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潮騒に 伊良麌(いらご)の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を
持統女帝の伊勢行幸に扈従(こじゅう)した采女を詠んだ歌。美しい采女が波と戯れて紅い珠裳からスネを見せてくれないかと思ったらしい。それをズバリ歌った次にある。年若い異性への憧れ、エロティシズムを歌った。人麿はなかなかの漁色家だったらしい。
「人麿が七夕に異常な興味を持っていたことは前に述べた。七夕というのは禁じられた宮廷の恋である」(小学館「人物日本の歴史」第1巻「飛鳥の悲劇」273頁)。
万葉学者の多くが采女の中に人麿の恋人がいたと考えている。梅原猛は「人麿が藤原不比等から追放流罪にされた」真相は政治的理由だったが、表向きは<不倫>という<私行>問題を摘発されたと見る。<色好み>が身の破滅を招いたのだ。
天智天皇の近江の都は中国文化への極端の憧憬に彩られていた。天智は庶腹の出の大友皇子を中国皇帝の理想とされた文化人天皇、詩人天皇に育て、権威付けようと必死だった。明治期に<西欧化>を狙った<鹿鳴館>のような熱狂があったという。
そうした雰囲気で青年期を過ごした人麿。作歌メモが「人麿歌集」だったが、中に<38首>の七夕の歌があるという。七夕は当時流行した中国から来た新しい祭り。天武・持統帝の時代には<天>に対する関心が強くなり、天文的思想も流行した。日本国王<大王>を<天皇>と呼ぶ思想が定着したのも時代相が背景にあった。
人麿も<天>に並々ならぬ関心を持った。七夕は牽牛・織女という天上の悲恋物語。禁じられた宮中の恋の暗示がある。持統女帝に寵愛された人麿。女帝が権力を握っている間は<大奥>で派手に遊べたのだろう。だが反動が女帝<没後>に来た。日本は嫉妬社会だ。
もののふの 八十氏河の 網代木に いさよふ波の 行方知らずも
淡海(おうみ)の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 情(こころ)もしのに 古(いにしえ)思ほゆ
人麿は大宝元年頃(701年)頃から都から消える。次に人麿を発見するのは近江だ。この短歌も追放者の歌として鑑賞すると一際味わい深い。
「宇治川の早い流れが網代木によってせきとめられてたゆたっている。波よ、お前はどこへ行こうとしているのか。人麿が宇治川の波の中に見ていたのは、彼自身の人生の姿ではなかろうか」(「飛鳥の悲劇」274頁)。
近江はかつて人麿が持統女帝のお供をして行ったところ。夕方になったら千鳥が鳴いた。昔のことが偲ばれる。近江はかつて都があった。人麿の鹿鳴館時代だ。近江朝の栄華も一瞬だった。彼の宮廷詩人としての栄華も去った。女帝が世を去ってからだ。
名くはしき 稲見の海の 沖つ波 千重に隠りぬ 大和島根は
近江を去った人麿は瀬戸内海を行く。明石から淡路島の歌が「万葉集」巻3に多くある。
<名くはしき稲見>―――。明石から西へ行くと海は荒れて難破の危険がある。稲見は印南とも書き、山部赤人の歌では<不欲見>と書く。見たくないという意味。決して<名くはしき>場所ではない。むしろ不吉な嫌な場所だ。それをわざと<名くはしき>と詠った。
人麿一流の<呪詞>と梅原はいう。
明石は「源氏物語」では源氏の<流罪>の場所だった。古代から明石は<未決>の<囚人>のいる場所だったという。有罪と決まればそこから舟で四国や九州に流される。
中世に始まった<人麿影供>(えいぐ)。人麿の影像を掛け、供物を供え、人麿の霊を弔った後、歌を詠む。人麿の影像に添えられていた歌がある。
ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島がくれゆく 舟をしぞおもふ
古来から人麿の<代表歌>との伝承があった。だが実際は小野篁(たかむら)の歌だった。「古今和歌集」では<詠み人知らず>とあったが、「今昔物語」(平安後期・源隆国編)には<流人>となった篁が明石から流人舟で出る時に嘆いて詠ったとある。梅原猛は篁の歌なのに人麿の歌とされた伝承には、人麿の非業の死を<暗喩>する意味があったと考える。
人麿は<近江→明石→讃岐→石見>と、だんだん都から離れて行く。
「それは彼の罪過がだんだん重くなったからであろう。日本においても中国においても、ひとりの罪人がその後の政治的情勢の変化によって、だんだん罪が重くなり、しだいに都から遠いところへ追放される例がある。人麿の場合も政治情勢の変化、つまり藤原律令体制の強化によって、だんだんその罪が重くなっていった」(「飛鳥の悲劇」255頁)。
不比等の独裁体制が整い、文武天皇はロボット化したのだ。
最後は石見の国での死。水死を暗示する歌が「万葉集」のその前後に載っている。人麿の謎の死は梅原猛「水底の歌」(岩波書店)に詳しい。
(平成18年6月9日)
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