火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

万葉を旅する

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直(ただ)の逢ひは 逢ひかつましじ 石川に 雲立ち渡れば 見つつ偲ばむ(妻依羅娘子)
天離(あまざか)る 夷(ひな)の荒野に 君を置きて 思ひつあれば 生けるともなし

梅原猛は「水底の歌」(岩波書店)で「柿本人麿は藤原不比等によって流刑され、石見国で水底に沈められて殺された」と書いた。それは徳川時代(18世紀)の国学者・契仲と賀茂真淵が提唱して以来<定説>となってきた<人麿>像とはまったく異なるもの。「万葉集」理解を根本的に問い直す内容だった。

上記二つの歌は人麿の<死>を詠んだ<鴨山5首>の中の2首。別の3首は前回(68)ご紹介した。この2首をどう読むか。人麿は刑死か病死か、それによって<解釈>も<味わい>も大きく違ってくる。

第1首の<直の逢ひは>の意味。「あなたにお逢いしたくてもお目にかかれません。せめてあなたのおられる石川に雲が立ってください。その雲を見てあなたを偲びます」という。 
古代人には雲は霊の化身。人は死ぬと雲になる。そういう信仰があった。妻は人麿に逢いに来た。だが<罪人>の夫に逢うことが許されない。その悲哀だ。

次の<天離る>は作者が不明。梅原は「石見の辺地に人麿を追いやり、死に至らしめた運命に、何一つ抵抗できなかった友人たちの嘆きを示しているのであろう」(「天平の明暗」小学館「人物日本の歴史」第1巻・248頁)と解説する。共感できる。
<刑死>となると、その悲劇性において<病死>とは大違いの<感慨>がある。まして人麿の場合は<政治犯>。表向きは「高貴な女性を犯した」だが、後に見るように藤原不比等には人麿を追放する<政治的>動機があった。

二つの歌の次は「寧楽宮」(ならのみや)とあり、和銅4年(711年)、姫島の松原に流れ着いた娘子(おとめ)の死体を詠った河辺宮人の歌。「万葉集」のこの前後に水死体を詠んだ歌が多いのは「人麿の死に方を暗示するかのようだ」と梅原―――。

前回ご紹介した<今日今日とわが待つ君は石川の貝に交じりてありといはずやも>―――。鎌倉時代の「万葉集」注釈者『仙覚』は<貝に交じりて>の「注」として「源氏物語」の「蜻蛉(かげろう)の巻」の<いずれの底のうつせ(貝)に交り」という言葉を引用した。

これは「宇治川に身を投げたと思われる浮舟の死体が、どこの川底の貝がらに混じっているか」と薫が思いやっている言葉。梅原は「鎌倉時代、仙覚が人麿の死を浮舟の死と同じく<水死>と考えていた証拠」と指摘している。 
江戸中期の国学者・荷田春満の弟の荷田信名も「万葉集童蒙抄」で「人麿の死は刑死・水死ではないか」との説という。春満は賀茂真淵の師匠だが、真淵が<舎人→地方官>説を提出してから<一顧すら与えられず>今日に至ったと梅原は説く。

「人麿に関する第一の謎は、彼が死後まもなく神に祭られたことである。彼が詩人として優れていたから、神として祭られたというようなことではない。菅原道真は詩人として祭られたが、彼が神に祭られた理由は、彼が大宰府に流罪にされ、そこで恨みをのんで死に、その怨霊が、時の権力者にたたりをなしたからであった」(「天平の明暗」249頁)。

梅原猛は人麿に関する古来からの伝承にはすべて<怪しげなる秘密>が宿されていたのに、それを文献学的合理主義で契仲と真淵が一掃した。だがそこには大きな見落としがあった。
そのため「人麿は平凡にして混乱のない人生を送った小役人になってしまった。古代人、中世人が、ひそかに知っていたもの、『万葉集』がひそかに語っている人麿の暗い運命は、まったく見失われた」(同・253頁)。この梅原説には鋭い洞察がある。共感できる。

宮廷詩人としての人麿の活躍は持統3年(689年)から文武4年(700年)だ。即ち持統女帝が権力を握って君臨していた時期に正確に合致する。女帝は自身、優れた歌人だった。同時に自分を<神格化>することに極めて意欲を燃やしていた。
女帝は亡夫天武と労苦をともにした吉野の離宮には格別の思い入れを抱いていた。人麿は吉野を詠った有名な長歌と反歌で持統女帝を美しく賢い<女神>と賛美している。これは女帝が人麿の才能を利用し寵愛していた証拠だ。

人麿は女帝の庇護のもとで順調な栄達を続ける。梅原は「水底の歌」で人麿が「天武10年(681年)小錦下を授けられた<柿本臣佐留>と同一人物)と論証した。
持統朝で全盛期を迎えた人麿は冠位も小錦下を超えて数段昇り、従四位下に達した。相当する官は神祇伯、皇后太夫、東宮太夫。梅原は<柿本人麿太夫>と呼ばれるところから<皇后>太夫か<東宮>太夫と見る。「持統帝の寵愛する宮廷詩人として、おおいに世の尊敬を集め、その権力も<なみなみならぬ>ものではなかったかと思う」(同・265頁)。

梅原はこの<なみなみならぬ><権力>が人麿の<命取り>になったとみているのだ。藤原不比等は律令体制が整うとともに独裁体制を確立していく。持統女帝が没すると、独裁は頂点に達する。そして人麿は都から姿が消える。
「人麿の歌には持統帝や他の皇子たちを賛美した歌があるが、藤原氏を賛美した歌は皆無」(同・269頁)―――。賛美しなかった皇子は<軽>。不比等は皇太子にと熱望していた。

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