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鎌倉後期の宮廷は熟れきった斜陽の世界。承久の乱(1221年)で後鳥羽院が敗北すると、政治の実権を鎌倉に奪われ、貴族は茫然自失、倦んだ目で九献(酒)に溺れ、女たちは漁色の危機にさらされていた。
14歳で後深草院の後宮に入った美少女・二条。養女から愛人へと扱いが変わり、酷薄な帝王から女官とも妃ともつかない立場で翻弄される。二条は文学や音楽、絵の才能もあり、宮廷のアイドルとして輝きに満ちていた。みずみずしい肉体から放たれる香気―――宮廷の男たちは次々と魅了され、その性愛生活も大胆になっていく。
講座「歴史の歩き方」(日本を見つける知の探訪)はJR東海の主催。<第33回)は<「とはずがたり」に問う―――後深草院二条、愛と漂白の日々>だった。会場の有楽町・よみうりホールは満席。火山、ずっと構想を温め、ワープロを打たなかった。
あまりにもショッキングな内容。講師の<宗教学者>山折哲雄。「どこまで具体的に語ってよいか。今日はご婦人も多いようですから(爆笑)。…といって語らなければ講師を果たせない。悩みました…」。満場がドッと湧いた。女性の方が大胆だ。火山、ドキッとした。
昭和13年(1938年)宮内省図書寮で御文庫の調査をしていた国文学者の山岸徳平は「地理部」の目録の中に、他と明らかに違う異色の書名を見つけた。―――「とはずがたり」。
ページを繰ると、それはセンセーショナルな猟奇譚。中世宮廷の秘められた色恋沙汰が<独白>の形で綴られていた。内容の過激さから禁裏の奥深く秘匿されてきたらしい。
「とはずがたり」は上流貴族の性愛が赤裸々に描いてあるだけで注目されるのではない。後の研究で南北朝期の史書「増鏡」に引用されていることも判明。記事には正確性があり、女性の手になるとは思えないほど、生々しい描写、感情に流されない冷静な視線があった。
筆者の二条は承久の乱から27年、鎌倉全盛期。1253年に鎌倉建長寺が創建され、日蓮は「立正安国論」を書き始めていた。
絶世の美少女だった二条の人生を最初に支配したのは帝王・後深草院。後嵯峨院の第二皇子。4歳で皇位につき、17歳で弟の亀山院に譲位、その後は上皇として酒色に溺れる。
「とはずがたり」は二条が14歳の時、29歳の後深草院が彼女の父に後宮入りを強引に求める場面から始まる。自分の実家で院と<新枕>を交わすことを強いられた若い二条は、思いがけないことにとまどい、泣き崩れる。実家は京都御所にほど近い河崎観音堂のあたり。「観音堂の鐘の音、ただ我が袖に響く心地して」とあるが、夜通し院に若い女体を責められ、鐘の音の中で泣き明かした。
若い愛人に執拗に執着する院は、彼女を強引に御所に伴う。院の御所は現在の京都府中京区庁舎あたり。実家のあった河崎からは歩いて10分程度。いわば幼いころから馴れ親しんだ場所だったが、愛人となった今は身の置き所もなく「恐ろしくつつましき心地」に震えた。院には11歳年上の正妃がいたからだ。院は気まぐれで、女性に対して酷薄、時には陰湿だった。
美少女の二条、生涯を通じ多くの男から言い寄られた。18歳の春、院が熱に倒れた折、祈祷に訪れた僧。正体は院の一つ違いの異母弟。「とはずがたり」には<有明の月>という名で登場する。5歳で仁和寺に出家するが、兄の御所に出入り、二条に恋焦がれていたらしい。
準備のため二条が祈祷場所の隣室に入ると、有明が現われ、祈祷の始まるまで、ほんの僅かの時間に犯されてしまう。護摩壇の灯明の陰で怪しい恋の煉獄が展開される。
二条20歳の夏、院は近衛の大殿(摂政・鷹司兼平)に懇願され、伏見の離宮を訪れる。連夜の宴に院の側に仕えていた二条。宴も果て深夜一人屋外に出た二条。50歳を過ぎた近衛の大殿が襲ってきた。ムリヤリ御簾の陰に引き込まれ、レイプされてしまう。
味を占めた初老、なんと次の夜も言い寄ってきた。院の足を二条が揉んでいた。なんと、それと察した院、怒るどころか、抵抗する二条に「早く立て、差し支えあるまい」と一言。しかも「独り寝は寂しい」という院の床の隣で老境の男に犯される。それも連夜。次の夜も次の夜も…。「死ぬばかり哀しき」―――二条の手記だ。
宗教学者・山折哲雄。「とはずがたり」は「源氏物語」と並ぶ日本古典文学の世界的傑作。ひいてもう一つあげれば近松門左衛門の「好色一代男」…という。
「源氏」は一人の男を巡る女たちの恋物語。だが「とはずがたり」は一人の女を巡る多数の男の性愛物語。しかも全部、実体験。ノンフィクションだ。
二条は院の没後、出家を余儀なくされる。いつ出家したか、定かでないが、巻4でいきなり32歳の尼僧となって現れる。尼となった二条は「伊勢物語」の主人公や西行の足跡をなぞるように、東国に漂白の旅に出る。 +++続く+++
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