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昨夜(1月4日)は上野の文化会館小ホールで「ピアノリサイタル」。<ショパン全曲演奏会>と銘打った<ワルツ全曲>―――。第1番<華麗なる大円舞曲>変ホ長調作品18から第14番ホ短調まで14曲を聴いた。
「ショパンのワルツの多くはパリに移り住んでから書かれたもので、当時のパリの社交界の華やかな雰囲気を反映したもの…」というが、ショパンは「次第に表面的な気分を表現したものに満足できなくなり、自分の心を反映させたワルツを作る」ようになったという。
火山は第7番<嬰ハ短調>が好きだ。第9番変イ長調作品69の1は別名<別れのワルツ>。
ショパンがプロポーズまでしたポーランドの貴族ヴォジンスカヤ家の令嬢マリアのために1835年5月に作曲したもの。甘美な名曲だ。
ショパンは1810年の生まれ。ベートーヴェンはこの時39歳。実は18歳のテレーゼ・マルファッティという令嬢に恋をしていた。1810年「4月から6月頃のものと推定される日付のない多くの手紙がテレーゼ・マルファッティとの結婚の意思を物語っている。しかし、これもたちまち失恋に終る」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫105頁)。
ついでにいえばショパンのマリア・ヴォジンスカヤ嬢への25歳の恋も実ることはなかった。肺を病む病弱のショパン。令嬢の両親(貴族)が結婚を許さなかったのだ。
話を戻すと、21歳のベートーヴェンは1792年7月、1年半に及ぶロンドン滞在から戻ったハイドンがボンの宮廷楽団に立ち寄ってくれたことでチャンスをつかむ。1790年に作曲していた<皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ>を60歳の巨匠ハイドンに見せ、弟子入りを許されたのだ。選帝侯マックス・フランツも一年間の有給休暇を与えてくれた。
ここで興味深いのはベートーヴェンが仕えていた選帝侯マックス・フランツはウィーンのハプスブルグ家の出身。当時、絶大な権力を誇っていたオーストリア帝国の皇帝ヨーゼフ2世の弟。ヨーゼフ2世は啓蒙君主の誉れが高く、モーツアルトが宮廷作曲家として仕えていた主君。兄にならって弟の選帝侯もライン啓蒙運動を進めていた。
ベートーヴェンがボン大学に入学した頃、選帝侯の命により<民衆教育振興政策>がとられており、その一環として国民劇場が設立されていた。ベートーヴェンは恩師クリスチャン・ゴットロープ・ネーフェ(1748〜98)の指揮になる劇場オーケストラでヴィオラ奏者を務めていた。しかも1789年にはモーツアルトのオペラ<後宮からの誘拐><ドン・ジョヴァンニ><フィガロの結婚>がボンで初演されている。
「2年前に短期訪れたウィーンで会ったモーツアルト―――まさにその頃<ドン・ジョヴァンニ>の作曲中であった―――の傑作をベートーヴェンはどのような思いで演奏したのだろうか。ウィーンへの再留学の意欲をかきたてられたのではないだろうか」(平野・30頁)。
いずれにせよ、こうしてつかんだウィーン留学。「ベートーヴェンは(1792年)11月2日早朝のボンを駅馬車で発つ。コーブレンツ付近でフランス革命軍とドイツ軍が砲火を交える中をようやくかいくぐり、一路ウィーンへ向かったのであった」(平野・31頁)。
「約9日間の馬車の旅を終え、11月10日頃、ウィーンに到着している。アルザーシュトラーセ45番地のリヒノフスキー候の持ち家に、おそらくハイドンの紹介で落ち着くことになった。さっそくハイドンの許でのレッスンを始める」(平野・36頁)。
ハイドンはモーツアルトが生前<パパ>と呼んで親交をもった相手。7年前の1785年2月、モーツアルトの父レオポルトが息子の身を案じてザルツブルグからウィーンに出てきた時、ハイドンはモーツアルト新作の「弦楽四重奏」をモーツアルトと共演、「神に誓って正直に申し上げますが、あなたのご子息は、私が名実ともに知る最も偉大な作曲家です。ご子息は趣味がよく、その上、作曲に関する知識を誰より豊富にお持ちです」と絶賛、レオポルトを感激させている。そのモーツアルトは1年前の12月5日に世を去っていた。
カール・リヒノフスキー侯(1756〜1814)もまたモーツアルトと親交があった一人だ。候と夫人クリスティアーネはともにモーツアルトにピアノを学び、アマチュアながら高い音楽的教養を身に付けていた。ウィーン初期時代のベートーヴェンの最も重要な理解者、保護者であり、ベートーヴェンは栄光の<作品1>「3つのピアノ三重奏曲」と「交響曲」第2番(作品36)など多くを候に献呈している。
ベートーヴェン、モーツアルト、ハイドンの3人が共通に後援を受けた重要人物がいる。ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵(1734〜1803)。宮廷図書館長で自宅は宮廷図書館内にあった。男爵はモーツアルトの予約演奏会で、最後にはたった一人の予約客になったり、葬儀にも出席している。
「1777年まで20年以上にわたって外交官を務めた男爵は、外国赴任中にバッハやヘンデルをはじめとするバロック音楽の楽譜収集に熱中し、とりわけ最後の赴任地であったベルリンでは、バッハの息子エマヌエルや弟子たちを通じてバッハ作品の貴重な楽譜を入手した。そしてウィーン帰郷の際、それらコレクションを持ち帰り、毎日曜日に自宅で催す私的音楽会で演奏して、友人の貴族や音楽家たちに紹介していたのである」(西川尚生「モーツアルト」137頁)。ベートーヴェンは男爵の後援に感謝、「交響曲」第1番(作品21)を献呈している。
(平成19年1月5日)
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ベートーヴェン、モーツアルト、ハイドンを 後援した Gottfried van Swieten の 場合が よく 見せているように、ヨーロッパの皇帝は 隣の 国から 学識ある人物を 王師として 迎えましたね。 和蘭の有名な 医者であった スビーテン(Swieten)の 親父はオーストリアの マリア テレサ 女皇帝の招きで ビーンに 来ますね。後、 この 和蘭子は オーストリア人になって、在ベルリン 大使を 勤め、三つの 楽聖を後援しましたね。境なし 人物を 登用した ヨーロッパみたいでしょうね
2007/3/28(水) 午後 6:56 [ yan*ha*as* ]
ウィーン(Wien)を平然とビーンと書く。<並>ではないご教養を感じます。ファン登録をいただき、感激です。ご指摘のとおり、もっと芸術や文化を本気で大切にできる政治家を育てたいものです。事務費のような問題で大騒ぎ。情けない限り。でも安倍晋三は許せない。曖昧と変節はもはや限界を超えました。公務員改革をいい加減にする。火山は決して許さない。
2007/3/28(水) 午後 11:38 [ 火山 ]