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露消えし 後のみゆきの 悲しさに 昔にかへる わが袂かな(二条)
鎌倉後期の女性・二条が残した「とはずがたり」は後深草院の3回忌を書いて終っている。僅か14歳の美少女を養父が自分の情欲の餌食にした。下紐を結ぶ暇もないほど、日夜寵愛。<性の傀儡(くぐつ)>に仕立て、身も心も完全に支配した。
二条は高貴な出自、文学や音楽、絵の才能に優れ、快活の気性、宮廷のアイドルだった。
太政大臣家の御曹司と密かに文も交し、将来に夢も抱いていた。そんな二条を養女から愛人に変えた男。気まぐれで酷薄、陰湿でもあった。二条のみずみずしい女体を責めるだけでは飽き足らず、様々な男に抱かせ、眺めて楽しむ。「死ぬばかりに哀しき」と手記にある。
二条は26歳の若さで<御所追放>の憂き目にあう。後深草院の同母弟の亀山院が二条を「類稀れに寵愛、もう院には戻る気がないらしい」というウワサが原因。もともと弟を唆したのは自分なのに、実に身勝手な嫉妬。2歳で母を、15歳で父を失った二条、追放されても戻る家はない。出家するしかない。天涯孤独となった二条は<僧形>で<漂泊>する。
手記「とはずがたり」は昭和13年(1938年)、宮内省図書寮で国文学者・山岸徳平氏によって発見された。ページを繰った山岸氏は仰天した。上流貴族の性愛が赤裸々に綴られていたからだ。しかも女性の筆になるとは信じがたい生々しい描写。読み進むと鎌倉期の史書「増鏡」にも引用されるほどの正確性があることも分かってきた。
宗教学者の山折哲雄氏は「源氏物語」と並ぶ世界的な2大古典と評価する。実際、瀬戸内晴美(寂聴)や杉本苑子が小説にしている。米国、ドイツ、ロシア、イタリア、ブルガリアで翻訳、出版されてもいる。
承久の乱(1221年)に敗れた朝廷。政治の実権は鎌倉に移り、貴族の男たちは酒色に溺れる以外、やるべきことがない。勢い退廃した宮廷にあった美女たちは<漁色>の対象とされ、苦悩の日々を強いられていた。「うら若い二条は、彼女なりに必死に役目を勤め、中世の宮廷という淀んだ海を泳がねばならなかった」とJR東海の<NAVIRET>にある。
西行を慕い、東国から西国を漂泊した二条。旅の空で遊女に会うと、言葉を交わし、その様子を手記に残した。高貴な出自とはいえ、自分の境遇に似ていると思ったのだ。
そんな二条が奈良からの帰路に立ち寄った石清水八幡宮。社前で偶然、後深草院と出会う。。二条は村上源氏の一員。氏寺での8年ぶり、劇的な再会。
「忘れざりつる心の色は思ひ知れ」という後深草院の情け深い言葉に思わず涙。だが「近いうちにまた会おう」と言われると「昔から他の女性より厚遇することもなかったくせに…」と恨み言を言いたくなる。
空白の時間が流れ、<巻5>に45歳の二条が登場する。また旅姿。今度は秋の厳島神社へ。
旅から戻った二条は奈良に住む。翌年、後深草院の病のウワサを聞く。いてもたってもいられず石清水八幡宮に参籠、院の本復を祈願する。どうしても一目会いたい。かつての恋人(初恋の相手)「雪の曙」(太政大臣に出世)に懇願、<夢のような拝顔>を得る。
次の日、後深草院は崩御―――。何とも劇的な別れだ。
二条は泣き崩れたりしなかった。本来、憎んでも憎みきれない。一生を台無しにさせた男。
院の愛人として誇り高い日も確かにあった。あの<粥杖事件>―――。女官を指揮、院と亀山院を<粥杖>で袋叩きにした。女官らは追放。だが首謀者の二条は<お咎め>なし。
亀山院に小弓競技に負けた院。女房猿樂で「源氏物語」を上演する。だが席次争いから二条がボイコット、オジャンだ。だがこれも<お咎め>なし。院第一の愛人の権勢だ。
だが屈辱も多い。初老の男に二条を抱かせた。<近衛の大殿>の名で「とはずがたり」に登場する。時の摂政。初老が20歳の二条に横恋慕。院を招待、連夜の宴で院を酔い潰させ、深夜に二条を襲ってきた。御簾の陰で執拗にレイプ。だが院にばれた。興を覚えた院、この初老にも夜な夜な二条を抱かせ、自分も側に寝た。「独り寝は寂しい」というのが口実。
宗教学者の山折哲雄氏が最後に言った。「天皇家には秘伝の<性技>があったらしい。天皇と一度でも寝た女性は<終生>忘れられない」。多くの女性が語り伝えているというのだ。
院の崩御を知った二条。せめて棺だけでも見ようと、二条富小路の御所の前をウロウロ。やがて夜、深草の御陵に向かう葬列が出発した。尼姿の二条、それを追いかけた。
「あわてて、履きたりし物もいづ方へ行きならん、はだしで走り降りたる」―――。裸足で走った。足も痛く、徐々に遅れる。でも足は走ることをやめない。
やがて<藤の森>が見えてきた。暗い暗い闇。迷いながらも一人で御陵に到着。涙に咽びながら「空しき煙の末」のみを拝した。当時の貴族の女性、決して走らなかったという。
JR東海の冊子「NAVIRET」には後深草院の肖像画がカラーで乗っている。普通の天皇より小さい。小柄だったらしいと注。だが講師の山折哲雄氏が最後にポツリと漏らした。後深草院は幼い頃<小児麻痺>を患った。―――足腰不自由な<不具>の身だったのだ。
+++++<完>+++++
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