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「モーツアルトはウィーン移住後、またたく間に人気作曲家・演奏家となり、経済的にも大成功をおさめた。しかし、1786年頃から徐々に人気を失い、作品も難解という理由であまり演奏されなくなった。演奏会を企画しても客が集まらず、収入は激減し、妻の療養費なども嵩んで借金を重ね、人々に理解されぬまま、貧困のうちに35歳の若さで病没した―――多くの人が信じてきたのは、こうした<悲劇の天才>としての晩年像にちがいない」(西川尚生「モーツアルト」音楽之友社・190頁)。
火山は今までモーツアルトのことをほとんど知らなかった。貧窮のうちに若死に。墓さえない。でも妻はモーツアルトの父親と同じ墓に眠る。悪妻の典型。神童と騒がれ、数多くの名曲を残したにしては、実に気の毒な人生だった。知っていたのはこの程度。
だが最近の研究によればモーツアルトは晩年でも凄い収入があった。ウィーン最大の総合病院の院長より遥かに高額の年収があった。それも毎年のことだ―――。
「モーツアルト」(音楽之友社)の西川尚生によれば、研究者が楽譜出版社<アルタリア>などモーツアルトと関係のあった取引先の帳簿など記録を精査、推計した数字がある。
詳しくは前回をご参照いただきたいが、ブラウンベーレンス(1986)はモーツアルトが病死した1791年の年収は3725フロリン(3725万円)と推計している。これは確実な記録のあるものだけ。他に記録が残らないレッスン代、演奏会の収益、楽譜出版の報酬が相当あった。M・ソロモン(1995)の計算では同じ1791年の年収は3672〜5672フロリン。
「たとえ収入が減少し、(戦争で)物価が上っても、モーツアルトくらいの収入なら、生活を切り詰めれば何とか乗り切れたはずである。実際、モーツアルトは住居に関しては節約しており、1784年11月から住んでいた家賃460フロリン(460万円)という、シュテファン大聖堂近くの高級住宅(「フィガロハウス」)を1787年に引き払い、88年6月からは、家賃のずっと安い郊外のアルザーグルントの住居に住むようになった」(西川・193頁)。
だがその他では生活を切り詰めた形跡はない。「遺産目録」には「高価な衣類、家具、ビリヤード台、食器、書籍など400フロリン(400万円)以上の価値がある品々が並んでいた。モーツアルトが衣装に金をかけていたことは同時代者の証言から明らかであり、貴族や友人たちとの社交も欠かさなかったので、出費も多かったと思われる」(西川・193頁)。
晩年のモーツアルトは借金を重ね、死後、800フロリン(一説では2000フロリン以上)の負債が残り、手元の現金はわずか60フロリンだった。1フロリンは約1万円。現金60万円、借金800万円(一説では2000万円)になる。だがモーツアルトの借金は他にもあった。
「1789年には最高裁書記のフランツ・ホーフデーメルから100フロリン、1790年には商人のハインリヒ・ラッケンバッハーから『自分のすべての動産』を担保の1000フロリンを借りている。W・ブラウンアイスが近年発見した文書によれば1791年11月にモーツアルトは、かつて北ドイツ旅行に同行したリヒノフスキー侯爵から借金返済を求める裁判を起こされ、1435フロリン32クロイツァー(および裁判費用24フロリン)の支払いを命じられている」(西川・192頁)。リヒノフスキー候は3年後ベートーヴェンのパトロンになる。
では物凄い<高額所得者>で<金持ち>だったはずのモーツアルトが<借金地獄>に悩んだ本当の原因は何だったのだろうか。
「1789年以降、コンスタンツェは金のかかるバーデンでの療養をつづけていたし、息子のカール・トーマスがいれられていたベルヒトルヅドルフの寄宿学校は、年間400フロリン(400万円)もかかったという。多くの論者が指摘するように、こうしたモーツアルト一家のぜいたくな暮らしぶりも、困窮を引き起こした原因だったのだろう」(西川・194頁)。
西川尚生は学者だからあまりハッキリは断定しない。でも火山は自由の身。実はある大胆な<仮説>を持っている。それはモーツアルトと愛妻コンスタンツェの関係だ。以前、ウィーンで経済的に行き詰まったモーツアルトが、そこから抜け出す方策としてリヒノフスキー公爵に同行した<北ドイツ>旅行のことをご紹介した。モーツアルトは外国から来た優秀な音楽家を優遇するプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世のウワサを聞き、金策を思いつく。だがこれは前述のごとく失敗に終わった。
モーツアルト研究家M・ソロモンによると「モーツアルトがプロイセン宮廷で実際に演奏したかどうかさえ疑わしく、この旅行でモーツアルトが持ち帰った100フリードリヒ・ドール(ブラウンベーレンスに寄れば785フロリンに相当)は旅行の失敗を(愛妻)コンスタンツェに悟られないようにするため、リヒノフスキー侯爵かドゥーシェク夫人に借りたものではないか」(西川・177頁)というのだ。785フロリンは785万円。大金だ。モーツアルトはコンスタンツェを相当意識している。旅先から沢山出している手紙でも明白。
モーツアルトの父レオポルトは25歳のモーツアルトがウィーンで暮らし始めた頃、<お人好し>のモーツアルトが下宿先のウェーバー夫人から騙されるのではないかと心配した。夫人の評判が悪く「娘たちは<金遣い>が荒い」というウワサを聞いたからだ。
モーツアルトの初恋の相手はこのウェーバー夫人の娘アロイジア。美人だったが、自分がミュンヘン歌劇場のプリマドンナになった途端、モーツアルトを手酷く振った。父レオポルトは激怒した。それなのにモーツアルトは3年後に妹のコンスタンツェと恋仲になった。
しかも不美人。父はモーツアルトの結婚にはずっと反対だった。有名な話だ。ああ―――。
(平成19年1月15日)
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