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「アルプスの麓、オーストリアのザルツブルグはモーツアルトの生まれた故郷。四季を問わず、世界中からやってくる音楽ファンで賑わう<音楽の街>だ。だが19世紀の初め、ナポレオンの侵略を受け、宮廷楽団は解散、かつての活気を失った。そんなザルツブルグが、なぜ世界有数の音楽の街になったのか」―――。3月から始まった「毎日モーツアルト」の放送。今週は「モーツアルトその後」の<フィナーレ>シリーズだ。
「モーツアルトの『ピアノ協奏曲』はオペラと並ぶ重要な作品。いろいろな点でオペラに似ている。たとえばこの第一楽章ですが、オペラが始まる序曲のようです。オペラは<歌う>もの。この部分は歌うようなメロディー。歌うように演奏しなければいけない。歌うような気分で弾けば決して難しくない」―――。本日のゲストはピアニストのラン・ラン。
「<ドイツのローマ>―――ザルツブルグはそう呼ばれてきた。ローマ教皇に任命された僧籍の王侯が統治するカトリックの拠点ザルツブルグは、イタリア文化の影響が最も色濃く現われたドイツの街である。大聖堂をはじめ教会や城館など堂々たるバロック建築の数かずは、いずれもイタリア人の設計によって建てられたものだ」(田辺秀樹「モーツアルト」新潮文庫・10頁)。
「二つの小高い丘に囲まれた小さな旧市街。その中央をザルツァッハ川が流れている。中世風に密集した家並みの間にそびえる大聖堂の円蓋、さらにいくつもの教会の屋根や尖塔。後ろのメンヒスベルクの丘を見上げると、そこには数百年を経たホーエンザルツブルグ城が、要塞のような威容を誇っている。この古城から見下ろす旧市街の眺めは、なんと優美なことだろう」(同)―――。
ザルツブルグは大司教が治める宗教都市。だが1803年、ナポレオンが占領すると大司教の宮廷は廃止された。モーツアルトと対立した大司教コロレドはウィーンへ亡命した。その後、大国の支配に翻弄され、1825年、28歳のシューベルトが訪れた時は、「市街は活気を失って寂れ、わずかに石畳の端から草が生えているだけ…」だったという。シューベルトの手紙の一節が紹介された。それこそ「奥の細道」で平泉を訪れた芭蕉が<夏草や つわものどもが 夢の跡>と詠んだ心境と一緒。不思議な気持ちがする。
シューベルトはもちろんザルツブルグがモーツアルトの生まれ故郷であることも、自分が生まれる6年前にこの大天才が世を去っていたことも承知していたろう。
こうした状態に変化が起きたのは1835年、ザルツブルグの地元紙に載った一つの記事がきっかけという。ザルツブルグが世界に誇る大天才を生んだ<音楽の街>であることを強調、募金や音楽活動によってこの大天才の偉業を世界に発信しようという<呼びかけ>だった。
テレビ画面にザルツブルグのモーツアルト広場と<モーツアルト記念像>が映し出された。1842年9月4日、モーツアルトの没後<半世紀>に1年遅れて、モーツアルト記念音楽祭と記念像の除幕式が行われた。今日に至る<ザルツブルグ音楽祭>の発端になったという。
「このザルツブルグでの祝祭にはモーツアルトの二人の息子も参加し、弟のフランツ・クサヴァー<モーツアルト2世>は、父のピアノ協奏曲ニ短調(K466)を演奏するなどしたが、コンスタンツェはすでに半年前に世を去った後だった」(田辺・177頁)。
何気ないナレーションと記事…。だが火山は感慨無量だ。モーツアルト35歳が、死の床にありながら、最後の気力を振り絞って、後に残る愛妻29歳を気遣い、コンスタンツェの妹ゾフィーに<助けになって、支えてあげて…>と頼み込む。その時、次男のカールは7歳、弟のフランツ・クサヴァーは生後5ヶ月だった。それから<51年>―――。
愛妻コンスタンツェは意外と気丈、音楽家未亡人としても有能だった。モーツアルトが残した自筆譜を一括して高額で売り払ったり、皇帝に年金を申請したり、慈善音楽会を主催して、夫が残した借金もたちまち返済する。
39歳で再婚、モーツアルトの死後、半世紀も生き永らえた。後添えの夫を励まし、モーツアルトの伝記を書かせて出版。そこに残されたモーツアルトの手紙が今日のモーツアルト研究の基礎となった。しかも自分も、後添えの夫も、モーツアルトの父レオポルトと同じ墓に眠った。ただし、モーツアルトの墓はないのだから―――。
もう一つの感慨は<本日の一曲>の「ピアノ協奏曲」第20番ニ短調。モーツアルト<生誕250年>の今年、たまたま上野の文化会館で聴いた「東京音楽コンクール優勝者コンサート」。僅か14歳の少年ピアニストがピアノ部門で優勝。全部門でも最優秀で<特別賞>を受賞。その14歳が弾いたのがこの<ニ短調>。火山はクラシック好き<半世紀>というのに、この日、このニ短調を聴いて突然モーツアルトが<大好き>になってしまった。この日たるや、実は221年前、モーツアルト自身がウィーンでニ短調を<初演>した日だったのだ。
もう一つの偶然―――。コンスタンツェが主催した自分や子供たちの<慈善>コンサート。1795年3月31日、当時25歳のベートーヴェンが未亡人の要請に応え、このニ短調をウィーンのブルグ劇場で演奏している。これがベートーヴェンのピアニストとしてのデビュー3日目。この曲が大好きだったベートーヴェンは後に自分用のカデンツァまで書いている。
1856年、モーツアルト<生誕100年>を記念した音楽祭があった。この時、72歳になっていた次男カール・トーマスは請われて父の「ピアノ協奏曲」を演奏した。凄い。
(平成18年12月26日)
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