところ、結局＊＊＊スタントの方向に舵取りをした女王であった。その事のウイリアム・アダムスの徳川幕府に対する説得もあってか、オランダと共に日本との交易が認められていた。そして一時期イギリスは日本と交易をしていた。しかし、イギリスはアンボイナ事件で一時東南アジアでのオランダとの競争に敗れ、活動の中心をインド植民地に集中し、日本から一度撤退した。イギリスは再度5０年後、日本に交易再開を申し入れたが、イギリス国王チャールズ２世がポルトガルの王女と結婚している事、その＊＊＊＊ク的傾向を問題にされ、徳川幕府に断られた。（イギリスがポルトガルと同様の国になることを恐れたためであろう。）&lt;br /&gt;
　この為、世界の情勢は、オランダの時代からイギリスの時代に変化していたが、日本はオランダと長崎出島を通じて、幕末までオランダとのみ西洋との交易をすることとなった。&lt;br /&gt;
以上、臼杵・佐志生・黒島への、リーフデ号難破漂着事件は、その後の日本の徳川時代の外交政策に大きな影響を及ぼしているのである。&lt;br /&gt;
　話は前後するが、臼杵城は、大友宗麟が戦乱の退避城として臼杵の丹生（にう）島（今は埋立てられて島の面影は無いが）に作られた。この城で有名なのは、薩摩との戦争で日本初の大砲と言われる『国崩し』２門が使われたことである。（この大砲はポルトガルから送られたと言われる。大友宗麟が＊＊シタン大名で無ければ、そんな危険な物を譲り渡さなかったであろう。）靖国神社の本殿の右側に博物館（遊就館）がある。ここでこのとき使われたと言われる大砲を見たことがある。（臼杵の観光案内所と臼杵城跡にレプリカが置かれているが、靖国神社のコピーだと言う事である。）形状からして後ろ込めの大砲のようであった。（２門のうちもう一門はどこに行ったのか、記憶違いでなければ、鹿児島の磯庭園に大友からの戦利品として置かれていた様に思う。）臼杵には唐人町と言われる所が現在もある。大友氏の時代南蛮貿易が盛んでここに唐人が住んでいたのであろう。（ここに唐人と言うのは、唐人お吉に見られるように、必ずしも中国人と言う意味ではなく、外国人・異人でありスペイン・ポルトガルのいわゆる南蛮人が住んでいた町と言う意味であろう。）&lt;br /&gt;
　臼杵は、大友氏が滅んだあと、福原氏太田氏稲葉氏と続き、稲葉氏が幕末まで居城した。&lt;br /&gt;
臼杵は、深田の臼杵石仏でも有名である。我々が昔見学に行った時は荒れ果てていて、大日地如来像の仏頭は地上におかれたままであったが、今は修復が為され１９９５年に国宝に指定された。臼杵は又昔から醸造業の盛んな所である。酒・味噌・醤油が昔から作られていた。今でも、醸造業の企業が存在する。&lt;br /&gt;
昭和４０年代には、大阪セメント工場誘致反対闘争・法廷闘争（風成＝カザナシ裁判）で全国的に有名になった。行政側の産業振興・地域開発か住民側の環境保全・公害防止かの争いであった。それまでセメント工場の白い石灰岩で真っ白く屋根が覆われた津久見の町や、興人のパルプ工場の廃液の為、チョコレート色に濁った佐伯湾を見てきている住民にとっては、公害は深刻な問題であった。結局司法決着がはかられ、高裁判断で土地譲渡契約に瑕疵（かし＝欠陥・問題）がある、と言うことで、住民側勝訴で決着した。&lt;br /&gt;
臼杵はフグでも有名である。また臼杵から竹田にかけてかぼすも有名である。&lt;br /&gt;
　臼杵出身のスポーツ選手として有名な人にマラソンの宗兄弟がいる。（高校は佐伯の佐伯豊南高校で卒業後は、宮崎の延岡の旭化成だったので、彼らは、臼杵・佐伯、それから宮崎県北の延岡と日豊線を南へ時間をかけて移動したことになる。）&lt;br /&gt;
　　臼杵の野津と言えば、大分の人は誰でも知っている『吉四六話』（民話・笑い話・とんち話）の広田吉衛門の出た所である。（野津は、佐伯方面から国道10号線を通って中の谷を越え、犬飼に行く途中の内陸にある。）吉四六（キッチョム）は漬物・麦焼酎のブランドにもなっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
津久見　&lt;br /&gt;
県南の佐伯と臼杵の間に津久見市がある。津久見はみかんとセメントの町として有名である。昭和４０年代汽車で津久見を通ると、セメント工場の石灰岩の粉塵でまるで雪が降った様に、町の屋根が真っ白になっていたのを思い出す。（今はそうでないが。）県立高校ながら甲子園常連校だった津久見高校を高校野球ファンの人は思い出すかも知れない。（津久見は今は石灰岩の粉塵も姿を消し、かってのセメント産業華やかかりし頃の面影はなくなり、小さな町になり、車で通ると大友宗麟終焉の地、大友宗麟の墓の標識が目立って見える。）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kokorozentabi/1525057.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Sep 2008 18:41:08 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>■○▲大分の地理歴史　１０</title>
			<description>　大分&lt;br /&gt;
大分市は大分県の県庁所在地である。大分は郡名が県名になりその県名がそのまま県庁所在地名になっている。律令時代に豊後の国府（位置は若干異なるが）が置かれた為であろう、ここは幕末まで府内（府内藩）と呼ばれた。鎌倉時代には、大友氏が豊後守護になり以降府内に居城した。大友氏は、大友宗麟の時北部九州一体を支配したが、大友宗麟の子大友義統の時秀吉に改易された。秀吉はどうゆう訳か、改易の理由を明確にしている。結論として大将の資質に欠けるということである。（理由は、朝鮮出兵の時の戦線離脱、薩摩との戦争の時豊後はおろか豊前までの逃げ上がり、日向も領地に入れると言ったのにこれを断ったことである。）（しかし戦国時代大将の資質が問われたのに、宗麟もその臣下も何故義統が大友氏を継ぐことをそのまま認めたのであろうか。宗麟については単なる親ばかと言うことであろうか。その後の豊後のキリスト教禁止と大友家取り潰しと言う大混乱に思いいたらなかったのであろうか。）その結果豊後は、秀吉蔵入地（直轄領）と秀吉臣下に配分された。関が原以降は、（他藩の飛び地・天領以外は）外様大名の小藩分立とその監視の譜代２藩（ここ府内藩と杵築藩）の形となった。戦国時代の大友宗麟の時代府内は、南蛮貿易・カトリック布教の日本における中心地の役割をしたという。現在カボチャと言う野菜が日本に定着しているが、南蛮貿易で最初にカンボジアから豊後にもたらされた物だという。有名なフランシスコ・ザビエルも戦国時代日本に来たとき府内に逗留している。（ルイス・フロイスも逗留し日本史豊後編で豊後のこと豊後布教のことを報告している。）&lt;br /&gt;
フランシスコ・ザビエルは、スペインのバスクの貴族出身である。パリ大学でイグナチウス・ロヨラらと知り合い、イエズス会結成し東方にカトリックを広めようとし、インドのゴアでの布教を目指した。　はじめ日本に来て布教する予定は無かったが、マラッカで薩摩の日本人ヤジロウと出会い日本布教を決意し、日本を目指し鹿児島に上陸した。日本でのカトリック布教の許可を天皇将軍から得ようと平戸・北九州・山口・堺・京と行ったが、戦乱で京は荒れ果てあきらめて京を去った　山口大内氏のところに逗留中ポルトガル船が豊後に入港し、請われて豊後に赴いた。その後山口の大内氏が滅んだため、一行は豊後府内に留まり、府内は大友宗麟がカトリックの洗礼を受け、改宗しカトリックを奨励したため、一時カトリック布教の日本の中心地となった。フランシスコ・ザビエル自身は、一度ゴアに帰り、中国布教の必要があると中国本土入国準備中、中国沿岸の小島（サンショアン島）で死去した。（彼の遺体は、腐食せず、マラッカ・ゴアに運ばれたが、多くの奇跡を起こしたとの話がある。）この影響で大分・府内はザビエル由来の物がいろいろとある。　　&lt;br /&gt;
