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鴨山の 岩根し枕(ま)ける われをかも 知らにと妹(いも)が 待ちつつあるらむ(柿本人麻呂・巻2−223)
梅原猛の「水底の歌」は柿本人麻呂の<死の謎>を解明しようとした野心的な研究書。火山もかつて読んだ。だが、悔しいことに定年前後に、山ほど処分した蔵書とともに消えて、今はない。手元にあれば読み返したであろうに、残念だ。
中西進「万葉を旅する」(ウエッジ選書)にも「『万葉集』は謎がいっぱいある歌集だが、人麻呂ほど謎が多い歌人はいない。いつ、どこで生まれ、どのように生涯を過ごして、いつどこで死んだか―――、一切が不明である」とある。
「だからもう、人麻呂の生涯を復元するのは諦めようではないか。人麻呂は石見に行ったというから行ったのだ。石見で死んだというから石見で客死をとげたのである」ともある。
人麻呂は都で安らかな死を迎えたのではなく、遠い石見の国で人知れず、生涯を終った。だが死の直前に作った歌が残っているというのも限りなく不思議だ。人麻呂の不幸な死を悲しむ人々がいたことになる。
人麻呂は謀反の罪を着せられて死んだ有馬皇子を偲んで歌を作ったり、若くして死んだ草壁皇子の死を悲しんで歌を残している。死を重く考えていたことは間違いない。
輝かしい歌聖としての名声は高かった。本人も自覚していたであろう。それなのに予期せぬ末路が待っていた。
歌によれば「鴨山の岩」を枕に死んだことになる。しかし、人麻呂の残した一連の歌によれば石川で水死したとか、海で死んだとも、荒野に行き倒れたとも受け取れるという。
火山に「水底の歌」を読めと勧めてくれた友人が口癖のように繰り替えすのは、人麻呂が残した「いろは歌」を解読すると「罪なくして死す」という<ダイング・メッセージ>が浮かび上がるという。時の権力者への抗議であり、直接言えないので、後世に解読、理解してもらうことを期待したことになる。
終焉の地とされる鴨山は、古来、益田市内の鴨島と伝えられてきたらしい。ただ現在は水没して存在しない。別に斉藤茂吉は独自の研究で邑智(おおち)郡美郷(みさと)町の湯抱(ゆがかい)だとしているという。小字内に鴨山という地名がある。
伝承の地には柿本神社が祭られていたが、水没後、移設され、今は益田市内の高津川沿いの高台にあるという。延宝9年(1681年)というから凄い。なかなかの威容を誇っているというから土地の人々の信仰が深いのだ。
一方、茂吉が唱える湯抱は岩見太田の駅からバスで一時間ほど入った山峡。温泉宿の町を抜けると雑木山があるという。それが<かも山>…。
だが梅原猛の本を読んだ火山から見ると、やはり恨みを残して死んだとしか思えない。死に臨んだ歌が多いのも尋常の死でないことを感じさせる。やはり水死、海に捨てられたのではないか。
歌意は「鴨山の岩を枕に死のうとしている私を、妻は何も知らずに待ち続けているのだろう」というもの。やはり普通の死とは思えない。
人麻呂は死に臨んで妻を思いやり、かりそめの別れが永遠の別れとなったことを詫びている。人麻呂は岩見で死んだというが、中西進氏は「妻と別れたのも石見、人麻呂は妻を石見に残して上京した」と書いている。謎はもっと深まる。
石見とは荒涼とした岩石に満ちた海岸線という意味らしい。荒涼とした海岸線が石見だが、そこに妻がいるという愛のかたみを見る時、その風景は独自の輝きを帯びると中西氏。
「岩根し枕ける」という表現には「藻の比喩、風や浪の描写、深山の情景」までが見える。それは現実を超えた神話的世界ですらあると中西氏は結ぶ。
火山の「万葉の世界」―――とりあえず、今回で一区切りとします。しかし、垣間見た「万葉の世界」―――そこには多くの万葉びとの人生が今も息づいている。
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