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「(晩年の)モーツアルトは借金を重ね、最終的に亡くなった時には、少なくとも800フロリン(一説によると2000フロリン以上)の負債があり、残された現金はわずか60フロリンだった」(西川尚生「モーツアルト」音楽之友社・192頁)という。
1フロリンは約1万円だから、手元現金は60万円、借金は800万円(一説では2000万円以上)になる。モーツアルトの借金はそれだけではない。有名な借金懇願の<プフベルク書簡>。プフベルクはウィーンの富裕な織物商人。彼にも借りていたことは明白。
「他の人物にも借金があり、1789年には最高裁書記のフランツ・ホーフデーメルから100フロリン、1790年には商人のハインリヒ・ラッケンバッハーから『自分のすべての動産』を担保の1000フロリンを借りている。さらにW・ブラウンアイスが近年発見した文書によれば、1791年11月にモーツアルトは、かつて北ドイツ旅行に同行したリヒノフスキー侯爵から、借金返済を求める裁判を起こされ、1435フロリン32クロイツァー(および裁判費用24フロリン)の支払いを命じられている」(西川・192頁)。
カール・リヒノフスキー侯爵(1756〜1814)はモーツアルトと同い年。夫人クリスティアーネとともにモーツアルトにピアノを学び、高い音楽的教養を身に付けていた。
リヒノフスキー候、モーツアルトの死後1793年11月、ベートーヴェン(23)がウィーンに留学すると持ち家に住まわせ、ハイドンのレッスンを受けられるよう支援する。ベートーヴェンは1795年に完成させた「3つのピアノ三重奏曲」(栄光の<作品1>)や「交響曲」第2番(作品36)など、数多くの作品を候に献呈、親密な関係を結ぶ。
晩年のモーツアルトは<極貧>だったのだろうか。長年大きな<謎>とされ、近年、様々な研究が進んでいる。モーツアルトを知るためには<非常に面白い>と火山は思う。
モーツアルトが困窮に落ち込んだ最大の原因は皇帝ヨーゼフ2世のオーストリア帝国が1788年初頭に参戦したトルコ戦争にある。輸入が途絶え、物価高騰や食糧不足は深刻。戦費調達の増税もあった。1788年7月31日にパンの分配を求める市民の暴動も勃発する。
「モーツアルトにとって打撃だったのは顧客だった貴族の多くが出征、あるいは領地に帰ってしまったため、演奏会が開きづらくなったことである。1789年7月に予約演奏会を企画した時、予約者がヴァン・スヴィーテン(1734〜1803)だけだったのは、モーツアルトの人気が落ちたからではなく、こうした外的な要因によるものだろう」(西川・192頁)。
スヴィーテン男爵は当時、宮廷図書館長。音楽への造詣が深く、長年バッハとヘンデルの楽譜を収集、毎週日曜日には宮廷図書館内の自宅で音楽会を開いていた。実は古くはハイドンもモーツアルトも、さらにはベートーヴェンまでも、スヴィーテン男爵を通じて<バッハ・ヘンデル体験>と呼ばれる研鑽を深め、対位法など音楽技法を磨いている。ベートーヴェン(30)は男爵に感謝、「交響曲」第1番(作品21)を1800年に献呈している。
1781年、ウィーンに定住した頃のモーツアルトは<予約演奏会>で人気を集めていた。「1784年の春には予約者は174名。名門貴族や裕福な市民たちがずらりと名を連ねる。モーツアルトは誇らしげに予約者全員のリストを父レオポルトに送った。わずか5年後に、予約者がヴァン・スヴィーテン男爵たった一人になってしまうなどとは、この頃のモーツアルトは夢想だにしなかったろう」(田辺秀樹「モーツアルト」新潮文庫・109頁)。
25歳でウィーンに移住。瞬く間に人気を得たモーツアルト。カリスマ・ピアノ教師、ピアニスト、作曲家として大成功する。だが30歳過ぎた頃から人気が翳り、晩年は借金漬け。
35歳で貧窮のうちに病死。埋葬には誰も立ち会わず、遺体は行方不明。墓もない―――。
これが普通のイメージ。だが本当にモーツアルトは貧乏だったのか。―――意外!!
「近年の研究は、モーツアルトがウィーン時代をつうじて、かなりの高額所得者だったことを明らかにしている。ここではブラウンベーレンス(1986)が計算した、各年の推定年収を挙げておこう。1781年<962フロリン>(962万円)、1782年<1526フロリン>、1783年<2250フロリン>、1784年<1650フロリン>、1785年<1279フロリン>、1786年<756フロリン>、1787年<3216フロリン>、1788年<1025フロリン>、1789年<2535フロリン>、1790年<1856フロリン>、1791年<3725フロリン>」(西川・191頁)。
1フロリンは約1万円。35歳で病死した1791年でさえ<3925万円>というから物凄い。患者を2000人収容できるウィーン総合病院の院長の年俸は3000フロリンだった。モーツアルトはその上を行く<高額所得者>だ。
しかも、以上の収入は資料的に確実なもの。この他に記録に残らないレッスン代、演奏会の収益、楽譜出版の報酬などがあった。ブラウンベーレンスは「それらを含めるなら実際の年収ははるかに高額になるだろう」(西川・191頁)と指摘している。
別の研究者M・ソロモン(1995)の計算では「ブラウンベーレンスで756フロリンだった1786年が2604〜3704フロリン、晩年で最も収入が少ない1788年が1385〜2060フロリン、最も収入が多かった1791年が3672〜5672フロリン」(西川・191頁)というのだ。
こんな物凄い<高収入>のあったモーツアルトがなぜ借金を重ねたか。そこに実に意外なモーツアルトの<素顔>が隠されている。火山も仰天した。モーツアルトを正しく理解するためには、この<借金の謎>は避けて通れないのだ。―――<続く>―――。
(平成19年1月9日)
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