大分は大きな川が２つも流れていて、水枯れがない都市と言われる。大分川（由布院盆地から流れてくる）大野川（九州山地の東側竹田のほうから流れてくる）の二つの川である。大分市はこの二つの川の三角州と沖積平野で成り立っていたため、余り広い土地は無かった。１９６４年新産業都市に指定され、三角州の海側の埋立地が造成され、製鉄の新日鉄、化学の昭和電工（ここで製造したやせ薬販売のアメリカでの訴訟で会計上巨大特損を生じさせた事件を覚えている人もいるかもしれない。）、石油の九州石油、などの大企業の大規模工場が出来てきて、工業都市として大きく発展してきた。&lt;br /&gt;
　大分で有名な食べ物として、『やせうま』、『だんご汁』を紹介したが、ふぐ（臼杵も有名であるが）も有名である。何故有名かと言うと、前述したように、肝を食べさせてくれるからである。それを知っている大分への出張族は、夜の会合で、ふぐ料理屋で肝も注文し、その後は都町へくりだすというパターンが多いように思う。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kokorozentabi/1524840.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Sep 2008 18:35:39 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>■○▲大分の地理歴史　０９</title>
			<description>　安心院&lt;br /&gt;
由布岳・鶴見岳・伽藍岳の北九州側・北側斜面（別府の反対側）の中腹の盆地が安心院である。よそから来た人はアンシンインと読んで安心しているが、アジムと読む。ここは亀のスッポン料理・鏝絵（こてえ）・グリーンツーリズムで有名である。&lt;br /&gt;
鏝絵と言うのは、左官さんが漆喰に色を練りこんで漆喰壁に作ったレリーフである。これが安心院によく残っていて有名になっている。グリーンツーリズムとは、農業体験型ツーリズム・農村滞在型ツーリズムである。（漁村滞在型はブルーツーリズムと言うが、山村ツーリズムは色で言うと何になるのかはよく分からない。）本来人間は産業革命が起こるまでは、長い間、農村・漁村・山村に住んでいた。高度に分業化された現代のこの人工的な社会システムは効率的で非常に便利である。しかし何かの原因でシステムが破綻・崩壊してしまうと、人間の食ということさえ他者依存・分業的に成っていて、システム崩壊すると維持できなくなってしまう。その漠然とした不安感があり、何かあった時には最低限の食の自給自足が出来るようにスキルを身に付けておきたいと言う潜在欲求がある為ではなかろうか。（昔は各家庭の家の周りに自家菜園があり、野菜の自給は出来ていた。）又農村・漁村・山村の自然の中でのゆったりしたリズムで生活することは古来からの人間の生活で、心が落ち着きストレス解消にもなると言うことであろう。グリーンツーリズムはだんだん全国で行われてきているが、安心院は其のはしりである。安心院にはサファリーパーク（九州自然動物公園）もある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
由布院　&lt;br /&gt;
別府から西に山を越えたところに由布院がある。別府からの車での行き方は３つある。大分を経て久大線・大分川沿いに一般道を遡るルート、九州横断道路を鶴見岳の麓さらに城島高原を抜け由布岳の麓の峠を越えて由布院に下って行くルート、大分自動車道（高速道路）で伽藍岳・鶴見岳・由布岳を『つ』の字状に大回りして、由布院で降りるルートの三つである。九州横断道路を通って由布岳の麓の峠を越えて下っていく途中に絶景ポイントがあり、由布院盆地を西方に全体的に見渡せる。&lt;br /&gt;
テレビで全国的に有名になった由布院であるが、由布院と湯布院を混同している人も多い。（同じ読みなので。）よく知らずに印刷物のミスプリントと思っている人もいるのではなかろうか。&lt;br /&gt;
由布院と言うのは、由布院盆の中の狭い地域を指す。（例えば由布院駅・由布院温泉・由布岳のように。）湯布院と言うのは、昭和の大合併で由布院と南側の湯平が合併して湯布院町となって使われ始めたのである。（従って湯布院のほうが広域を意味する。また大分県の県名の元となった大分郡は、平成の大合併で由布市となった。その為、由布市＞湯布院＞由布院と言う関係が成り立つ事となった。ただし温泉保養地というイメージを売り込むために、行政区分の考え方と別に、温泉・お湯のイメージの湯布院と意図的に使う場合もある。）&lt;br /&gt;
由布院観光の開発・湯布院の町おこしは、亀の井別荘の中谷さんが有名である。&lt;br /&gt;
亀の井別荘は、元々別府観光開発の父油屋熊八の別荘であった所である。&lt;br /&gt;
中谷さんのおじいさんが管理をしていて、東京から帰ってきて宿を継いだお孫さんの中谷さんの代になって、もう一度昔の『由布院温泉発展策』の『ドイツバーデン地方の保養温泉に学べ』を思い出し、実際にドイツのバーデン地方を隈無く見学し、『ゆったり、安心、こじんまり』の『滞在型・生活保養温泉地』を目指し、コンセプトを統一しいろいろなアイデアを出して、由布院を今日のような全国的に有名な温泉保養地にしていった。&lt;br /&gt;
今日、由布院に行くと、周りを山々で囲まれ、圧迫感ある高いビルも無く、金鱗湖から流れる小川には魚が泳ぎ、藻が茂り、田畑は耕作され田舎の生活があり、時間がゆったりのんびり流れているような感じになる。何か懐かしい昔のゆったりとした農村社会の生活・雰囲気が感じられ、じっと浸っていたい気持ちになる。しかしコンセプトも知らないその場限りの事しか考えないよそ者短期に金を稼ごうとする外部資本が介入し始めると、全国どこにでもあるような観光地になるのではなかろうか。だんだんと俗化して来ている様に感じられる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kokorozentabi/1524219.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Sep 2008 18:20:30 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>■○▲大分の地理歴史　０８</title>
			<description>　 子供の頭を国東半島として、口の部分に杵築がある。&lt;br /&gt;
杵築&lt;br /&gt;
　杵築は鎌倉時代の大友氏の子供の一人の木付（キツキ）氏にその起こりがあると言う。（木付はその後杵築に改称された。）江戸時代には松平氏が豊後高田から入部してきて幕末を迎えた。ここは城下町の風情が残されており、2つの丘の『坂の城下町』として有名であり、武家屋敷・町屋・寺町・城跡の要素がそろい、まるで江戸時代にタイムスリップしたように感じられる所である。JRの杵築駅は少し町の中心から離れた所にある。町の中心城下町は別府湾に面した河口にあり、日豊線は国東半島（頭）の首の所を横切るように宇佐に向かって走っているからである。&lt;br /&gt;
（駅から杵築の城下町まで歩いて４～５キロあったように思う。）&lt;br /&gt;
日出&lt;br /&gt;
　国東半島を頭とした時のどにあたる部分に日出（ヒジ）がある。幕藩時代木下藩と言われたのは、藩祖が豊臣秀吉の妻ねねの甥に当たり秀吉の木下姓に改めたことによると言う。（家康により豊臣家は滅ぼされたのに、豊臣ゆかりの木下氏が幕末まで生き延びたのが珍しい。）ここ日出城（暘谷城）の下で獲れるカレイは城下カレイと言われ、全国的にも有名である。現在日豊線・暘谷駅の南側海岸に暘谷城（日出城）があった（現在小学校）。（特段海から切り立って立った高い城ではないが。）この城の下に真水が湧く所があってそこで獲れるカレイはおいしいと言われ、日出・木下藩の幕府献上品として昔から有名であった。なを、滝廉太郎の先祖が、木下藩士であった事も知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別府&lt;br /&gt;
　いよいよ湯の町別府である。別府の一般的なイメージはどうであろうか。（別府八湯の）温泉、地獄めぐり、湯煙などのイメージであろうか。（神様・仏様・稲尾様の稲尾投手を思い浮かべる人もいるかも知れない。）&lt;br /&gt;
