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江戸期の賀茂真淵は「万葉集」が密かに伝えていた人麿の<暗い運命>の伝承を一掃、人麿の身分は低いと断定した。これは「万葉集」に<人麿死す>とあり、大宝令で<死>は<六位>以下に使うからだ。また記紀など<正史>にも登場しない。だから<微官>という。
だが梅原猛は「『古今和歌集』の仮名序に人麿は『おほきみつのくらゐ』即ち正三位であるとされているばかりか、真名序にも柿本太夫という名でよばれ、五位以上の扱いをうけている」(小学館「人物日本の歴史」第1巻「天平の悲劇」236頁)と指摘した。
「古今和歌集」は905年(延喜5年)の成立。人麿の死からわずか200年後だ。1000年も離れた江戸期とは違う。多くの伝承が真実を伝えていたと考えた方が自然だというのだ。
真淵の<舎人>説で年齢を考証すると人麿は<45歳>前後で死ぬ。それだと矛盾するのが「万葉集」にある「人麿歌集」。<10歳>前後の人麿が歌集を作ったことになる。また高市皇子挽歌の<壬申の乱>のドラマティックな表現。これは臨戦体験があって初めて可能と梅原は書く。もし人麿が10歳程度なら参戦できない。
「中古の伝承によれば人麿は60有余歳にして死んだのであり、それゆえ、中古から盛んに行われた人麿影供(えいぐ)といって、人麿像を飾って供物を供え、その前で歌を詠む会に用いられる像は、いずれも60歳をこえた人麿像である」(同・237頁)。60歳をこえて死んだと考えれば「人麿歌集」「高市挽歌」も<25歳>の作品となり、矛盾なく理解できる。
なぜ「万葉集」は<死>と書いたか。なぜ「正史」に登場しないか。それは追放された<国家犯罪者>だったからと梅原は考証する。人麿<水死>説は鎌倉期の国学者<仙覚>も提唱していた。江戸期でも真淵以前の荷田信名が「万葉集童蒙抄」に<刑死・水死>と書いていたと梅原は指摘している。<考証>はもう充分だろう。
人麿はどんな<罪>を犯したか。梅原は<政治的理由>があったと見る。<文武帝>即位をめぐる<暗闘>だ。女帝と藤原不比等は<草壁皇子>の遺児<軽>皇子(後の文武帝)を<帝位>につけたかったが、これがスムーズにいかなかった。
不比等は草壁の<舎人>だった。女帝と不比等は実力と人望に優れた大津皇子を抹殺した。草壁を皇太子に立て、即位させたかった。だが草壁は即位を待たず、28歳で他界する。大津の怨霊の祟りとウワサされた。持統は<中継ぎ>の女帝になった。<軽>の成長を待って帝位を譲りたい。女帝も不比等も草壁の遺児<軽>にすべてを託した。
最大のライバルが壬申の乱で大活躍をした<高市皇子>だった。高市は天武の長男。母が皇女でなかったために順位が低かった。だが皇女を母に持つ草壁、大津がいなくなった。最有力候補に浮上した。持統は高市即位を阻むために中継ぎに立った。運命の皮肉はこの高市も持統10年(696年)に世を去ったことだ。
持統女帝は14歳になった草壁の遺児<軽>を皇太子に立てようとしたが揉めた。天皇は一国の支配者。いざという時は戦乱の第一線に立てる肉体力が必要だった。中継ぎの女帝は仕方がない。だが男帝には青年皇子という不文律が当時はまだ強かった。
天武には大勢の皇子がいた。母が天智の娘という皇子も<舎人>皇子、<長>皇子、<弓削>皇子と3人もいた。いずれも成年に達していて皇位継承者にふさわしかったのだ。
持統女帝が主宰した皇太子決定会議は紛糾した。「日本書紀」が伝えるところでは密かに女帝の意を体した葛野(かどの)王の一喝で<軽>皇太子が決定した。葛野王は天智の長男・大友皇子の長男。本来なら最有力の候補だが、大友は壬申の乱で敗死していた。
梅原は面白いことを指摘する。「翌年、軽皇子は即位する。『日本書紀』がこの軽皇子の即位の記事で終るのも、はなはだ象徴的なのである」(同・269頁)。「日本書紀」を編纂させた女帝や不比等にすれば軽皇子の即位=<文武>天皇の誕生で目的を達したのだ。
持統は2年後に世を去る。文武はまだ17歳。権力を握ったのは不比等。44歳だった。
人麿が<宮廷詩人>として華々しく活躍したのは持統女帝の時代とぴったり一致している。女帝には歌才があった。人麿の才能を見抜き、多くの賛歌を作らせ、自分を神格化させた。女帝は人麿を寵愛、人麿は女帝を<女神>と崇めた。女帝が没すると人麿は都から消える。
以降の人麿は近江(滋賀県)、明石(兵庫県)、讃岐(香川県)、石見(島根県)をさまよう。真淵は地方官になったというのだが、もし地方官なら国府にいなければおかしい。だが人麿は晩年、石見の国府(仁摩)にはいない。人麿が死んだのは今の益田市にある高津川の河口の鴨山。それまで各地を転々としている。
「人麿の歌には、持統帝や他の皇子たちを賛美した歌があるが、藤原氏を賛美した歌は皆無である。私は人麿は皇太子決定の閣議において、別の皇子を推薦し、その後もその皇子の皇位推戴運動を続けたのではないかと思う」(同・269頁)と梅原は書く。
<軽>皇子の乳母は不比等の妻・橘三千代だ。不比等は娘の宮子を文武の第一夫人に送り込む。宮子はやがて<首>(おびと・後の聖武天皇)を生む。人麿はこれに歯向かった。
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