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小泉首相は「経済財政諮問会議」を最大限に活用、「大蔵省が取り仕切ってきた予算編成を<官邸主導>に切り替えようと<悪戦苦闘>してきた。それほどに<官僚の壁>は厚い。
「マクロ経済の動向や産業界の生の声にも目配りしながら、首相、経済閣僚が経済財政の舵取りをする」―――。橋本龍太郎や江田憲司ら当時の官邸スタッフが「心血を注いで目指した目標」だった。
諮問会議を構想した一人の江田は「行革会議の最終報告で経済財政諮問会議の創設を決めたあたりまではハンドリングしていたが、基本法に盛り込むところで骨抜きにされた。政権が経済危機に陥り、橋本さんも私も行革に目が行届かなかった」(226頁)と悔やんでいる。清水真人「官邸主導・小泉純一郎の革命」(日本経済新聞社)にある。
国と地方を合わせた負債は<1061兆9000億円>(日経、2005年1月5日)―――。橋本政権でも<財政再建>は大きな目標だった。だから大蔵省に任せず「本当は『予算編成の基本方針』を『企画立案』するのはもちろん、『決定実行』する権能まで持たせるつもりだったのに『調査審議』にとどめられてしまった」(227頁)という。
諮問会議は法的には官邸に直結する内閣官房ではなく、ワンクッション置いた内閣府に設けられた。江田は「本当は内閣官房と内閣府を一体化して首相官邸に直結させる『大内閣府』構想を描いたが、行革会議の中心になった憲法学者が退けた」(227頁)と悔いを残している。犯人は京大教授・佐藤孝治(憲法)か東北大教授の藤田宙靖(行政法)のいずれからしい。火山も悔しい。
諮問会議は内閣官房の企画立案を助けるために「調査審議」をして「意見を述べる」権能しかない。まさに「諮問」機関。だが小泉首相と竹中のコンビは<官邸主導>へ諮問会議をフルに活用する。そこに至る紆余曲折をたどると<官僚機構>の<壁>が見えてくる。
村山政権が設置した行政改革委員会の事務局長も務めた拓大教授・田中一昭は「諮問会議は内閣府に封じ込められた」と表現、実効を挙げられるか、懸念したという。
森政権で諮問会議の立上げ役として経企庁長官を続投していた堺屋太一は「諮問会議は『生まれの良い孤児』だ。大変高貴な生まれだけれども、なかなか育ててくれる人がいない」―――と嘆いた。
民間議員は法律では「非常勤」と定められた。堺屋太一は「要職という意識を形の上でも持って欲しい」と民間議員専用の個室を設け、専属の秘書、専用車も用意するなど指示したが、「非常勤」が壁となってしまった。それでもこだわる堺屋。「諮問会議に再就職を狙っている」と陰口が飛んだという。霞ヶ関は伏魔殿だ。
2001年1月6日。一府十二省庁の新体制がスタート。土曜日にもかかわらず初閣議の後、午後2時15分から新体制の<象徴>経済財政諮問会議の初会合が首相官邸で開かれた。
諮問会議を司会役で切り回す経済財政担当大臣は額賀福志郎。民間議員は奥田碩トヨタ会長(日経連会長)、牛尾治朗前経済同友会代表幹事、経済学者からはケインジアンの東大教授・吉川洋、財政学の本間正明という布陣。
高揚した面持ちの森は「諮問会議の第一の課題は、景気を自立的回復軌道に乗せること」と述べた。森は「構造改革」という言葉を使わなかった。奥田が問いただしたという。「要するに景気回復が優先か、構造改革が優先なのか」―――。
「予算編成の時から景気を完全に回復基調にのせることに全力投球…」と景気優先をにじませた。額賀が「それで行きたいと思います。経済構造改革によって、本格回復に乗せていく…」―――。
森が発言しなかった「構造改革」を額賀がいったので、牛尾がすかさず「構造改革の方向で景気回復を図る」と言質をとろうとした。だが地方財政や国家公務員の定員を所管する総務省の片山虎之助が「一つだけというのは良くない」と発言したため、景気対策と構造改革の<二兎を追う>こととなり、<構造改革>を優先したい民間議員の意向は遠のき、草創期の諮問会議が停滞する原因となったという。
森にも額賀にもじつは<官邸主導>の意識はなく、与党との事前折衝も念頭においていたというからお粗末。
ただ官房長官の福田康夫は「額賀長官の発案で今日はお役人は一人もいない。原案では30人ばかり、ぐるりと取り巻くことになっていたが、そういうことをやっては政主導ではなく、官が取り巻く政治形態と誤解を受けるといけないから、一切排除しました」と言ったという。面白い。だがこれも<骨抜き>になってしまう。官の力は凄い。(つづく)
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