　別府は鶴見岳・伽藍岳から流れ出た溶岩流が南側に扇状地状に別府湾にまで至ったものである。（別府湾に面する南側斜面である。）そして東西にハの字型に断層がありその中（別府の全体が）が陥没している地形である。温泉（別府八湯）は東側（明礬・鉄輪・柴石・亀川の各温泉）と西側（別府・浜脇・観海寺・堀田の各温泉）に集中している。（地獄めぐりの地獄は東側にある。）&lt;br /&gt;
　別府は本来固有名詞ではない。別府と言うのは、大化の改新・大宝律令による公地公民制度が崩壊し私有地・荘園制度を認め始めた過程で、特別・別の符（文書）を与えて新開拓地を新たに荘園として認めたものである。（別符から別府に変化しているが。）新田・新荘（庄）と同じような意味である。従って別府と言う地名は各地（特に九州）にある。地名だけでなく人の姓にも使われている。別府・西別府・北別府などがそれである。その中で最も有名で、固有名詞のように使われているのが別府温泉の別府である。&lt;br /&gt;
別府は源泉数お湯の湧出量共に日本一の温泉である。又湯煙でも有名である。日豊線・国道１０号線の走る下のほうはそうでもないが、空気の冷たい冬場は上のほうで特によく見える。４月の転勤シーズンには別府の消防署に火災通報がよくあるという。湯煙を知らない転勤族が朝起きて煙に驚き電話をかけてくるのだという。ＮＨＫの『２１世紀に残したい日本の風景』に富士山についで２位に選ばれたように確か記憶している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
別府観光開発と油屋熊八。&lt;br /&gt;
油屋熊八は別府観光の父と呼ばれる人である。幕末四国・伊予・伊達藩・宇和島の米屋の息子で、大阪へ出て米相場師となり、その後アメリカに渡り、明治の終わり頃妻の身を寄せる別府にやってきて亀の井旅館（亀の井ホテルの前身）を創業した。更にバス事業（亀の井バスの前身）に進出し観光客移動手段を整備し、日本で最初の女性バスガイドによる定期観光バスの事業を始めた。この間いろいろなアイデアで、ツーリズム・観光の視点から別府を売り込み、観光都市別府を大正・昭和初期に発展させていった人である。（日本でツーリズム・観光産業を最初に創設・具体化・事業化させた人という意味では、日本のトーマス・クックと言えるかもしれない。）&lt;br /&gt;
　油屋熊八が最初に作った『別府亀の井ホテル』は現在建て直され、現在はシティーホテルとなっている。&lt;br /&gt;
その正面入り口左側に、あまり気付く人は無いが、別府の鳥瞰図の絵がある。四国方面の上空から別府を眺めた図である。大正時代の終わり頃描かれた絵で、（当時日本の領土だった、現実的には見えることはなかったと思うが）遠く、左上には台湾、右上には朝鮮・釜山まで描かれている。大正の広重と言われた吉田初三郎の絵である。アメリカ帰りの油屋熊八は、（アメリカで見てきた）ツーリズム・観光と言う視点で別府を売り出そうとしており、親交があり支援をしていた、吉田初三郎に観光地別府を売り出す為に、描いてもらったものであろう。（吉田初三郎は、この他全国各地の鳥瞰図を描いているが、後に軍に、軍事施設が見える・鳥瞰図が敵に渡ると問題（軍事機密）として、描くことを禁止された。その後は、従軍画家として大陸に渡り、軍の仕事として絵を描いた。戦後は、広島原爆被害鳥瞰図を描きその生涯を終えている。）&lt;br /&gt;
　別府は国際観光都市を目指している。別府の高台十文字原の大分自動車道の別府湾サービスエリアの下に、立命館アジア太平洋大学（ＡＰＵ）がある。（ここからは国東半島・別府湾・別府の町・高崎山・大分の埋め立て工業地帯・佐賀関半島・晴れた日には別府湾の向こうに四国の雄大な景色が一望出来る。この雄大な景色を毎日見ていると、ちまちまこせこせした人間は育たないのではと思う。ただし冬は寒そうである。）ここは世界各国から留学生を受け入れ、教員・学生の半数は外国人という構成にしているそうである。その為別府市内に外国人も増えてきて生活し始めている。その影響で外国語表示も進み、英語を理解し話せる人も着実に増加し、規模の大きな温泉（スパ）地でもあり、日本の中で先端的国際都市に別府はなってきている。外国人観光客を受け入れる人的ソフトも整いつつある。国際的観光都市別府は、世界に日本の温泉文化を売り込もうとしており、お隣韓国の人々をはじめ着実に外国人観光客が増加しているようである。&lt;br /&gt;
　政府は、観光を新たな産業として位置付け、２０１０年までに毎年外国人１０００万人を日本に招きいれる『インバウンド・テンミリオン』計画を立てている。海外の観光客に日本の何を売り込むのか、受け入れ態勢としてのハードとソフトをどう整備していくのか、まだまだスタートしたばかりで、フランス・スペインなどの『観光先進国』に比べ、『観光後進国』日本としてはまだ何も整備されていない。別府はこの点で、日本で先導的な立場に立っていると思う。&lt;br /&gt;
　アルゼンチン出身の国際的ピアニストのマルタ・アルゲリッチ女史が総監督を務める『別府アルゲリッチ音楽祭』は、多くの人の努力があって回数を重ね今や国際的な音楽祭となり、世界へ文化発信を行っている。これは例年別府国際コンベンションセンター・ビーコンプラザを中心に行われている。&lt;br /&gt;
　別大マラソン（別府大分毎日マラソン）も全国的に有名である。毎年２月大分の陸上競技場をでて眺めのよい海沿いの整備された別大国道を走るマラソン大会である。この大会は大分中津出身の『幻の五輪代表』池中康雄が提唱して創設されたものである。又このマラソンコースで『大分国際車いすマラソン』が毎年開催され、世界最大最高レベルの大会として知られている。&lt;br /&gt;
別府観光といえば温泉（別府八湯）めぐりのほか、別府の東側の地獄めぐりがある。（日常生活が地獄で、何も脱日常の旅行に来て地獄を見る必要ない、と思う人もいようが。そういえば地獄めぐりのみやげ物売り場で、『毎日が地獄です』と言うプリントシャツを売っていたのを見たことがある。）上から坊主・海・カマド・鬼山とあり、血の池・龍巻地獄（間欠泉）は少し離れた亀川寄りにある。ニュージーランドを一人で旅したことがある。北島のオークランドで飛行機をおりウェリントンまで南下しようととりあえず列車に乗った。その列車の終点がロトルアであった。ロトルアは別府と姉妹都市と言うことであった。共に温泉地で間欠泉もあるということであろうか。（マオリの人たちは暖かい温泉の上に家を立て住んでいた。）&lt;br /&gt;
別府から大分に向けて西に別大国道を走ると高崎山・マリーンパレス（うみたまご）がある。高崎山は高崎山自然動物園と言い、野生の猿に餌付けをしている所である。（食べ物を持ち込まないこと、猿の目を見つめないことが注意される。最初のボス猿ジュピターの銅像は、東京谷中の朝倉彫塑館で見る事が出来る。）海から生まれた『うみたまご』は新装成った水族館である。海・生き物に対する親しみやすさ、静態的な展示ではなく生き生きとした本来生き物が持つ姿を見てもらいたいとする姿勢が見えるように感じる。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kokorozentabi/1524110.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Sep 2008 18:17:36 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>■○▲大分の地理歴史　０７</title>
			<description>　和気清麻呂は、その時は道鏡の怒りをかい島流しになったが、後に天皇制を強化する過程で万世一系の天皇制を守ったと言うことで評価され英雄視されて行った。またこの事で、女帝は情緒的感情的で判断を誤り取り巻き連中と問題を起こす、との暗黙の認識があって、（日本が敗れた、白村江の戦いの時、天皇は女帝の斉明天皇だったことも思いだされて、）現在の象徴天皇制・男女平等の憲法原則の下でも、皇室典範は男系男子を優先しているのではなかろうか。そして、皇位継承権を定める皇室典範改正論争に影響を与えているのではなかろうか。（天皇制自体が平等原則の例外で、また現代の象徴天皇制で何ら国家意思決定に関与しないのに女帝を認めないとする必要があるのか、イギリスでは女王がいるが問題があるのか、など考えられている要素はいろいろある。）&lt;br /&gt;
