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「夕闇迫る上野公園。日本酒を飲み、<皇帝>第2楽章を夢見た」―――。6月3日(日)午後2時開演。東京文化会館の「中村紘子のベートーヴェンピアノ協奏曲<全曲>演奏会」。
<大休憩>70分が終わった。ほろ酔いの火山。最前列中央<1列19番>の席に戻った。
<第1番>が終わった時、「凄い!」とつぶやいた上品な奥様。先に戻っていた。連れはいない。独りだ。火山、酔った勢いもあり、声をかけた。「ベートーヴェンがお好きなのですか」―――。実はこれ、2時間前から考えに考えたセリフ。これなら答えやすいはず。
「中村紘子さんのファンです」―――。思ったとおりの答えが返ってきた。奥様の席、ピアノの鍵盤が目の前、中村紘子に最も近い。「そうでしたか。ベートーヴェンのピアノ協奏曲の<全曲>演奏会。歴史に残るイベントです。私、本当はあなたの席が買いたかった。カブリツキを争った方がどんな方か知りたかったのです」(笑い)―――。
「あら、そうでしたか。私はもうちょっと左が欲しかったのです。それと、ここは見上げるので首が痛い。もう少し後ろでしたら、指も見えます。でも買えませんでした」。
中村紘子が純白に黒のビロードをあしらったブラウス、素敵な舞台衣装で現われた。前半のライトブルーから<お色直し>。そういえば開演前、家内がささやいた。「中村紘子のクルマを見たわ。彼女、スーツケースを二つ抱えて出てきたわよ」―――。
若い頃から美女の誉れ高い彼女、あでやかな姿に客席から盛大な拍手が起った。指揮の大友直人が控え目に続く。振り返って手を差し出す中村紘子とにこやかに握手、グランド・ピアノの音響板向こうの指揮台に立った。オーケストラに緊張が走った。
<第4番>ト長調(作品58)―――。ピアノがいきなり主題を提示。驚いた。<第3番>同様、このメロディも火山は知っている。いったい、いつ、どこで、聞き覚えたのだろう。
「冒頭の主題は当時のベートーヴェンが意識して多用した<運命の動機>と呼ばれる音型から派生しており、<交響曲第5番>の冒頭の旋律も同じスケッチブックに書かれた同じ音型から作られた。ただ与える印象は正反対。優しさと柔らかさに満ちている」―――。
広瀬大介の解説。モーツアルト研究で有名な田辺秀樹の弟子。火山、すっかり気に入った。
「それまでの3曲と第4・5番を截然と分ける要素はピアノ協奏曲に対するベートーヴェンなりの新たな<理念>の有無であろう。第3番までは、それまでの伝統的な語法を用いて作曲された。しかし第4番では、それまで比較的自由な演奏を許されていた演奏家に対して、自身の曲に与えた新しい<理念>を堂々と主張、それに従った演奏を強いるようになった。演奏家のために存在していた協奏曲というジャンルは作曲家主導で構成され、19世紀に隆盛を極める交響曲的なジャンルへ移行していく」―――。広瀬の解説が冴える。
だが火山、ちょっと違うことを連想した。この時期、ベートーヴェンの耳はますます不自由になって行った。音楽家としては致命的な難聴。自殺まで考え、「ハイリゲンシュタットの遺書」を書いたのは1802年のこと。第4番の作曲を始めたのは1805〜06年の頃という。
ピアノ協奏曲を自身が弾くという想いが薄れ、作曲家への変身を加速させ始めたのではないか。もちろん芸術家としての成熟はあった。だがそれだけだろうか。
「それまでの協奏曲では第1楽章はオーケストラの序奏で始まるのが常だったが、この作品ではピアノの主題の提示で始まっている」―――。<演奏家>主体の協奏曲から<作曲家>主導の<交響曲>的な世界へ。これこそ「強烈な<理念>の発露であろう」と広瀬。
平野昭「ベートーヴェン」(新潮文庫)に次の言葉を発見した。「生命の危機の克服は、力強い劇的筋書きで貫かれ、ひとつの文学とも呼べる長大な<遺書>を認める。その瞬間であったかもしれない。自殺までほのめかす彼が、芸術家としての使命に目覚め、過酷な運命に挑み、演奏家としてではなく創作家として復活しようという」―――。
ベートーヴェンが<英雄交響曲>を完成させるのは、まさに<遺書>を書いた翌年の1803から04年にかけてであり、その後に続く「<運命交響曲>や第九交響曲などに現れる<闘争から勝利へ>というベートーヴェン独自の劇的構図も、この危機の克服と無関係ではないように思われる」(平野・68頁)。
「ベートーヴェンの音楽を考える上でもう一つ大切なことがある」とプログラム。もう1人、素敵な音楽評論家を発見した。林田直樹。N響の広報誌によく執筆しているという。
<おれの人生はどうなってるんだ>―――。「18世紀末から19世紀初頭のウィーンに暮らしていたベートーヴェンは、そんな不安を抱えて生きていたのではあるまいか」と始まる。
「当時、隣国の大国フランスでは数百年の伝統を誇り、未来永劫に続くと思われていた絶対王政が革命によってもろくも瓦解、1789年から1799年までの10年間に、約4万人が処刑された。その衝撃は当然、オーストリアにも伝わっていた。ベートーヴェンの手紙や友人たちの証言によれば、若きベートーヴェンはフランス革命に非常に興味をもっていた」。
林田直樹によれば「貴族階級の庇護のもと作曲活動を行ったハイドン、恵まれた環境で成長したモーツアルトに比べ、ベートーヴェンははるかに庶民的だった」という。
「王侯貴族が専制的権力を握っていた時代、音楽家はそうした支配階級の愉しみに奉仕するものであり、料理人と同等の下僕扱いだった。プライドの高いモーツアルトでさえ、屈辱を受けなければならなかった。だが僅か14歳年下のベートーヴェンが生きた時代、音楽家は<奉公人>ではなく<芸術家>として尊敬されるべき存在になり始めていた」―――。
(平成19年6月11日)
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