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「日本のオーケストラを作った男」という異名を持つ近衛秀麿。日中戦争から太平洋戦争へ軍部の暴走が始まる時期に3度総理を務めた近衛文麿の異母弟だが、戦時中はドイツで音楽活動をしていた。暇を見つけてはウィーンを探訪、市民の間に埋もれていたベートーヴェンに関する事績を集め、戦後「ベートーヴェンの人間像」(音楽之友社)を出版した。その中に1787年、初めてウィーンを訪れたベートーヴェン17歳が「モーツアルトに引き合わされて、初回の面接」(同書・163頁)をした記事が出てくる。
二人の面会。その時、何が起こったか。エピソードはいくつかある。だが火山が読んだ複数の評伝、いずれも「確実な証拠はない」と論評を避けている。それだけに近衛秀麿ほどの人物が書き残した記事には一層、魅力が出てくる。
「初め大正の中期、まだ電気録音も発達せず、クラシック音楽の演奏などはレコードですらろくに聞けなかった時代に、日本でのベートーヴェンの音楽との接触は、まずロマン・ロランあたりの文学の感激から始まったのであった。ベートーヴェンの交響曲自体との接触は、当時、辛うじて入手できたアメリカ版のピアノ連弾によるほかなかったような時代」(同・4頁)と近衛は書いている。
第一次世界大戦の頃はドイツからの書籍や楽譜の輸入もとだえ、20世紀の時代というのに、ベートーヴェンのスコア(オーケストラ総譜)を筆写した経験もある。広く世界を旅して音楽関係者と話したが、そんな経験を持つ者は「ぼく以外に一人もいない」という近衛。そんな彼が足を棒にして集めた秘話、逸話を総合してまとめたエピソードなのだ。
「モーツアルトの前で、自作を一曲披露する段になって、当時まだ17歳だったベートーヴェンは、多少固くなって、荒けずりの『幻想曲』を一曲ひいた。それを聞いたモーツアルトは、ピアニストとしてのベートーヴェンの才能を大いに認めたが、曲に関しては定石と規則どおりに作られた<見世物音楽>だ、といってむしろ冷たい態度であった」(同・163頁)―――。ウーン、凄い。凄く分かる。モーツアルトなら初期ベートーヴェンを「そういうだろう」という感じがある。さすが近衛秀麿。もちろん<続き>がある。
「ベートーヴェンは、そのことに対して、はなはだしく失望を感じ、モーツアルトに即興の演奏をしたいから主題をお出し願いたい、と申し出た。そしてモーツアルトの自分に対する気乗りのしない様子に、業をにやした彼は、その受け取ったばかりの主題と取り組んで、持ち前の情熱と自由奔放さと、あらゆる先輩をしのぐ楽想の豊かさとで、ついにモーツアルトがすっかり気を奪われるようになるまで、その場でひきまくったのである」(同)。
これも凄い。ベートーヴェンとモーツアルトの音楽と人間を知る者だけが活写できる文章。これも「いかにもそうだ」と思わせる。それらしい情景と雰囲気を彷彿とさせる。
この時なのだ。モーツアルトがその場にいた人々にささやいたと言われるのは―――。「この才能に注意を払いたまえ。この若者は今に全世界の話題をさらってしまうだろう」(der wird einmal in der Welt von sich reden machen!)―――。
ベートーヴェンの最初のウィーン滞在はごく短期だった。ベートーヴェンが生まれ育ったボンは、かつてケルン選帝侯の居城があった街とは言ってもウィーンにくらべたら、しょせんは田舎。宗教都市といっても田舎町に過ぎないザルツブルグから出てきたモーツアルトもそうであったように、ウィーンは魅惑の大都市、観たいもの聴きたい音楽は多かった。二人はその後ほとんど面会の機会はなく、個人的に親しくなることはなかったらしい。
ベートーヴェンが第二回目に、ウィーンに来て、ついに永住することになるのはモーツアルトが既に世を去った1年後の1792年11月のことだった。だがあらゆる情報を総合してもベートーヴェンが幼い頃からモーツアルト音楽の熱烈な崇敬者だったことは確実だ。「ボンで、親たちの膝元で育った頃、すでに一家はモーツアルトのことばかり語り合っていたという。そして、彼の中にモーツアルトに対する理解と尊敬は年とともに深まってゆき、その称賛の度合いは、ついにとどまるところを知らなかった」(近衛・168頁)。
平野昭「ベートーヴェン」(新潮文庫)の一節に次の文章がある。「即興演奏は与えられた主題を音形変奏してゆくか、次々新しく美しい旋律を継いでゆくのが当時の流儀であった。ところがベートーヴェンの即興はときによってはソナタ楽章やロンド楽章仕立てで、しかも構成感を併せ持ち、華麗で技巧的パッセージを織り込んだものであった。変奏は圧倒的な力と情熱と感情表現を持って行われる。貴族の邸でしばしば開かれた即興競演で、彼はウィーンの名ピアニストをことごとく打ち破ってゆく」(38頁)―――。
これはベートーヴェンがピアニストとしてウィーンでデビューを果たした1795年、25歳頃のエピソード。前回も触れたが、ベートーヴェンはコンサート3日目の3月31日、モーツアルト未亡人が主宰した亡夫モーツアルトのオペラ「皇帝ティートの慈悲」の幕間に、自身大好きだったモーツアルトの「ピアノ協奏曲」第20番ニ短調を独奏している。ベートーヴェンはこの曲を熱愛するあまり、自分用の<カデンツァ>さえ書き残しているほどだ。
カデンツァは独奏者が自分の<技量>を<誇示>する最大の<見せ場>。ベートーヴェンの打ち込みようがわかる。そして火山、何回も書いてきたが、ベートーヴェンのカデンツァの入ったこの曲の演奏を、今春聴いて、モーツアルトのファンになったのだ。
(平成18年12月16日)
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