　宇佐と言えば双葉山生誕の地としても有名である。日豊線天津駅（現在宇佐市）の所に双葉山生誕の地の看板がある。双葉山（栴檀は双葉より芳し、より来ていると言う。）と言えば、戦前無敵双葉と言われた大横綱である。年２場所の時代（現代は年６場所）に６９連勝した大横綱である。右目が少年時代負傷で半失明状態、事故で右手小指がつぶれるハンディを持ちながら前人未踏の６９連勝を達成している。（大相撲の場所数日数は、江戸時代の『一年を20日で暮らすいい男』の一年2場所から、変遷があり現在の６場所へ、日数も10日・11日・13日・１５日へと変遷はあるが、平幕からの69連勝は、いまだに破られてはいない。）&lt;br /&gt;
　双葉山の凄い所はまず心である。双葉山は６９連勝でストップし連敗した時に、精神的な師と仰ぐ陽明学者安岡正篤（まさひろ）に、『未だ木鶏（もっけい）たりえず』と打電している。木鶏と言うのは、中国の荘子に出てくる話である。闘鶏の鶏が、弱いうちは相手を見て、不安になったりいきり立ったり興奮したり相手を脅したりする。強い鍛えられた鶏はまるで木で彫った鶏（木鶏）のように（心が無いかのように）心が動揺せず心が乱れないと言う。（禅で言う所の平常心。）電報の意味は、いまだその境地に自分は達していないと言う意味である。（と言う事は常にその境地を目指していたと言うことである。勝負における迷い・雑念を無くすと言うことであり禅と同様の考え方である。）&lt;br /&gt;
　それと技の話であるが、『後の先をとる』と言うことが体得できていたと言う。立会いで一瞬遅れて立つように見えながら先手を取ることができるようになっていたと言う。これは武道の『無心で機先を制する』と同じであろう。（相手を見て、頭で考えて行動するようでは、対応が遅れ遅れて負けてしまうのである。）&lt;br /&gt;
　双葉山は６９連勝と言うことに目が奪われてしまいがちであるがそれは結果（結果を出さないと注目されないのは確かだが）であって、その凄さは、永遠に役立つ勝負の心の真髄を理解し体得していた、と言う点であろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
豊後高田&lt;br /&gt;
　国東半島を子供の頭として首・襟足に当たる部分に豊後高田がある。ここは町ぐるみで昭和３０年代の懐かしい町『昭和の町』を再現しており、昭和を懐かしむお年寄りに人気がある。ここは単なる博物館（例えば東京の大江戸博物館）の昭和の時代の展示物のような静的陳列ではなく、建物商品までそろえ、生きた町（人がいて生活がある）として街の雰囲気生活までも当時を思い起こさせるような昭和の生活感ある町作りの取り組みをしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国東半島　&lt;br /&gt;
コクトウ半島ではなく、クニサキ半島と読む。豊後風土記によると海上から景行天皇が周防灘に突き出た陸地を見て国の先（崎）であろうと言ったと言うところから、国崎の郡と成ったと言う。つまり海から見た命名である。（国の東と言う陸地からの発想ではない。風土記全般と豊後風土記については、前述した。）ここは『み仏の里』と言われるように石仏群が多い。また国宝富貴寺をはじめ古い寺社仏閣が多い所である。富貴寺は、天台宗の寺で、その阿弥陀堂は、平安時代に全て萱（かや）の巨木で作られた建物である。中には、阿弥陀如来像と壁画がある。壁画は荒れ寺であった時、子供の遊び場になっていた為、下のほうはあまり鮮明に見えず、天井の方にかすかに見える程度である。国東観光の定番コースに、熊野磨崖仏がある。絶壁の岩山に不動明王像と大日如来像が彫られている。急な（整備はされているが）山道を２～３百メートル登り、更に急な手すりの付いた自然石の乱積みの石段を３～４0メートル登った左手に磨崖仏が見えてくる。下で杖を無料で貸してもらえるが、普段運動していない人や足の悪い人が登ろうとすると、かなりハードである。（今までいろいろな所を旅してきたが、自然石を積んだだけのこんな急な石段は初めてで、一歩一歩次に足を何処に置こうか考えながら、結構頭を使って歩いた。）&lt;br /&gt;
この国東半島には、変わった『鳥居』がある。鳥居とは、神社の入り口で見られるあれである。神社の象徴として、又神社での聖域と俗界を分けるものとして使われている。鳥居の由来については、日本の神話『古事記・日本書紀』に関しての話がある。天照大神（太陽神）が、弟スサノウの乱暴の為、天岩戸に隠れて出てこなくなってしまった。（日食の話であろうか。）其の為、世の中が暗くなってしまったので、神々は大いに困り、相談して天岩戸の前で騒ぎ、天照大神が何事だろうと戸を開けたところを、外に連れ出そうと相談した。この時の騒ぎ立てで、鶏も鳴かせることになった。その時、鶏の居場所（横棒）・とまり場所が『鳥居』という話である。（他にも説はあるが。）&lt;br /&gt;
その鳥居が、国東半島にある古い石造りのものは、ちょっと変っているのである。神仏習合（混合）の影響を受け、仏教の象徴であろう石の丸い輪が石造りの鳥居につけられているのである。宇佐神宮のところで述べたように、中央（大和朝廷）では、蘇我氏が物部氏を破り、仏教崇拝が固まり、中央と瀬戸内海を通じて結びついていた、豪族の宇佐氏がこの動きに呼応し、いち早く仏教も取り入れ、土着の神道信仰（自然崇拝・先祖崇拝）に仏教をミックスし、神仏習合（混合）とした為、この事が証拠として見られる珍しいものである。&lt;br /&gt;
明治維新以降は、国家神道を背景とし天皇を中心にした、強い中央集権国家を作るため、廃仏毀釈をし、国家神道を中心にしたものになった為、神仏混合鳥居のようなものは作られなくなったが。（古いものと新しいものとが混在している。）&lt;br /&gt;
姫島村　国東半島の北側に島がある。姫島である。ここは平成の大合併により大分県で唯一の村になった。車えびの養殖と管理漁業で有名である。古代から黒曜石の産地としても知られている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国東半島を子供の頭として、子供の目に当たる部分に大分空港がある。&lt;br /&gt;
　国東半島の安岐・武蔵地区に大分の新空港が出来た。それまでは大分の大分川の右岸大分川と裏川で挟まれた旧海軍の飛行場跡の滑走路を使用していた。川に挟まれていた為短い滑走路（１，２００メートル）を拡張も出来ず安全運行を期し難く、飛行機事故もあり、更に周辺を埋め立て、工場にする計画もあって、結局国東半島の安岐・武蔵地区に新空港が出来た。ただこの空港は大分からのアクセスが良くない。&lt;br /&gt;
大分からは旧空港のあった所からホバークラフトがあり別府湾を横断し約２５分で結んでいるのであるが、これも波が荒く強風が吹くと欠航する。それで大分から飛行機に乗る時は、まずホバーが出るのかどうかを確かめなければならない。欠航の時は時間のかかる陸路で空港まで行かなければならないのである。（最近は高速道路が出来たので時間は余りかからなくなったが。）福岡空港のように天神・博多から地下鉄ですぐに空港に行けるという訳には行かないのである。その上ホバーの料金が高い。&lt;br /&gt;
ホバークラフト（Ｈｏｖｅｒ　Ｃｒａｆｔ）と言うのは、浮上静止する乗り物と言う意味である。地面水面に関係なく僅かに浮き上がり摩擦抵抗をなくしプロペラ推力で進む。（エアークッション艇）艇の床の周りにゴム製のスカートを取り付けそこに空気を吹き込む。接着面を作らず宙に浮いた状態にするので、摩擦抵抗が無く高速で走行できる。そして前にも後ろにも横にも走行が（理論的には）可能である。高速船の別のタイプにジェットホイール（水中翼船）がある。これは水中に翼があるので、時々鯨にぶつかった流木にぶつかったとかの事故が起こる。ホバークラフトは海面上に少し浮き上がっているのでその点の心配は無い。ただ波があり海が荒れると運航出来なくなる為、内海・内湾しか使えないのが難点である。&lt;br /&gt;
