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「中村紘子のベートーヴェンピアノ協奏曲<全曲>演奏会」―――。待望の6月3日(日)が来た。指揮は大友直人。会場の東京文化会館・音楽監督だ。オケは都響。音楽史上に燦然と輝く金字塔となるだろう。
<全5曲>を1日で演奏するのは中村紘子―――。3歳で桐朋学園音楽科の前身となった『子供の為の音楽教室』第一回生として井口愛子に師事。早くから天才少女として名高く、全日本学生音楽コンクールの小学生部門、中学生部門と優勝を重ねたのち、慶応義塾中等部3年生在学中に、第28回音楽コンクールで史上最年少の第1位特賞。翌年、NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢され、華やかにデビューした。
「中村紘子のクルマを見たわよ」と家内。広いホワイエで出会った第一声。興奮している。美人ピアニストがスーツケースを二つ抱えて降りたという。舞台衣装だろう。
「20世紀最高の批評家の1人とされるハロルド・ションバーグはピアニストに関する代表的な名著『偉大なピアニストたち』の中で東洋人ピアニストとしてただ1人中村紘子の名を挙げ、その特色を<絢爛たる技巧>と<溢れる情感>そして特に<ロマンティックな音楽への親和力(affinity)>にあると評している」とプログラム。
「凄い!」―――。第1番ハ長調(作品15)が終った時、お隣りの奥様がつぶやいた。
2時開演、終演まで5時間15分の長丁場。「腕立て伏せで体力を作る」と発言していた中村紘子。ピアニッシモ(最弱音)からフォルティッシモ(最強音)まで女性とは思えないダイナミック・レンジの広さ。テンポ、リズムも隙がない。見事な呼吸だ。
<第2番>変ロ長調(作品19)―――。10分の休憩の後、演奏が始まった。火山、今日もカブリツキ。<1列19番>とは最前列の中央。グランド・ピアノが目の前。中村紘子の全身が間近に見える。大友直人はピアノの響板の影に隠れ、足だけが指揮台で踊っている。
「1792年6月、ボンに住む青年ベートーヴェンはイギリスから帰国する途中のヨーゼフ・ハイドンに才能を見いだされ、半年後の11月にはその後を追いかけるように、ドイツ語圏最大の文化都市ウィーンへ<上京>した。その際、1786年頃から書きためていた、この協奏曲のスケッチを携えていたと見られる」―――。プログラムの解説。あまりに見事。帰宅後、筆者の<広瀬大介>を調べてビックリ。一橋大大学院で<音楽学>専攻、モーツアルト研究で有名な田辺秀樹の門下。ドイツのミュンヘン大学に留学経験がある。
田辺秀樹―――。実は火山のドイツ語の先生。NHKラジオ講座「歌で楽しむドイツ語」でお世話になった。博識で温厚、魅力的な人。お蔭で多数の名曲と出会った。「モーツアルト生誕250年」の昨年。BSの「毎日モーツアルト」を見ながら読んだ参考書の1つが田辺秀樹「モーツアルト」(新潮文庫)だった。素晴らしい名著だった。親しみが湧く。
お蔭で新潮文庫の「ベートーヴェン」(平野昭)も読んだ。ベートーヴェンの祖父ルートヴィヒ(1712〜1773)はボンに居城があるケルン選帝侯の宮廷楽長。父ヨーハン(1740〜1792)は宮廷楽団の歌手、美声だったという。ヴァイオリンも弾いた。ベートーヴェンは幼時から父に音楽教育を受け、クラヴィコード(ピアノの前身)奏法で豊かな楽才を示した。
やがて宮廷楽師となり、年俸150フローリン(150万円)。16歳頃から酒飲みの父に代わり宮廷オルガニストを始め、貴族の子弟にピアノも教える。中にブロイング家があった。弟子となった娘エレオノーレはベートーヴェンの初恋の相手となる。
ブロイニング家でベートーヴェンは文学やラテン語に目覚め、多くの名士と知り合う。後に有名なピアノ・ソナタを献呈するヴァルトシュタイン伯爵とも知り合った。伯はベートーヴェンの楽才を愛し、当時ボンに数台しかなかったJ・A・シュタイン製のピアノを贈る。「ピアノ協奏曲」を手がけ始めるのもこの頃だ。
1787年3月、16歳のベートーヴェンはウィーンへ旅立ち、有名なエピソードが生まれる。尊敬していたモーツアルトをベートーヴェンが訪ね、与えられたテーマでピアノ即興演奏。モーツアルトが言い放った。「彼に注目したまえ。今に彼は世の話題になるだろう」―――。モーツアルトは31歳。ウィーンの楽壇に君臨していた。2人は即興演奏の天才だった。
モーツアルトはクラヴィーア(ピアノの前身)が大好きで名手。ザルツブルグのコロレド大司教と衝突、ウィーンで25歳で独立すると、クラヴィーアを貴族の子弟に教えて生計を立てた。「協奏曲」はモーツアルトのメシのタネだった。ベートーヴェンにも事情は同じ。
ベートーヴェンが最初に手がけた「ピアノ協奏曲」は第2番。ただ第1番も平行して進められていたらしい。作曲事情が錯綜、初演もハッキリしていないが、現在では第2番は1975年3月29日、ベートーヴェンがウィーンのブルグ劇場でデビューを果たす以前から、しばしば演奏されていたと考えられているという。
「作曲者自身が独奏パートを即興的に弾いていたため、楽譜の出版に際しては独奏パートを確定する必要があった。その作業が1801年の<第1番>出版後までずれ込んだため、この作品に<第2番>の呼称が与えられることになったわけである」―――。ウーン、凄い。
火山、この解説にもシビレた。 +++(続き)+++
(平成19年6月7日)
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