火山の独り言

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ベートーヴェン意外な関係

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カール・リヒノフスキー侯爵(1756〜1814)はモーツアルトと同い年。夫人クリスティアーネとともにモーツアルトにピアノを学び、高い音楽的教養を身に付けていた。
このリヒノフスキー候、モーツアルトの死後2年後の1793年11月、ベートーヴェンがウィーンに到着すると持ち家に住まわせ、ハイドンのレッスンを受ける支援をする。ベートーヴェンは1795年に完成させた「3つのピアノ三重奏曲」(栄光の<作品1>)や「交響曲」第2番(作品36)など、数多くの作品を候に献呈する関係を結ぶ。

リヒノフスキー侯、モーツアルトともピアノの師弟以上の深い関係を持っていた。フランス革命が起きる1789年春、33歳のモーツアルトを誘ってベルリンへ旅行しているのだ。
「ベルリンには音楽愛好家として名高いプロイセン国王、フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世がおり、旅行はこの国王との会見が目的だったらしい。モーツアルトの経済的困窮は相変わらず続いており、(モーツアルトは)ベルリンで現状打開のきっかけをつかもうとしたのかもしれない」(西川尚生「モーツアルト」音楽之友社・173頁)。

「(1789年」モーツアルトには依然として好転の兆しは見られなかった。演奏活動は停滞し、創作意欲もこの時期にはかなり衰えたようだ。1月にはモーツアルトは、それまで住んでいた郊外の家から市内のアパートに居を移した。ウィーン時代10回目の引越し。おそらく経済上の理由のためだった」(田辺秀樹「モーツアルト」新潮文庫・138頁)。

侯爵に同行すれば馬車代を払う必要もない。モーツアルトは喜んで誘いに応じた。
「無類の音楽好きで自らチェロを演奏したフリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、プロイセン宮廷を訪問した音楽家や、外国から作品献呈をしてきた音楽家に、高額の報酬を与えたことで知られている」(西川・177頁)。
4月8日にウィーンを出発したモーツアルトはプラハを経て12日にドレスデンに着く。この街ではザクセン選帝侯の午前演奏会が開かれ、モーツアルトは前の年に作曲した「ピアノ協奏曲」第26番ニ長調<戴冠式>を演奏した。

「25日朝にポツダムに到着したモーツアルトは早速、プロイセン国王に謁見を願い出、プロイセン宮廷の音楽監督だったフランス人チェロ奏者、ジャン・ピエール・デュポール(1741〜1818)と会見した。モーツアルトはおそらくこのデュポールの機嫌をとる目的で<デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲>(K573)を作曲したが、国王からの謁見の許しはなかなか下りなかった」(西川・175頁)。

その後、リヒノフスキー侯がウィーンへ戻らなければならない事態が発生する。モーツアルトは侯爵に付き添い、ライプツィヒまで戻った。
「5月12日、ライプツィヒのゲヴァントハウスでモーツアルトの演奏会が催され、数曲の交響曲、クラヴィーア協奏曲が演奏されたほか、プラハから来ていたドゥーシェク夫人が2曲のアリアを歌った」(西川・175頁)。

ドゥーシェク夫人(1753〜1824)は作曲家フランツ・クサヴァー・ドゥーシェクの妻ですぐれたソプラノ歌手。1777年の夫妻のザルツブルグ訪問以来モーツアルトと親交があった。
10年後の1787年秋、「ドン・ジョヴァンニ」の最後の仕上げにはドゥーシェク夫人の別荘が使われた。モーツアルトはお礼にレチタティーヴォとアリア<私の麗しい恋人よ、さようなら…、とどまってください、ああ、いとしい人よ>(K528)を作曲、献呈している。

後年、ベートーヴェンもプラハ滞在でドゥーシェク夫人の世話になる。作品65のシェーナとアリア<おお裏切り者め!>に献辞はないが、1796年11月21日にライプツィヒで初演したのは彼女。ドゥーシェク夫人のために作曲されたと考えられているという。

モーツアルトがリヒノフスキー候に同行した<北ドイツ>旅行は失敗に終わった。モーツアルト研究家M・ソロモンによると「モーツアルトがプロイセン宮廷で実際に演奏したかどうかさえ疑わしく、この旅行でモーツアルトが持ち帰った100フリードリヒ・ドール(ブラウンベーレンスに寄れば785フロリンに相当)は旅行の失敗を(愛妻)コンスタンツェに悟られないようにするため、リヒノフスキー侯爵かドゥーシェク夫人に借りたものではないかと推測している」(西川・177頁)―――。

「ウィーン帰郷後のモーツアルトの手からは、再びプフベルク宛の借金の申込みの手紙が書かれるようになった。この年の<プフベルク書簡>には7月中に書かれた3通と12月の1通が残されている。文面は前年のものよりさらに深刻で、7月の手紙では、コンスタンツェが重病になり、ウィーン近郊のバーデンでの湯治に莫大な費用がかかるため、何としても金を貸してほしい、貸してもらえなければ一家で破滅するしかない、と書かれている」(西川・178頁)。

1789年、モーツアルト33歳の北ドイツ旅行。モーツアルトは2年後に35歳で他界する。
プフベルクはウィーンの裕福な織物商人。モーツアルトとは秘密結社フリーメーソンの盟友。実はリヒノフスキー侯爵も盟友。モーツアルトは二人から借金を重ね、「1791年11月、モーツアルトは、かつて北ドイツ旅行に同行したリヒノフスキー侯爵から、借金返済を求める裁判を起こされ、1435フロリン32クロイツァー(及び裁判費用24フロリン)の支払いを命じられている」(西川・192頁)。1フロリンは約1万円―――。晩年のモーツアルトは<極貧>だったのだろうか。これは大きな<謎>だ。 ―――<続く>―――。
(平成19年1月9日)

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