大分空港からホバークラフトに県外から来て初めて乗った人は、横に這うように行ったりするので不安がる人もいる。大分空港のホバー基地は風・波を避けるため海までの通路がＳ字状になっている為、大分に初めて来てホバーに乗る人は横に動くことを知らず前の壁にぶつかるのではないかと不安がる人もいる。（旅客用にホバーを運行しているのは現在ここ大分空港・大分間のみである。その意味では珍しい乗り物ではある。）ホバークラフトは、他に軍の揚陸艇、船も自動車も入れない湖沼地帯の乗り物（例えばアメリカフロリダの沼地での乗り物）として利用されている。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kokorozentabi/1523873.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Sep 2008 18:12:02 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>■○▲大分の地理歴史　０６</title>
			<description>　竹田（タケタでタケダと濁らない。）&lt;br /&gt;
　タケダと濁って読んでしまう人もいるが、地元では濁って発音しない。滝廉太郎の映画が昔あったが、映画の中で、タケダと話していたので、ああこれは現地のことを知らない紙ベースの情報しか取っていない映画で、内容もその程度のもの、といっぺんに興醒めしたことがある。&lt;br /&gt;
竹田でなんと言っても有名なのは岡城である。豊肥線（豊後と肥後を結ぶ鉄道の意味）の豊後竹田の駅を背にして川を渡り、竹田市街を通って東に約2キロ弱行った所に岡城がある。古くは緒方氏が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したと言われる。その後大友氏の一族の志賀氏が居城した。（フロイスの本にもよく出てくる。）大友氏と薩摩島津氏の戦いの時、この岡城のみは再三薩摩軍を撃退し、難攻不落の名城としての評価を高めた。秀吉の時代大友義統改易により、志賀氏は去り中川氏が入部してきた。中川氏は幕末までそのまま居城した。岡城は城の規模が大きく、阿蘇の溶岩台地の切り立った断崖絶壁でその上に石垣を組んであるので、薩摩軍の猛攻に耐えた山城の名城と言われるのも納得できる。（周囲は断崖絶壁で、城に出入り出来るのは唯一狭い南側だけである。）この城も現在城郭が残っていない。それは明治政府が、城が反乱軍・不平士族の拠点になるのを防ぐため、廃城令により民間に払い下げ城郭を取壊した為である。現在全国の城跡で城郭がほとんど残っていないのはこの為である。（日本の歴史を紹介する英語の本を読んでいたら、太平洋戦争の時、米軍の空爆で日本の城は破壊されたとあったが、これは誤解である。）&lt;br /&gt;
岡城と言えば、滝廉太郎である。（彼の先祖は、豊後・日出・木下藩士である。）彼の父は大野郡の官吏（郡長）となり、彼は12歳から15歳までを竹田で過ごし、岡城をイメージして荒城の月を作曲したと言う。1900年の作曲と言うから、もう城郭が取壊されて、30年位たっている。その状況での城をイメージし、昔の武士の栄華をしのぶという曲である。&lt;br /&gt;
豊後竹田の駅から岡城に行く途中の阿蘇の溶岩台地（下はトンネルに成っていて車も通る。）の上に広瀬神社がある。広瀬武夫中佐（戦死により昇進）が祭られている。広瀬中佐は、戦前軍神として崇められ文部省唱歌にも取り上げられた、竹田出身の日露戦争の時の日本海軍の『軍神』である。&lt;br /&gt;
ロシアは、西欧列強に産業革命・植民地獲得競争に出遅れた。不凍港を求めての南下政策で勢いの弱まったトルコを突破口として黒海・地中海に活路を開こうとしたが、フランス・イギリス・トルコの連合軍に破れ押し返されてしまった。（クリミア戦争）そこで今度は、ロシアは極東に目を向けシベリア・満州・朝鮮と進出しようとし、シベリア鉄道を敷設し極東進出し不凍港を確保しようとしていた。（ウラジオストックは、冬季は使えない半不凍港であった。）日本は、朝鮮の利権を清朝中国と争った日清戦争（1894年～1895年）の下関条約で、清朝中国から台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲を受けた。この時ロシア・フランス・ドイツからの３国干渉を受け、遼東半島は清朝中国に返還した。するとすぐにロシアは清朝中国から遼東半島を租借し、旅順を渤海・黄海をにらむ軍港とし、その背後にロシアはクリミア戦争のセヴァストーポリ要塞陥落の経験を生かし頑強・強固な要塞群を敷設・設置した。日本は、シベリア鉄道が複線化される前にロシアに開戦し南下を阻止する必要がある、として開戦を決意した。こうして１９０４年日露戦争は始まった。日本海軍の戦略は、旅順・ウラジオスットクにいるロシア太平洋艦隊をバルチック艦隊が極東に来る前に殲滅し、バルト海リバウ軍港から来るバルチック艦隊に備え迎え撃ち殲滅すると言うものであった。もしロシア太平洋艦隊が温存されていれば、日本の艦隊は挟み撃ちになってしまう。ところが黄海海戦で旅順の艦隊の主力は旅順港に逃げ込んで出てこなくなった。外から船では、多くの港湾を守る砲台があり容易に近づけない。そこで日本海軍は旅順港閉塞作戦を敢行した。日本海軍参謀は、米西戦争（１８９８年）をアメリカの運送船から観戦しており、アメリカのキューバ・サンチャゴ軍港閉塞作戦を見ていた。これが旅順港閉塞作戦の参考にされた。実際は旅順港の湾口が広くボロ舟を沈めて港から軍艦を出られなくする事は難しかったという。&lt;br /&gt;
閉塞作戦に失敗した日本海軍は、陸地から陸軍に旅順港を制圧することを依頼した。日清戦争の時は、この要塞を簡単に攻め落としたが、乃木第三軍はロシアの頑強な要塞群を正攻法でせめて苦戦した。総参謀長児玉源太郎が助け舟を出し、兵を集中して、旅順港を見渡せる二百三高地を奪還し、そこを観測所にして旅順港のロシア艦隊を２８サンチ（旧海軍ではセンチと言わず、サンチと言った。）砲で壊滅させた。これで日本海軍はバルチック艦隊に集中することが出来、有名な秋山真之参謀のT字戦法での日本海海戦で圧勝した。（しかしこの事が、その後巨艦主義からの脱却が出来ず大きな問題を生んだ。個人でも組織でも過去の成功にこだわりすぎると、『成功は失敗の元』とも言える。）&lt;br /&gt;
以上のような日露戦争時の日本海軍の流れの中で、広瀬中佐はどのように位置付けられるであろうか。広瀬武夫は１８６８年にここ竹田で生まれと言うから、明治元年に生まれたことになる。お父さんは竹田藩士で、後に司法官・裁判官となり後に飛騨高山に転任する。お父さんの転任に伴って、広瀬は竹田から飛騨高山に行った。広瀬は高山の小学校を卒業し、小学校教師の後、海軍兵学校に入り卒業。その後ロシア留学・駐在武官を経て帰国。日露戦争では、日本海軍の旅順港閉塞作戦に参加した。旅順港の入り口にぼろ舟を沈め軍艦が航行できなくする作戦（旅順港閉塞作戦）である。２回目の出撃の時船内に残った部下の杉野兵曹を探しに行き、引き揚げる途中に敵弾に倒れたといわれる。死後戦前は（軍国主義に利用され）軍神として崇められた。&lt;br /&gt;
昭和の時代に入って、全国に寄付を募って、竹田の溶岩台地の広瀬神社は建てられた、という。&lt;br /&gt;
高台の広瀬神社を見て階段を下りながら、軍神かどうかは別にして、広瀬中佐は日露戦争を戦った人々の象徴であり、この人たちがいなければ、我々は今こうして存在しなかったかも知れないし（存在していなければ、このような事を考える事もないが）、スラブ系の血が混じって、共産党一党独裁の下で資本主義は成立するのか、などと言うことがいまだに日本で問題になっていたのではないか、などと考えた。&lt;br /&gt;
江戸時代の文人画家で、田能村竹田も竹田の人である。&lt;br /&gt;
彫塑家として有名な朝倉文夫は、竹田から豊肥線を一つ大分方面に行った朝地（上井田村）の出身である。朝地には朝倉文夫記念館があるが、東京台東区谷中の朝倉文夫のアトリエの跡が朝倉彫塑館となっている。東京芸大の東側日暮里駅の近くにある。この建物は外からは余り目立たないが、中の日本家屋立体表現はすばらしい。その日本家屋はどの位置からも真ん中の池の日本庭園を見る事が出来、田能村竹田の掛け軸も見る事が出来る。展示作品では、早稲田にある大隈重信像、墓守、一連の猫（猫好きで多くの猫を飼っていた為か）などを見る事が出来る。圧倒的な存在感・質感を伴った3次元の銅像表現が多数存在する。大分に関係する作品としては、高崎山のボス猿ジュピター像・双葉山像がある。&lt;br /&gt;
