火山の独り言

時ならめ 風に挑みて 鯉のぼり

ベートーヴェン意外な関係

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「ピアニスト<中村紘子>が<腕立て伏せ>宣言」と前回の「(ベートーヴェン意外な関係・10)で書いた。音楽監督の大友直人の指揮で<東京文化会館>が「ベートーヴェンのピアノ協奏曲<全曲>演奏会」を企画した。一日で<全曲>を聴く。午後2時開演で終演は午後7時15分という。<興味津々>の火山、大奮発。家内を説得してカブリツキの<S席2枚>を入手した。

ベートーヴェンが最初の「ピアノ協奏曲」第1番ハ長調(作品15)を作曲したのはいつか。火山、さっそく調べてみた。ベートーヴェンが25歳の1795年の春らしい。というのもベートーヴェンはこの1795年3月29日、ウィーンのブルグ劇場で「ピアノ協奏曲」第2番変ロ長調(作品19)を初演しており、作品目録には<第1番>も1795年となっているからだ。第1番が先だったことは作品番号からも明白。

前途有望なボンの宮廷楽師だったベートーヴェンは音楽の都<ウィーン留学>を許されて1793年11月10日、ウィーンに到着した。23歳の青年ベートーヴェン、モーツアルトの良き理解者だったリヒノフスキー侯爵の持ち家に寄宿する。残念ながらモーツアルトは2年前の12月5日に35歳で既に世を去っていた。二人が会うチャンスは永遠に失われた。

ベートーヴェンはモーツアルトの師だったハイドンに師事する。幼い頃から「<第二のモーツアルト>を目指せ」と父親から期待されていたベートーヴェン。ハイドンへの弟子入りには多大な期待を寄せていたろう。だが不思議なことにハイドンはベートーヴェンの指導にあまり熱心ではなかった。既に61歳の高齢に達していたことも一因かもしれない。

「師が自分のレッスンに対して情熱と誠意に欠けていると感じたベートーヴェンは、師ハイドンがロンドンに向けて出発すると、誰に気がねをすることもなく、対位法の大家ヨハン・G・アルブレヒツベルガーにも師事し、240あまりの課題に習作を残している。それらの中には2声から4声のフーガ48曲と二重対位法34曲が含まれている。1795年3月まで続けられたレッスンの後期には作品1となる3つのピアノ三重奏曲が生まれている」(平野昭「ベートーヴェン」新潮文庫・39頁)。

面白いのはこの「ピアノ三重奏曲」変ホ長調(作品1)はリヒノフスキー侯爵に献呈された。リヒノフスキーはモーツアルトと同じ1756年の生まれ、夫人とともにモーツアルトからピアノを習い、親交も持ち、音楽的教養も高かった。
1795年8月末、ロンドンから師ハイドンが戻ると、ベートーヴェンはリヒノフスキー侯爵邸で開かれた毎週金曜日の音楽会で、2年前から作曲を進めていた3つの「ピアノ・ソナタ」
(作品2)を披露し、師に献呈したという。

「(3つの「ピアノ・ソナタ」は)いずれも4楽章構成をとり、モーツアルトやハイドンの
ソナタとはかけ離れた様式を持ち、音楽内容の点でも当時まで類例を見ないこの3曲を献呈されたハイドンは、いかなる思いで弟子を眺めていたのだろうか。しかも師ハイドンに献呈されたこの作品は栄光の1番ではなく2番であった。ベートーヴェンの皮肉であろうか、それとの師に対する批判を暗示するのだろうか」(平野・43頁)―――。

ハイドンはかつて53歳の1785年2月、ウィーンのモーツアルト邸で開かれた音楽会で、モーツアルトの父レオポルトに「私は神に誓って正直に申し上げますが、あなたのご子息は、私が名実ともに知る最も偉大な作曲家です。ご子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識を誰よりも豊富にお持ちです」と絶賛していたのだ。時にモーツアルトは29歳。それから僅か10年。63歳になったハイドンの前に25歳のベートーヴェンが現われた。

ベートーヴェンが対位法を学んだアルヒツベルガー(1736〜1809)は1793年から聖シュテファン大聖堂楽長に就任していた。ハイドンやモーツアルトとも親しく、ヘンデルやバッハの音楽に精通していた。そして聖シュテファン大聖堂楽長とは生前のモーツアルトが91年まで<副>楽長を務め、密かに狙っていたポストでもある。もしモーツアルトが生きていれば、きっと手に入れていたと火山は思う。運命の巡り合わせだ。

ベートーヴェンはアルヒツベルガーの弟子である間に「ピアノ協奏曲」第1番と第2番を完成させ、第2番変ロ長調(作品19)の方を先に初演する。
「作曲の勉強をひと通り終えたベートーヴェンは創作もさることながら、ウィーンで最高のピアニストの地位を得るべく公開の場へデビューする。1795年3月29日と30日の2日間に行われたウィーン音楽家協会主催の未亡人慈善音楽会において、ブルグ劇場の大ステージに登場したのである。初日は自作のピアノ協奏曲第2番(作品19)の独奏者として、そして翌30日にはピアノ即興演奏を行う」(平野・39頁)。

「(ベートーヴェンが)ウィーンの寵児となった最大の理由はピアニストとしての実力であった。名演奏家のひしめく当時のウィーンにあってベートーヴェンが注目を浴びたのは独自の二つの武器、一つはボン時代のオルガン奏者として身につけた即興術であり、もう一つはネーフェ(ボン国民劇場の音楽監督)から学んで完成させていたクラヴィコード奏法に由来するレガート奏法とカンタービレ奏法であった。この頃のウィーンではモーツアルトの演奏に代表される音の均質さ、響きの清澄さ、軽快な速度といった伝統的なチェンバロ奏法から来る真珠を転がすようなスタッカート気味のエレガントな奏法が流行していた。ベートーヴェンの生み出す響は新鮮だった」(平野・38頁)。
(平成19年3月28日)

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