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<古代史>最大の政変<入鹿>暗殺は西暦645年6月12日に起った。そして<天皇>中心の<律令>体制、中央集権国家への大政治改革<大化改新>が始まった。蘇我一族は「天皇を滅ぼそうとした<大逆臣>」というのが従来の通説―――。
だが飛鳥・甘樫丘(あまかしのおか)一帯の発掘調査の成果は、それを覆す<重大>な<真相>を明らかにした。大化改新を主導した鎌足の子・藤原不比等が編纂した「日本書紀」の記述にも信憑性が疑われる<新事実>が浮かんでいる。さる2月2日に放送された「NHKスペシャル」<大化改新>「隠された真相」は驚くべき内容だった。
大化改新の<功臣>鎌足を祭る段山神社(奈良県桜井市)に伝わる「多武峰(とうのみね)縁起絵巻」によれば「蘇我蝦夷・入鹿父子は甘樫丘に天皇家を脅かす大豪邸を建てた」。だが発掘で発見された遺構は武器庫、兵舎が主体。豪邸は見当たらなかった。蘇我氏の邸宅跡は氏寺の飛鳥寺を含め、天皇の宮殿を取り囲み<大要塞>の性格を持っていた。それらは<外敵>の襲来に備えたものだったのだ。
では外敵とは―――。海の向こうの大陸に誕生した大帝国<唐>だった。唐は強大な軍事力を背景に周辺諸国に侵略の手を広げようとしていた。朝鮮半島には高句麗、新羅、百済の3国があり、日本列島には倭国があった。飛鳥に本拠を置く<大和>朝廷だ。
テレビに北京大学図書館が映った。中国の歴代諸王朝の軍備を集大成した資料が保存され、唐の軍事力を知る手がかりがあった。放送では主力となる<軍艦>の絵姿が紹介された。
三層の<櫓>(やぐら)を載せた巨大な軍艦。全長120m、高さ30m。広い甲板は車や馬が走り回れる。巨大な<楼船>には攻撃と守備のための様々な装置が装備されていた。
<櫓>の壁は水を含んだ厚い<牛革>で覆われ<火矢>が突き刺さっても火災にならない。兵士が隠れながら<矢>を放つ<女墻>(ひめがき)も装備。遠方の船を狙う<投石機>もあった。ユニークなのは<発竿>(はっかん)。間近に迫った船に石を落として撃沈する。唐はこの軍艦を海に繰り出し、周辺国を脅かしていた。唐の<軍隊>を現した<兵馬俑>がテレビに映された。<兵>も<馬>も<軽装>で<機動力>に勝れている。
<巨大軍艦>で<海上防衛線>を突破すると<軽騎兵>が怒涛の勢いで<都>へ攻め上る。唐の軍隊は周辺国の恐怖の的。<飛鳥>の<入鹿>が恐れていたのは、この<唐>からの<侵略>だったのだ。
「NHKスペシャル」の画面が一転。映し出されたのは<韓国>中部の町プヨ(扶余)。<唐>の脅威から身を守ろうとした<百済>の都があった。クアンプクリ遺跡―――。発掘が進み<首府>と表記された<瓦>の破片が出土した。<王宮>の跡だ。
プヨでは丘陵の地形を生かして都の<要塞化>が行われていた。王宮に隣接して山小高い丘がある。プソ山。山上に<兵器庫>と<兵舎>があった。王宮を守る軍事拠点だ。飛鳥の甘樫丘にソックリ―――。韓国チュンナム大スンパル教授が登場した。
「構造的に見ると、甘樫丘はプソ山と同じ役割を持っていた。つまり飛鳥は韓国のプヨの都をモデルにして造ったのではないか」。
なぜ蘇我氏はプヨを飛鳥のモデルにできたのか。蘇我氏は朝鮮半島と密接な関係を持つ豪族だった。入鹿には<高麗><韓子>など朝鮮半島の地名を持つ先祖がいる。百済出身の渡来人との説もあるほど。入鹿は渡来人から大陸や周辺国の情報を得て、唐の脅威を察知、プヨの都をモデルに飛鳥の防衛に全力をあげた可能性がある。
入鹿が行ったのは防衛だけではない。唐の侵略を受けないよう友好関係を築く外交にも力を注いだ。630年、父・蝦夷は唐との交流を深めるため<遣唐使>の派遣を始めている。入鹿はこの外交路線を引き継いでいた。
藤原一族の「藤氏家伝」に唐から帰国した僧の入鹿に関する談話がある。「我が堂に入る者、蘇我の太郎(たいろう=入鹿)に如くはなし」(我が弟子で入鹿に勝る者はいない)。「入鹿は国際情勢に通じた<開明的>な人物だった」とNHKスペシャルはいう。
後に<難波宮>が置かれた大阪の中心部がテレビに映った。入鹿はこの難波に<外交拠点>を置き、唐との外交を推進しようとしていた。「そう、読み取れる記述が『日本書紀』にある」と京都府立大の門脇禎二教授の解説。門脇教授は<蘇我>研究の第一人者という。
当時の難波は海に面していた。瀬戸内海を通じて直接<東アジア>につながる海の玄関口。
「入鹿が難波を重視したのは唐を中心とした新しい外交政策、軍事的政策を考えていた。海外の文化的情勢など多面的に情報を把握しながら唐と融和、その他の国々とどう対応するか。入鹿は一方で都の防衛を固めながら、もう一方では唐との外交を進めるという両面作戦で侵略を防ごうとしていたのです」と門脇教授。
しかし、645年6月12日、入鹿に運命の時が訪れる。この日、宮中では朝鮮3国からの親善使節を向かえる儀式が行われることになっていた。入鹿はその儀式に参列するため御前に控えていた。その時、柱の陰に隠れていた中大兄皇子と鎌足の刺客が襲った。頭と肩を切られた入鹿。瀕死の中で叫んだ。「臣、罪を知らず」(入鹿に何の罪があるのでしょう)。
(平成19年2月16日)
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