大分には各地に古戦場がある。一つ目は戦国時代に大友氏と島津氏の争いの時、薩摩軍の侵攻を受けた時のもの、２つ目は黒田勘兵衛と大友義統との別府での石垣原の戦いの古戦場、３つ目は明治時代の西南戦争で薩摩・西郷軍（主力ではないが奇兵隊・遊撃隊）が宮崎・延岡・日向長井方面から侵攻してきた時の宇目・大野・竹田・臼杵といった古戦場がある。竹田は戦国時代の薩摩軍、明治期の薩摩反乱軍と２度の薩摩の侵攻を受けたことになる。&lt;br /&gt;
　　　&lt;br /&gt;
中津から竹田まで内陸部を巡ってきたので、今度は北から海岸沿いに巡ってみたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
宇佐　&lt;br /&gt;
宇佐には、神仏習合・混交の宇佐神宮（宇佐八幡）がある。元々日本には仏教が入ってくる前に自然崇拝の神道があった。仏教が日本に入ってきた時、大和朝廷の内部で、崇仏派（蘇我氏）と排仏派（物部氏）の争いがあり、崇仏派（蘇我氏）が抗争に勝利した。宇佐は海路で中央につながっており、地方豪族の宇佐氏はこの影響を受け、いち早く中央の仏教も取り入れた。そして仏教と神道のその信仰的調和を図る必要があって、神仏習合・混交と言う事になったと言うことであろう。また宇佐八幡は全国の八幡神社の総元締めでもある。そして豊臣秀吉が北部九州を平定するまでは多くの領地を持ち強大な力を保持していた。宇佐八幡の託宣を受けて京都岩清水男山に建立された岩清水八幡宮は戦いの神であり、源氏の守り神となった。又源氏の鎌倉幕府は岩清水八幡の分霊として、鶴岡八幡を鎌倉に建立した。しかし京都の岩清水八幡宮も鎌倉の鶴岡八幡も同じ宇佐八幡が総元締めであり、その系列下にあることになる。宇佐神宮は道鏡事件でも歴史的に有名である。和気清麻呂の宇佐宮での御神託事件である。称徳天皇（女帝）は、道鏡を次期天皇としようとして、宇佐宮の託宣を求めた。その勅使に和気清麻呂が命ぜられた。宇佐人神宮の託宣は、道鏡が天皇になることには（天皇の意思に反したが）否定的なものだった。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kokorozentabi/1523761.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Sep 2008 18:09:39 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>■○▲大分の地理歴史　０５</title>
			<description>　咸宜園で学んだ有名人と言えば、高野長英の他、幕末期に日本の運命に影響を与えた人として大村益次郎（村田蔵六）がいる。大村益次郎は、幕末明治期の医者・蘭学者・兵法家・四民平等の陸軍創始者と言った所であろうか。大村益次郎は、周防山口の百姓身分の村医者の子として生まれた。百姓身分の為、萩の藩校に入れず１９歳の時一年強この日田の咸宜園で漢詩漢文漢学を学んだ。その後大阪の緒方洪庵の適塾に入塾する。ここで頭角を現し塾頭にまでなる。お父さんの頼みで、山口で村医者の跡を継ごうと帰郷するが、伊予・宇和島・伊達藩に見出され出仕し、蒸気船と洋式砲台を作ることを命じられた。（ペリー来航に対する幕府・各藩の対応であった。）宇和島・伊達藩では、他に兵学・蘭学の講義翻訳も手がけた。そして江戸へ出て宇和島藩と幕府の蕃書調書の教授をしていたが、故郷長州藩が彼を必要とし長州藩に召抱えられる事となった。（桂小五郎のちの木戸孝允によって彼は見出された。）&lt;br /&gt;
　福沢諭吉の話によると、横浜で英語ばかりでショックを受けこれからは英語の時代だと、大村益次郎に英語を勉強しないかと声を掛けたが、オランダ語で十分として大村益次郎は取り合わなかったらしい。実際は大村も英語の必要性を痛感し、後にヘボン先生のところに通い英語を勉強している。（諭吉の話には出てこないが。）&lt;br /&gt;
　第二次長州征伐（四境戦争）の時は、藩の軍事体制を整備し長州軍の司令官となり、自らも石州口から峠を駆け下り津和野・益田・浜田まで進撃し、幕府軍より優れた武器で、幕府軍を撃破していった。戊辰戦争の時は、江戸で指揮を執り上野の彰義隊を壊滅させ東北佐幕諸藩を制圧した。その後明治政府の軍制改革について、四民平等の天皇直属の軍隊を主張する大村と藩兵を中心の軍隊を主張する守旧派の対立、急激な西洋化に反対する者・皇国日本攘夷派の反発、テロの不穏な動きがあったにも関わらず無防備であったので、京で刺客の襲撃を受け、大阪の病院で死亡した。大村益次郎の銅像は、東京九段の靖国神社の第一鳥居と第二鳥居の間にある。実質的に四民平等の日本陸軍創設者と言うことで、靖国神社のここにこの銅像があるのであろう。（このことを知って、銅像を見ている人は少ないが。）&lt;br /&gt;
中津の黒田勘兵衛が、豊臣秀吉・徳川家康の天下獲りを支えた軍師・参謀とするなら、日田咸宜園で一時学んだ大村益次郎は、戊辰戦争・明治維新支えた軍師・参謀と言うことになるのではなかろうか。（福沢諭吉については、単に教育者と言う位置付けではなく、勘兵衛・益次郎の軍師・参謀よりも更にもっと広く、西洋文明の本質と明治維新後日本が進むべき方向を広く一般の人々に紹介した人、日本近代化の民間の在野の軍師・参謀、と位置付けられると思う。）&lt;br /&gt;
日田の南側、東から西に三隈川（筑後川の上流）が流れていて水郷日田と言われている。川の北側には旅館が立ち並び、川面には屋形船が浮かび、夏には鵜飼も行われている。（その昔天領日田は豊かで、その需要があったと言う事であろう。）久大線（久留米と大分を結ぶ鉄道と言う意味）の北側には豆田町・城町があり、天領日田の古い町並みが広がり、同じく天領だった飛騨高山の町並み同様、現代の観光スポットになっている。（太平洋戦争の戦災も受けていない。）&lt;br /&gt;
日田から南の阿蘇の方へ、筑後川の上流（大山川）をさかのぼって行くと、旧大山町・杖立温泉・旧下・中・上の３津江村がある。（大分県の形から言って、子供の後ろ手に当たる部分）旧大山町は大山川に沿ったV字谷で、それゆえに耕作地が狭く傾斜面であった為、『梅栗植えて、ハワイへ行こう』という、大分一村一品運動の原点とも言える運動が起こった所である。&lt;br /&gt;
杖立・津江とかいう日本語は、元来『がけ・崩れた所』と言う意味である。（固有名詞ではなく、由布院にも確か津江と言う所が在った。）阿蘇の外輪山から北側の筑後川に流れ出るがけ沿いの地名である。杖立て温泉は大分県と熊本県の県境にある。（ほとんど熊本側）この辺りは熊本県が大分県に入り組んできている所で、川を瀬の本高原のほうに溯れば、最近有名になってきた、こじんまりした木々に囲まれた谷間の温泉地『黒川温泉』がある。&lt;br /&gt;
旧下・中・上の３津江村の辺りは山深い山村である。ここに鯛生金山があった。大分には大正時代山香の馬上金山（JR日豊線の大分を背にして小倉に向かい、立石駅の近くの右側。現在は山際の竹やぶ。ここには、幕藩時代、日出の木下藩の支藩・分家藩の立石藩5千石があった。）があった。馬上金山は、当時日本一の金山と言われたが段々下火になり、昭和の初期には鯛生金山が活況を呈するようになり、東洋一の産出量を誇る金山となった。新潟佐渡の北西部、相川の佐渡金山（１６０１年発見されたと言うから、関が原の直後徳川幕府成立の直前）は、最初は山を掘り割っての露天掘りだったが、段々と海面下まで掘り進んで、水のかき出し人夫を必要としたが、ここ鯛生金山は西へ向かっての横穴である。今は（夏は涼しい）金塊を置いてあることで有名な博物館になっている。&lt;br /&gt;
この辺りが次に有名になったのは、昭和３０年代から４０年台にかけての下筌ダム反対運動であった。国の権力的で高圧的な姿勢は、周辺住民に感情的反発を招くので、公共事業においても周辺住民への十分な配慮が必要であるということを、広く日本中に知らしめた事件であった。（このことにいまだ学ばず、国・政府関係者の高圧的・権力的発言が、問題になる事がある。）&lt;br /&gt;
１９９２年に、突然上津江村にあったオートポリスの倒産騒動が起こった。今から思えばバブルの大型倒産の走りだったような気がする。あんな山奥まで巨大開発が行われていたのか、と言うのが当時の人々の実感ではなかったかと思う。&lt;br /&gt;
