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「高校生の頃、モーツアルトを聴いていると<精神性>という境地に到達できると思った。ごちゃごちゃした日常性からすっとぬけられる。自分の欲することをやればよい。それが嬉しかった。落ち込んだ時、ベートーヴェンを聴けば元気が出る。でもモーツアルトなら目が天に向く。この弦楽四重奏曲は荘重な感じがする。なぜ<狩り>という名前がついたのだろう。<戴冠式>というのもある。どちらも<仇名>。モーツアルトがつけたものではない。でも小説でも作者が書いた以外のものを読み取ってもよい。モーツアルトも同じと思う」―――。本日のゲストは仏文学者の篠沢秀夫。
本日の一曲は「弦楽四重奏曲」変ロ長調<狩り>(ハイドン四重奏曲第4番・K458)。
1785年2月12日、ウィーンのモーツアルトの家をヨーゼフ・ハイドン(1732年〜1809年)が訪れた。あの新作の「ピアノ協奏曲」第20番ニ短調を、父レオポルトの立会いを得て、メールグルーベで演奏した翌日だ。滞在中のレオポルトもハイドンに会った。
ハイドンは「弦楽四重奏曲の父」といわれる大作曲家。1766年からアイゼンシュタットに居城を持つエステルハージ侯爵家の楽長。ヨーロッパ中に名声が轟いていた。テレビにアイゼンシュタットの風景が出た。なだらかな丘に囲まれた美しい都市だ。
「モーツアルトは24歳年上の先輩作曲家を、音楽上の師として、また友人として心から尊敬していた」(西川尚生「モーツアルト」音楽之友社・155頁)という。モーツアルトは「ハイドン・セット」と呼ばれる弦楽四重奏曲を合計6曲作り、敬愛するハイドンに献呈した。
レオポルトがモーツアルトの姉ナンネルに宛てた手紙があるので、この夜の模様が分かる。「ヨーゼフ・ハイドン氏と二人のティンティン男爵が訪ねて来られて、ヴォルフガングが作曲した3曲の新しい弦楽四重奏曲を演奏した。既に私たちが知っている例の3曲に、あの子はさらに3曲をつけ加えたのだ。今度の3曲にくらべて幾分やさしいのだが、素晴らしい出来栄えだ」(田辺秀樹「モーツアルト」新潮社・110頁)―――。
BS「毎日モーツアルト」によると、この夜モーツアルトはヴィオラを自ら弾いたという。ハイドンはヴァイオリンだったのだろうか。
「モーツアルトはこの6曲(ハイドン・セット)を精魂込めて書き上げ、敬愛するハイドンに献呈した。いずれも充実し切った素晴らしい曲ばかりである。24歳年少のモーツアルトと共にこれらの曲を演奏しながら、ハイドンはどれほど深い感銘を受けたことだろうか」(田辺・111頁)。
テレビ画面にウィーン南西部に広がる緑豊かな「ラインツ自然動物公園」の映像が出た。公園はかつてハプスブルグ王家の狩猟場だった。今は市民の憩いの場となっている。角笛を思わせるリズムを弦楽四重奏曲が刻む。ハイドン・セットの「弦楽四重奏曲」。モーツアルトが作曲法をハイドンから学び、旋律も意識的に借り、影響が色濃く出ているという。
この夜、ハイドンはモーツアルトの父レオポルトにこう言った。「誠実な人間として、神の御前に誓って申し上げますが、ご子息は私が名実ともども知っている最も偉大な作曲家です。様式感に加えて、この上なく幅広い作曲上の知識をお持ちです」―――。
「ハイドンとモーツアルトの心温まる交流は、こののちハイドンがロンドンに旅立つ1790年12月まで続くこととなる」(西川・155頁)。1790年とはモーツアルトの死の前年、34歳の時だ。
レオポルトは、このウィーン訪問で、モーツアルトの活躍ぶりを知って涙を流して喜んだ。父と子の結婚をめぐる長年のしこりもだいぶほぐれたらしい。1785年2月16日のレオポルトの手紙。娘のナンネルに宛てた一節がある。
「お前の弟は、家具類もすべて整ったきれいな家に住んでいる。こちらに到着した晩、私たちはあの子の予約演奏会の初日を聴きに行ったが、そこには身分の高い人たちがたくさん集まっていた。演奏会は比べようもない素晴らしさで、オーケストラも見事だった。それからヴォルフガングの見事な新作のピアノ協奏曲が披露された」(田辺・110頁)―――。
「ハイドンが与えた惜しみない賛辞はモーツアルトに大きな自信と喜びを与えた」―――。7月6日(木)の「毎日モーツアルト」はこの言葉で終った。
モーツアルトが頂点を極めていた日々。レオポルトはやがてウィーンを満足して離れるが、この父と子は、こののち二度と会う機会に恵まれなかったという。
(平成18年7月6日)
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