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小泉純一郎首相の<決断>が自民党に<歴史的大勝利>をもたらした。第三次小泉内閣の門出だ。反対勢力は<壊滅>…。<首班>指名の野田聖子以下、何とも<気骨>がない。
それに引き替え、小泉首相の<捨て身>と<一途さ>は一段と光る。だがこれ、小泉家のDNAだ。今後の<改革>に多いに<期待>したい。
城山三郎「男子の本懐」に<純一郎>の祖父<又次郎>が登場する。昭和4年(1929年)に誕生したライオン宰相・浜口雄幸内閣の逓信大臣。他の大臣は帝大、陸軍大、海軍大出身というのに又次郎だけは学歴がない。<いれずみの又さん>が渾名。
小泉又次郎は慶応元年(1865年)、寒村・横須賀に生まれた。幕府がフランスと製鉄所の<鍬入れ式>を行った。軍港<横須賀>は帝国海軍とともに大発展する。
小泉家は海軍に労働者を送り込む請負師。やくざっぽい<出入り>が多かった。稼業を継ぐよう言われた又次郎。軍人になるのが夢で2回も家出。だが連れ戻された。親の意向だ。諦めるため全身に<いれずみ>をした。
又次郎が本領を発揮したのは大正時代。普通選挙運動と第二次<護憲>運動。<普選>運動は当時は<過激>思想だった。支持者は<普選>を唱えるのは不利と忠告した。だが又次郎は「ご心配は有難いが、たとえ落選しても私は信念を曲げない」と言った。純一郎の<死んでも郵政解散>と同じだ。
大正13年、加藤<護憲>三派内閣が成立。又次郎は衆院<副議長>になった。論功行賞。彼は<党籍離脱>を敢行。今も続く正副議長・党籍離脱の先例をつくった。孫・純一郎も<派閥離脱>した。<信念を曲げない><筋を通す>のは<祖父>譲りなのだ。
純一郎の父<純也>は又次郎の娘婿。旧姓は鮫島。鹿児島生まれ。純也は立憲民政党の職員だった。政界遊泳術に長けた床次竹二郎の弟子。内務大臣の床次竹二郎を小泉又次郎は国会でしばしば厳しく追及していた。
だが又次郎の娘<芳江>が純也を見初めた。ハンサムな純也とのラブロマンス。党の長老で逓信大臣を務めた又次郎、二人の恋愛を許さなかった。海のものとも山のものとも分からない一青年党員。まして敵対する床次竹二郎の息もかかっている。だが二人は<駆け落ち>同然の結婚をした。情熱と根性だ。
純也は昭和12年、郷里・鹿児島1区から立候補、32歳で初当選。戦時中は軍部から睨まれ不遇だったという。戦後、公職追放となったが、昭和29年、神奈川2区で当選、自由党鳩山派になった。
昭和32年、岸信介首相の要請で藤山愛一郎が外務大臣に就任した。「絹のハンカチを雑巾にするな」と大宅壮一が心配した。
藤山愛一郎は「安保条約を改定、より強固な日米関係をつくることが日本の復興につながる」と岸に共鳴、政界入りをした。藤山愛一郎の自由闊達、経済主導の政治に純也は共鳴、藤山派に参加する。
藤山は神奈川1区、純也は神奈川2区。2人の関係は濃かった。<60年安保>で<岸退陣>。藤山は<総裁選>に挑んだ。だが池田勇人に敗れる。その後も2度<総裁選>に立候補。<落選>…。藤山は私財を傾けた。だが海千山千の政治家に骨までしゃぶられる。
負け続ける藤山。「カネの切れ目が縁の切れ目」と多くの政治家が去った。だが純也は最後まで離れなかった。<信念>を貫き通したのだ。純也らしい<誠実>さ…。
この純也の気骨は<純一郎>にも受け継がれた。<総裁選>で<田中角栄>に敗れた<福田赳夫>に参じたのだ。ロッキード事件で田中は失脚。福田の<出番>が来た。だが福田の時代が<来る>ことを純一郎は予見していただろうか。
時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり(火山)
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