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「ベートーヴェンはモーツアルトと会ったことがあるのか」―――。これは<音楽史上>の大きな<謎>。諸説あるが、確実な記録は残されていない。だが戦時中、ドイツに滞在、帰国できないままウィーンでベートーヴェンとシューベルトの足跡を足で稼ぎながら伝聞を集め、いろいろ精査して戦後「ベートーヴェンの人間像」(音楽之友社)を出版した指揮者・近衛秀麿の中に「二人が会い、モーツアルトの前でベートーヴェンが<自作>の『幻想曲』を弾いた」という興味深いエピソードが紹介されている。秀麿は総理を3度も務めた近衛文麿の異母弟。いい加減な記事を書くような人物ではない。
モーツアルトは1756年の生まれ。ベートーヴェンは14年遅れの1770年生まれ。モーツアルトは25歳から35歳の死まで10年をウィーンで過ごした。ベートーヴェンが初めてウィーンを訪ねたのは17歳。2週間滞在しただけ。モーツアルトは31歳。死の4年前だ。ベートーヴェンがウィーンに永住したのは1792年11月。22歳だったが、モーツアルトは既に前年12月に永眠していた。モーツアルトとの接点は17歳の2週間だけだ。
近衛秀麿のエピソードはもちろん17歳の時のもの。モーツアルトはピアニストとしてのベートーヴェンの実力は大いに認めた。絶賛した。だが作曲については「定石と規則どおりの<見世物音楽>」と酷評したという。これに激怒したベートーヴェン。モーツアルトからテーマをもらい、即興で<変奏曲>を弾きまくった。モーツアルトはついにベートーヴェンを認めた。「この才能に注目せよ。今にきっと世の話題になるだろう」。このエピソードと言葉は有名だ。だが確証がない―――。
ベートーヴェンはモーツアルトを生涯、崇拝していた。これは確実。本人の言葉が残っている。弟子の証言もある。そこでモーツアルトも絶賛したベートーヴェンのピアノの腕だ。「代々続いた音楽一家から出た作曲家が皆そうであるように、ベートーヴェンも最初の教育は父から受けている。父が息子に授けたのはクラヴィコード(チェンバロと並ぶもう一方のピアノ前身)奏法であった。またたくまに豊かな楽才を示し始めた息子に(父)ヨーハンは当時話題になっていたザルツブルグの神童を夢見ていたに相違ない」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・14頁)。
<当時>とは1770年代。1770年4月、モーツアルトは14歳、父とイタリアにいた。ローマの聖ペテロ大聖堂で17世紀の作曲家アレグリの秘曲「ミゼーレ」を一度聴いただけで写譜、周囲を驚嘆させた大事件があった。ベートーヴェンはその年の12月に生まれる。
「ベートーヴェンが正規のクラヴィーア奏法を学び始めたのは1778年以後のこと…。1779年夏にグロスマン劇団の歌手としてボンにやってきたT・F・ファイファーからクラヴィコード奏法を習ったのは確かである。また、この頃ベートーヴェン家に同居していた宮廷楽師のF・G・ロヴァンティーニからヴァイオリンとヴィオラを習い始め、ミュンスター教会のオルガニスト、ツェンゼンにオルガン奏法を学んだのも、『十歳のこの少年の方が二十歳の同門生より優っていた』という記録から1780年頃のことと思われる」(平野・15頁)。
だがベートーヴェンの最大の師はクリスチャン・ゴットロープ・ネーフェ(1748〜98)だ。「指導はクラヴィーアとオルガンの両方に及び、驚くほどの進歩のあったことが、ネーフェの残した証言から窺える。『1782年6月20日に我々(グロスマン劇団)は選帝侯が滞在しておられるミュンスターに旅立った。その前日に私の前任の宮廷オルガニスト、ヴァン・デン・エーデンの葬式の日であったが、私は不在中の(オルガニストとしての)助手に任せて旅立つ許可を得た』とある。この助手が当時11歳半のベートーヴェンであった」(同)。既にその腕前は師をしのぐものであったと平野は、この後に書く。
ベートーヴェンが25歳でウィーンでデビューする。その様子を平野昭は次のように描く。「即興演奏は与えられた主題を音形変奏してゆくか、次々新しく美しい旋律を継いでゆくのが当時の流儀であった。ところがベートーヴェンの即興はときによってはソナタ楽章やロンド楽章仕立てで、しかも構成感を併せ持ち、華麗で技巧的パッセージを織り込んだものであった。変奏は圧倒的な力と情熱と感情表現を持って行われる。貴族の邸でしばしば開かれた即興競演で、彼はウィーンの名ピアニストをことごとく打ち破ってゆく」(38頁)。
そのベートーヴェン。実はモーツアルトのピアノ演奏を聴いていた。ピアノ教則本で有名なチェルニーはベートーヴェンの弟子だが、ベートーヴェンから聞いたというチェルニーの証言が残っている。「モーツアルトの演奏は見事ではあったが、ポツポツと音を刻むようでレガートではなかった」―――。つまり<批判的>なのもの。
だが火山はすぐ気づいた。これはモーツアルトとベートーヴェンの時代に鍵盤楽器としてピアノが伝統的なクラヴィーアからフォルテピアノを経てピアノへ<進化>したことと関係がある。ベートーヴェンが主に弾いたのはフォルテピアノ。モーツアルトとは違うのだ。
「名演奏家がひしめく当時のウィーンにあって、ベートーヴェンが注目を浴びたのは彼独自の二つの武器、一つはボン時代にオルガン奏者として身に付けた即興術であり、もうひとつはネーフェからから学んで身に付けていたクラヴィコード奏法に由来するレガート奏法とカンタービレ奏法であった。この頃のウィーンではモーツアルトの演奏に代表される音の均質さ、響きの清澄さ、軽快な速度といった伝統的なチェンバロ奏法からくる真珠のようなスタッカート気味のエレガントな奏法が流行していた。ベートーヴェンの生み出す響きは新鮮だったのである」(平野・38頁)。
(平成19年1月2日)
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