２００２年ワールドカップの時、カメルーンのサッカーチームが、この山奥の小さな中津江村をキャンプ地として選んだので大ニュースとなった。ただこの時は、最初は宣伝費もかけていない山奥の不便なこの村がなぜ選ばれたのだろうと言う関心だったが、途中から村長はじめ村民の笑顔がすばらしく、都会のギスギスした生活の中で見られなくなった笑顔で、なんであんないい笑顔が出るのだろうという安らぎ・感動のほうが大きかったと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
九重町から竹田にかけて。（大分県・子供の背中に当たる部分である。）同音で読める地名が九重と久住とあって、九重を『ここのえ』と読むのか『くじゅう』と読むのか迷ってしまう。平成の大合併の前は、九重町と久住町とあって紛らわしかった。（現在久住町は竹田市になっている。）九重町とある行政区分としての町名は、『ここのえまち』である。相撲部屋の九重部屋と同じである。この地域を広く指す時は、『くじゅう』と言うひらがなで表記すれば言いと思う。（最近は定着してきていると思う。）また九重山か久住山かどのように区別するのか迷うが、九重は連山（山が重なる）の場合に使い、固有の単体の山は久住山と言われている様である。&lt;br /&gt;
　九重町（ここのえまち）では、『夢大吊橋』が最近観光スポットとして有名になってきた。日本一の人道大吊橋で、橋の長さ・吊橋の怖さ・スリル景色のすばらしさで、最近人気スポットとなった。&lt;br /&gt;
　飯田高原くじゅうは、九州のハイキング・登山のメッカである。ここにはラムサール条約登録地のくじゅう坊ガツル・タデ原湿原がある。九重連山に囲まれた高原の湿地帯ということで言えば、関東圏の人には尾瀬沼のような所と説明したほうがいいかもしれない（車で入れないのも同じ）。ここのことを歌った『坊がつる讃歌』と言う歌がある。元々は広島大学の山岳部の歌だったらしいが、芹洋子が歌ってヒットした山男の歌である。この辺の景色は雄大で、都会の気ぜわしさ・しがらみ・ストレスを忘れ、雄大な自然に接しているとそれだけで癒される気がしてくる。&lt;br /&gt;
　この辺りには、５月の終わりから6月にかけて、高山植物のミヤマキリシマがピンクのじゅうたんを敷いたように花を付ける。シーズンになると、この辺りの山なみハイウエーが交通渋滞を起こすほどになる。&lt;br /&gt;
　山なみハイウエーと言うのは、よく外から来た人が誤解するのであるが、高速道路ではない。大分の水分け峠から熊本の阿蘇一宮までを、愛称でこのように呼んでいる。（むしろ山なみハイランド・ウエーといった方が適当。）昔は有料道路であったが今は無料化されている。ここの道路がすばらしいのは、信号が少ないこと、景色を遮る建物がないこと、高原道路で飯田高原・九重連山を見渡せること、熊本の方は世界最大級の阿蘇の雄大なカルデラを見渡せることである。（ここが日本であることを忘れさせるほどの雄大・広大なドライブウェイである。）いつの季節もそれぞれ良いのであるが、狭い日本にまだこれほど広々とした建物のない雄大・広大な空間が残っているのか（いたのか）と感動する。これとは別に九州横断道路と言われるものがある。（山なみハイウェーはその一部である。）これは別府と熊本を結ぶ道路である。別府の東側別府国際観光港から、日豊線を横切り山の方に上がって行き鉄輪温泉・地獄を右に見て、左の方西へ鶴見岳（頂上から別府湾のほうを見ると、高崎山が頭で佐賀関半島・国東半島がそれぞれ両翼の、飛ぶ鶴の姿に見えると言うことから）の南山麓を登り城島高原の踊り場を過ぎ、由布岳の南山麓を西へ越えて下り、由布院盆地の北側を通っていく。更に進んで水分峠に至る。水分峠から熊本一宮までが、山なみハイウェーである。一宮からは、豊肥線と平行に走って阿蘇の外輪山の西の切れ目の赤水を通って、大津・熊本へ至る。&lt;br /&gt;
このほかに大分から犬飼（大野川沿い）を通って大津・熊本に至る中九州横断道路が現在建設されている。（これは産業道路の意味合いが強い。）（大分は九州他県と、屏風のように山で隔てられている。鉄道で県外に抜けるコースは、幾つかある。宮崎へは佐伯から延岡へ抜ける日豊線、竹田から熊本へ抜ける豊肥線、日田から久留米へ抜ける久大線・田川へ抜ける日田彦山線、中津から小倉に抜ける日豊線がある。高速道路は、県外に抜けるには今のところ、西側の鳥栖までの大分自動車道だけである。）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kokorozentabi/1523615.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Sep 2008 18:06:33 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
		</item>
		<item>
			<title>■○▲大分の地理歴史　０４</title>
			<description>　福沢諭吉は、『学問のすすめ』を書いた事で有名であるが、その初版は中津の同郷人に宛てて書かれたものである。それを中津の人だけでなく広く世間に知らしめた方が良い、との薦めがあって、広く一般人向けに出版し、当時多くの日本人に読まれた。&lt;br /&gt;
彼の『学問のすすめ』での学問は、門閥や封建体制の肯定・維持的な儒教や古文・和歌・漢文・詩歌・修辞を想定しているのではなく、身分制度のなくなった今、読み書きそろばん・西洋実学を想定し、これを勉強し身を立てるべきだと言っている。（例えば、西洋実学とは、英語と経済で言えば簿記・会計、手形・小切手、金融・銀行、保険、商法などが具体的には想定されていたのであろうか。彼が日本に紹介した西欧経済システム全般である。）そして、人民が学問をし、愚民とならず才徳・理性を備え良民となれば、政府・日本も良くなるとしている。&lt;br /&gt;
彼の特徴的なことは、体制に矛盾を感じていても、正面きって反対することなく穏やかに表面的には従うようにおとなしくしていたことである。（家老の倅に長崎から追い出されようとした時や、アメリカからの帰国後鎖国・攘夷論が吹き荒れる中で、正論を周囲や時期を考えず声高に主張することなく、おとなしくしていた。又アメリカが見たくて渡米するのも、吉田松陰のように国禁を犯してもというのではなく、儒者のつてを頼って、時代が許したと言うこともあろうが、幕府の軍艦奉行木村摂津守の随員として渡米している。）&lt;br /&gt;
又独立自尊、在野精神と言うこともよく言われる。政府に入って、立身出世を目指し、内容も無いくせに上からものを言う権威主義、上の者には平身低頭、下の者は見下し威張り散らす、と言う奴隷根性が性に合わなかったらしい。&lt;br /&gt;
今から思うと、歴史にはもしはないと言うが、もしペリーが浦賀に来航していなければ、福沢諭吉がオランダ語を勉強に長崎に行くこともなかったし、悶々として一生中津で過ごしていれば、今の東京港区三田の山の上の慶応義塾もなく、慶応幼稚舎（小学校）のお受験もなかったのではなかろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に有名なのが、出身と言うことではないが、黒田勘兵衛（孝高・如水）である。豊臣秀吉の九州平定後、豊前を拝領し中津城を築城した。（中津の藩主は、黒田氏のあと、細川氏・小笠原氏・奥平氏と替わって幕末を迎えた。）黒田勘兵衛は、豊臣秀吉の家臣竹中半兵衛と共に、同時代の信長・秀吉の軍師・参謀として有名である。黒田勘兵衛の祖先は流浪の後、備前岡山の福岡に定着した。（後に黒田氏が関が原後筑前に移った時、この福岡を懐かしんで、小早川氏の築いた小島の名島城は手狭で、博多の那珂川の対岸福崎の地を福岡とし城を築き藩庁とした。これが幕末明治期の版籍奉還廃藩置県の過程で、県名となっている。）その後この地も追われ、播磨姫路に逃れた。この時に勘兵衛は生まれた。まだ信長・秀吉による全国平定はなされておらず、黒田氏は、信長側につくか、毛利方につくかの選択に迫られ、結局信長側につくべく決断をした。そして信長・秀吉の中国平定・毛利攻略の軍師・参謀として頭角を現した。そして織田信長暗殺直後の秀吉の中国大返し天下獲りに参謀として活躍した。秀吉の九州平定後、秀吉が黒田勘兵衛に与えたのは、豊前６郡１２万３０００石だけだった。