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移り行く 時見る毎に 心いたく 昔の人し 思ほゆるかも(兵部大輔大伴宿禰家持)
天平勝宝9年(757年)6月16日、家持は兵部少輔から大輔に昇進した。橘諸兄が世を去り、独裁体制が整った藤原仲麻呂(後の恵美押勝)は大幅な人事異動を行った。聖武上皇の遺言で皇太子となっていた道祖王は廃され、仲麻呂の亡き長男・真従(まより)の妻の後の夫・大炊王(後の淳仁)が皇太子に立った。
橘奈良麻呂のクーデターが発覚するのはこの一週間後。仲麻呂<打倒>を狙った計画に大伴一族の多くが連座、処刑された。「家持はすでに来るべきものを知っていたに違いない」(「天平の明暗」小学館「人物日本の歴史」第2巻・281頁)と梅原猛は書く。
これが<移り行く時>という歌だ。家持は一族を裏切ってでも<傍観>に徹し、生きのびようと決意した。橘諸兄の計画は<遷都><東大寺><万葉集><防人閲兵>と全部ダメ。しょせん幸福を運ぶホトトギス(時鳥)は<橘>には来ない。<藤>に行く。そう思った。
「ところで、この移り行く時を見る毎に思い出す昔の人は誰のことであろう。心いたく思い出されるのは、悲劇の死を遂げた人であると思われる。私はそれが柿本人麿のような気がしてしかたがない」(「天平の明暗」281頁)。
人麿は家持にとって<詩歌の師>だった。家持は諸兄とともに「万葉集」編纂で人麿<復興>に努力した。「人麿の悲劇的な人生が、たえず彼の目の前にあったと思う。しかし、彼は権力に反抗して劇的な死を遂げた人麿を<人生の師>と仰ごうとは思わなかった。彼は人麿の壮絶な死を知っていた。彼はかえって臆病になったのではないか」(同・282頁)
梅原猛が描いた人麿は「水底の歌―柿本人麿論」(岩波書店)に詳しい。簡単にまとめると「持統3年(689年)から文武4年(700年)まで身分高き宮廷詩人として活躍。この期間は持統女帝が権力を握り、人麿は女帝の寵愛を受けた。だが女帝が崩御、藤原不比等の独裁が確立するに反比例、人麿の運命は下降線を辿る。前政権の寵児は眼障り。やがて<追放流罪>、和銅の初め石見国で殺される」―――。
壬申の乱では人麿は天武の陣中にあった。天武の長男・高市皇子に寄せた<挽歌>は臨場感に溢れた傑作。生き生きしており、戦いを経験しない限り、このような描写はできない。しかも皇子への深い愛情が流れている。
持統女帝は自分を<神格化>しようとする強い意思を持っていた。自分を<神>とする宗教家と詩人が必要だ。宗教家は中臣大嶋、詩人が人麿と梅原は考える。人麿は「女帝が愛した吉野を歌い、その中で<女帝>を美しく賢い<女神>として讃美」している。
人麿は女帝を歌に詠むだけでなく、天武の皇子たちに親しく歌を贈っている。天武天皇も人麿の学識を認め、寵愛していた証拠と考えられる。
天武、持統が世を去り、律令体制が確立すると、政治は法律で動く。天皇の恣意は邪魔。宮廷詩人の役割も変化する。律令国家最大の政治家は藤原不比等だった。
大宝元年(701年)、大宝律令が完成、不比等の独裁体制が整うと人麿の姿が都から消え、讃岐の沙弥島や石見の鴨島の歌に変わっていく。梅原はこれを<追放・流罪>と考える。
「人麿の歌には、持統帝や他の皇子たちを讃美した歌があるが、藤原氏を讃美した歌は皆無」(小学館「人物日本の歴史」第1巻・269頁)。「天皇の皇子たちの中でも、舎人、長、弓削らの皇子、つまり、軽皇子(后は不比等の娘・宮子)のライバルとして皇位継承権を主張できる皇子たちと、特に親しい関係にある」(同・271頁)。
これが人麿の立場。不比等が彼を<邪魔者>と思うのは当然だ。だが人麿の追放は政治的な理由ではない。<不倫>だ。梅原はこれも不比等の<奸智>という。
「古来から人麿は三位以上の高官と考えられ、高貴な女性を犯したために流罪になったと伝えられてきた。人麿は死後すぐ神に祭られるが、日本で神に祭られるのは、何か特別な力をもった人物であると同時に、殺されたり、流されたりして、不幸な死に方を遂げる必要があった」(同・270頁)。家持はもちろん人麿の死の真相は知っていた。藤原氏の専横を恐れ、真実を語らなかっただけだ。恐らく貴族社会では常識だった。
諸兄が死んだ天平勝宝9年7月、奈良麻呂の計画がバレ、一味は処分された。家持は右中弁に左遷。例の大原真人今城が兵部少輔になった。密告の論功行賞だ。
家持は翌天平宝字2年(758年)の人事で、因幡守に左遷される。家持42歳。家持はそれから26年、延暦4年(785年)68歳まで生きる。仲麻呂、道鏡の時代は不遇。光仁帝(白壁王)の時、急に出世、中納言になるが、次の桓武帝に憎まれ、延暦4年に死ぬ。
死後、藤原種継の暗殺が起こり、調べで家持の関与が疑われ、葬儀も行われないうちに、骨は子息とともに流罪になり、朝廷から除名された。奈良麻呂と種継事件の中間に藤原宿奈麻呂の事件と氷上川継の事件があった。これらの事件で「家持には<反逆>の意思があった」と梅原は見る。だが家持の決断力は鈍い。日和見に徹した。
<咲く花は 移ろふ時あり あしひきの 山菅の根し 長くはありけり>―――。
奈良麻呂事件の直前に家持が詠んだ歌。「自分は咲く花になろうとは思わない。咲く花を眺める<菅の根>になって長生きしよう」という。家持は政治も恋も<中途半端>の<傍観者>。<純粋一途><情熱的>な<柿本人麿>とは、やはり、生き方が違ったのだ。
(平成18年5月24日)
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