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若き日の小泉は大恩ある領袖・福田赳夫であっても<内閣総理大臣>を<派閥の論理>や<ご都合主義>で<軽く>扱うことは許さなかった。だから自民党内に<三木降ろし>が吹き荒れた時、たとえ陣笠議員であっても<一人>で<正論>を吐く勇気を持っていた。
1972年の総選挙で初当選すると小泉は書生時代の恩師・福田派で政治を志した。だが以来33年余、<郵政民営化>では<孤高>を貫き通し、<一匹オオカミ><変人><一言居士>との異名もとった。
なぜ<郵政民営化>か―――。こんなエピソードがある。初当選以来、昭和60年代まで小泉が財政や金融をエリアとする大蔵畑一筋で歩いてきたのは大蔵省出身何度も蔵相を務めた福田赳夫元首相の影響が強いという。昭和50年代後半、党の財政部会長だった自民党の大原一三(衆院議員。元農水相)が、副部会長を務めた若き日の小泉を語ったもの―――。
「リーゼントスタイルで洒落た若造がいると思った。言うことが面白かったよ。その頃から『財投をゼロにしろ』『こんなムダはやめろ』などと言っていた。二人で初めて特殊法人の整理みたいなことを手がけたが、成功しなかった」と。当然だ。財投も特殊法人も官僚と族議員の<利権>の温床。一介の議員では手を突っ込めない<聖域>だった。
だが<郵貯><簡保>を主要な<原資>とする<財投>こそ、今日の<1091兆円>(GDP
2倍>の国と地方の借金を生み出し、官僚の天下りなどムダと腐敗を作った<元凶>だ。
1996年春、小泉がたった一人で言い出した<衆院解散>を橋本首相は秋に断行、第二次橋本内閣を発足させた。小泉は請われて厚相となる。橋本龍太郎は江田憲司ら官邸スタッフと総理のリーダーシップを高め<官邸主導>体制を強化すべく、<橋本行革>を進めた。
97年9月には何と<簡保民営化><郵貯の民営化条件整備>という中間報告がまとまった。小泉は厚相として<郵政民営化>の行方を熱く見守った。
だが既に<「官邸主導」13>でご紹介したとおり、郵政族のドン野中広務によってもろくも葬り去られる。総理総裁の主張を当時<幹事長代理>に過ぎない野中が跡形も無く吹き飛ばした。小泉は怒り狂った。<総理総裁>の権力に期待していたからだ。
失望した小泉は1997年11月22日深夜、首相官邸の出向き、厚相の辞表を叩き付けようとした。ワイシャツの袖に手をかけようとした瞬間、電話が鳴った。相手は橋本首相。
世論調査で高い<好感度>を持つ小泉が辞任したら政権には致命傷。橋本も必死だった。
「今すぐ<民営化>を最終報告に入れることはできない。だが私は記者会見をして<2つの改革>をハッキリ約束する。なんとか考え直していただきたい」。橋本が小泉説得に持ち出したのは「郵政事業への民間参入解禁」「郵貯資金の資金運用部への預託廃止」だった。
預託が廃止されれば郵貯資金が自動的に<財投>に流れ込み、ムダな事業と不良債権が膨らむカラクリにひとまず歯止めがかかる。
小泉は全国特定郵便局長会や族議員の底力を知り抜いていた。現状維持に凝り固まった郵政族はどんな些細な改革も容認するはずがない。結局、次の閣議では閣僚から反対論が出て潰れるのではないか。橋本の約束を聞いても半信半疑は残った。
だが辞任は思いとどまった。「総理にここまで言われちゃあ、仕方ねえな」。内閣の一員。総理の言葉は重く受け止めざるをえない。そう思った。
週明けの閣議に出席した。だが必死の形相の総理・橋本に異論を唱える閣僚は一人もいなかった。最終報告案はすんなり通った。
「公社化と郵貯の自主運用を進めて行けば、もう後戻りはできない。郵政3事業はいずれ、水が低きに流れるように民営化の方向に動いていく。間違いなくそうなる」―――。小泉はこの時、予言したという。
橋本への辞表。際どい綱引きを演じて<郵政民営化>への足がかりを掴んだ小泉。平穏な閣議に拍子抜けを感じながらも長年、想をめぐらしてきた<内閣総理大臣論>に新しい結論を付け加えた。
「日本の総理大臣は権限が小さいと言われ勝ちだが、意外とそうでもない。本気でこうすると言えば、閣僚はなかなか反対できない。なんだかんだといっても総理の命令には従わざるをえないものなんだ」―――。
だが<郵政民営化>は自民党がほぼ全党的に反対。実は野党もこぞって反対していた。だから小泉、実現は「政界の奇跡」とまで言った。反対を覆えすには閣僚や党3役の地位ではどう奮闘してもパワーが足りない。自ら宰相の座に就き、内閣総理大臣のあらん限りの権力を行使して挑戦する以外ない。
「俺が総理大臣にならない限り、郵政民営化はできない」―――。孤高の政治家・小泉純一郎が総理総裁を狙おうと本気で決意したのは、この時だったかも知れない。清水真人「官邸主導」(日本経済新聞社)には、そう書いてある。
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