これは秀吉が黒田勘兵衛の智謀を恐れたからだと言われている。ともかくこれで黒田勘兵衛が中津に入部してきたことになる。秀吉が死んで、石田三成らが徳川家康を討とうと挙兵した時、黒田勘兵衛は徳川我方が勝つように工作する一方、独自に九州で挙兵し北九州を取り込み機会があれば徳川と争う、と言う両面作戦で行動していた。（関が原で余りにも早く東軍家康方が勝利したため、天下をうかがう機会はなかった。）このときの緒戦で大友宗麟の子の吉統（よしむね、最初は義統だったが、秀吉から一字をもらった以降は、吉統。）と別府石垣原で戦った。吉統は、秀吉から朝鮮出兵の時の失態などから改易されていた。吉統は、石田三成らから西軍に加担するなら、豊後の大友家復興を認めるとされ、軍資金をもらい別府に戻り挙兵したのである。しかし吉統は黒田勘兵衛に敗れた。ここに鎌倉時代から続いた豊後大友家は滅亡し再起の余地もなくなった。（江戸時代高家として、吉統の孫の代から子孫は残ったが。）家康は、関が原の戦い直後、黒田長政（勘兵衛の息子）に筑前５２万石を与えたが、黒田勘兵衛は恩賞を固辞し、質素・倹約な隠居生活を送ったという。軍師黒田勘兵衛は、家康に深く警戒されていたことが分かっていたからであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中津といえば前述のように鱧（はも）料理が有名である。京都も有名であるが中津も有名である。日本では、西日本の海に住む生命力の強い口が大きく歯が鋭く、うなぎ・アナゴに似た魚である。ただ肉の中に小骨があるので、『骨きり』と言う特別な作業が必要で、素人ではなかなか調理できず、その為それを調理出来る調理人が集まっている所が、はもを食べられる所ということになり、中津が有名になったのであろう。&lt;br /&gt;
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中津から山国川を南西に英彦山のほうに遡った所に青の洞門がある。（日田のほうから大石峠を越えて山国川を下ってくると右岸）山国川沿いに切り立った大きな岩山があり、川沿いの道の難所となっていて、人工的に隧道・トンネルが掘られている。菊池寛の『恩讐の彼方に』で有名である。どこまでが史実でどこからが菊池寛の空想・妄想・創作かであるが、史実は、中津藩が水田・新田開発の為、山国川をせき止めて堰を作った為、川原の道が水没し交通の難所となっていた。そこを禅海上人が隧道を作ることを決意し、最初は一人でのみと槌で長い年月をかけて掘り進んだ。途中から村民の協力もあり長い隧道を完成させたというものである。隧道部分が１４４メートルもある長い物である。これをノミと槌だけで完成させている。（今は改修され自動車も通れるようになっているが、歩いて旧道を見てみるとノミの跡が確認できる）。（話はそれるが、酒飲みのことを左党と言うのを聞いたことがあるであろうか。右利きの場合は、右手に槌を持ち、左手にノミを持つ。つまり左手はノミ手。これを酒の飲み手としゃれて、左党と言うのである。最近は削岩機に替わり、ノミも槌も見る事が無くなり、生活実感がないのであるが。）&lt;br /&gt;
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さらに山国川を南西に遡っていくと耶馬溪がある。新日本三景の一つに数えられ、特に秋の紅葉の季節は、岩山にもみじの映えるのを見る事が出来、日本の自然の美しさが感じられる所であり、非常に人気のある所である。&lt;br /&gt;
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山国川を青の洞門・耶馬溪と上って行って英彦山から発する山並みを大石峠で超えると、そこは天領日田である。英彦山から東へ流れ瀬戸内海に流れ込む山国川の水系から、今度は西へ流れ久留米・大川と流れ有明海に至る筑後川の水系となる。&lt;br /&gt;
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日田（ヒタと読み、タケタと同じく濁らない。）&lt;br /&gt;
日田は筑後川上流の盆地である。（盆地と言っても、西側久留米の方から筑後川を遡る場合は、一山超えるだけのことであるが。）筑後川上流に位置する為、大野川・大分川・山国川と水系が異なり、生活圏が異なり、瀬戸内海側の中津・大分（大分川・大野川水系）と言葉も違った（久留米地方に近い）特徴を持つ。日田のイメージは、天領日田・水郷日田・小京都・日田杉・下駄・小鹿田焼（おんたやき）といった所であろうか。&lt;br /&gt;
島原の乱後、天領日田は幕府九州支配の要（かなめ）となり、九州全土の監視のため代官・郡代が置かれた。幕府の日田代官は九州のキリシタンの監視・外様大名など諸藩の監視と共に、九州の他の幕府天領の支配・総元締めでもあり、徳川幕府の九州支配の拠点であった。九州の要と言うのは、地理的にみて重要地点であったことである。北へ行けば黒田・福岡へ、北東に行けば豊前奥平・中津へ、東へ森・玖珠・由布院と行けば府内・高松へ、南へ阿蘇の方に上っていけば肥後熊本・豊後岡藩竹田へ、筑後川を西に下っていけば有馬・久留米へ又鍋島佐賀・長崎へと言う具合であった。その為幕府は重要地点として手放さず直轄地天領としたのである。そして天領日田には九州中の天領からの年貢をはじめとする幕府御用金が集まり、日田は金融センターのような役割を果たした。そしてその金は『日田金』と呼ばれ、幕府御用金を取り立て運用する豪商掛屋（幕府御用金を預かり貸付を行う金融御用商人）も存在し、藩領・大名領に比べ天領は管理コスト人件費負担が軽く住民の税負担が軽かった為、江戸時代天領日田は栄えた。（幕末・明治維新になって、その貸付金は踏み倒され、日田は段々衰退していったと言われる。）&lt;br /&gt;
日田で有名な人といえば広瀬淡窓である。日田の豪商の家に生まれ長男であったが、病弱の為家業は弟久兵衛に譲り、私塾『咸宜園』を開いた。（本を読んでいると、淡窓の子孫に、政治家・実業家・知事などが出たと書かれている物が多いが誤解である。日田豆田町の広瀬家の二階の家系図を見てみると、淡窓は妻帯しておらず子供もなく、子孫が出ているのは弟久兵衛からである。実際を知らず文字情報・本だけを追っているとこのような事になる。）&lt;br /&gt;
広瀬家は久兵衛の時代に掛屋に昇格した。咸宜園が江戸時代全国的に有名な町人による私塾となりえたのは、日田の町が天領で裕福で豊かな豪商（町人）が居たからであろう。咸宜園と言うのは、淡窓自身が町人身分だったこともあってか、『ことごとくよろし、みなよろし』と言うことで、来る者を拒まず身分に関わらず（当然百姓・町人も）女性も受け入れたと言うことであった。レベルは、９級から１級まであり、席順は試験の成績順であったと言う。又内部自治制を定め当番制で役割を分担して生活していたと言う。咸宜園は日本の明治の大学制度にも参考とされた為、現在の大学運営者も広瀬淡窓・咸宜園の事はよく知っていると思う。一般的には、広瀬淡窓は優れた漢詩漢学者・儒学者と言うことになっているが、福沢諭吉は、中津の漢学者が広瀬淡窓や頼山陽を見下していたので、自分たち門弟もそのような気になって、余り評価していなかったと言う。（咸宜園は、現在の久大線日田駅の近くにある。大分・由布院を背にして駅前を西に久留米の方に向かう。700メートルくらいあろうか、日田駅から2つ目の久大線のガードをくぐった所右側に、咸宜園はある。豆田町のほうから言うと、南のはずれに当たる。咸宜園に行くと日田市の教育委員会の人が、いろいろと説明をしてくれる。村田蔵六（大村益次郎）在塾の書きしるしも見る事ができる。萩の松下村塾同様ここも大きく広くはないが、幕末明治期日本の方向を決する重要人物が、ここから多数輩出されたのかと思うと、感慨深い。）</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/kokorozentabi/1523409.html</link>
			<pubDate>Sun, 28 Sep 2008 18:02:10 +0900</pubDate>
			<category>その他文化活動</category>
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