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<「とはずがたり」に問う―――後深草院二条、愛と漂泊の日々>は<JR東海>主催の講座「歴史の歩き方」(日本を見つける知の探訪)。
あまりにも赤裸々な中世貴族の<性生活>の描写。講師の<宗教学者>山折哲雄さんは「どこまで具体的に語ってよいか。今日はご婦人も多いようですから(爆笑)。…といっても語らなければ講師の役割を果たせない。悩みました」と第一声。満場がドッと湧いた。でも女性の反応の方が大胆だ。火山、思わずホッとした。
「とはずがたり」の成立は鎌倉後期。第89代の天皇・後深草院に仕えた二条という女性が残した手記。昭和13年(1938年)宮内省図書寮のご文庫を調査していた国文学者の山岸徳平氏が発見した。ページを繰った彼は仰天した。上流貴族の性愛がセンセーショナルな<独白>で綴られていたからだ。
「とはずがたり」は5巻が残され、巻1から3までは宮廷での華やかな日々、巻4と5は紀行文を中心とした出家後の心の彷徨が描かれている。この5巻には写本が存在しない。いわゆる「天下の弧本」。
もちろん二条の直筆は行方不明。とうに失せたとされている。写本は江戸期、元禄初期の写本と分かった。それから約250年、内容の過激さから禁裏の奥深く秘匿されていた。
二条は権中納言正二位の源(久我)雅忠を父に、藤原氏四条家出身の女を母として、正嘉2年(1258年)に生まれた。文学や音楽、絵の才能もあり、宮廷のアイドルとして輝きに満ちていた。みずみずしい肉体から放たれる香気―――宮廷の男たちは次々と魅了される。
高貴な出自、そして院の愛人としてのプライドも人並み以上に高く、快活な気性も手伝って院の正妃である東二条院には常に煙たがられた。これが後に二条に降りかかる数々の不幸の伏線となる。多くの男から求愛され、漁色の犠牲となってしまう。
二条は14歳で後深草院の後宮に囲われ、美少女であるがゆえに日夜、院の寵愛を受ける。院の好色はそれだけでは満たされない。院は彼女に言い寄る男を見つけると、自分の寝所に連れ込み、自分の眼前で二条を抱かせる。美少女の所有者であるという悦楽を味わっていたのだ。若い二条には「死ぬばかりに哀しき」地獄だった。
さらに倒錯した性の煉獄が訪れる。院の実弟、亀山院との夜だ。亀山院とは後深草院が17歳の時に皇位を譲った母を同じくする弟。
後深草院の父・後嵯峨院は安定した長期政権を維持していたが、皇位継承の原則を明確にしないまま崩御したため、後深草院と同母弟の亀山院の間に、我が子や孫を皇位に着けるべく皇統を巡る内紛が起きる。後深草系の持明院統と亀山院の大覚寺統。結局は鎌倉幕府の仲介で、交互に即位する<両統迭立>となる。
その因縁の同母弟の亀山院と二条の夜がやってくる。二条は神無月(旧暦の10月)の頃、嵯峨野の法輪寺に篭もった。紅葉の色を川面に映す大堰川の清流―――嵐山の中腹にある法輪寺から見渡す嵯峨野の秋は一幅の絵巻だった。
二条がここに篭もっている時、眼下に見下ろす対岸の嵯峨殿では後深草院が亀山院を伴い、手ぐすねひいて待っていた。現在の天竜寺の界隈だ。夜になると亀山院が後深草院の寝所に入ってきて、大胆にも言い放った。
「二条を二人の間に寝かせてください。私の女房の中にお気に召した者がいたらいつでもどうぞ、と約束したでしょう」―――。院はさすがに驚いたが、承知するしかない。結局、亀山院はその夜、院の前で思いのまま二条を抱いた。それだけではない。次の夜は3人で<添い寝>するという<異常>ぶり。交互に抱いたのだ。
後深草院は、あっけらかんとした明るい弟に日頃から強い劣等感を持っていた。美少女の二条を気に入った亀山院。夜となく昼となく二条を抱き、手元から話さない。漁色の限りを尽くした。
だが後深草院。身勝手にも強く嫉妬した。それがやがては二条の御所追放へとつながっていく。二条はただ大堰川の濁流に身を任せるだけの美しく色づいた木の葉でしかなかった。
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