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「『ピアノの誕生』について、音の大きな、ダイナミックな表現のできる楽器を求めた結果、生まれたと書いてある本も多いが、誤解である。コンサートホールでチェンバロを聴くと、その音量は『現在のピアノ』と比べてかなり頼りないものに思われるため、そう思う人が多いのかも知れないが、ピアノはコンサートホールではなく、サロンで生まれた。
実際、初期のピアノの音はチェンバロより大きいわけではなく、むしろ小さい。また強弱をつけるという場合も求められるのはフォルテ(強音)以上にピアノ(弱音)であった」(伊東信宏「ピアノはいつピアノになったか」大阪大学出版会・21頁)。
意外に思うのは火山だけではないだろう。チェンバロより音が小さく、弱音が美しいのが「ピアノの原型」―――。<みなとみらい>小ホールで開催されたレクチャーコンサートでも「もしショパンが現代のピアノを弾いたら、あの美しい数々の名曲を生み出していなかったかも知れません。それぞれの時代には、それぞれの時代の素晴らしいピアノがあり、天才たちの想像力や夢をかきたてたのです―――。ピアノという楽器とピアノの歴史を、時代の流れに沿って辿る旅に出かけませんか」とプログラムにあった。
「ショパン(1810〜1849)が青年時代に演奏会で弾いたのは主としてウィーン製のピアノ。当時は比較的新しく、ポーランドでは簡単には手に入らなかった。エラールやプレイエルのようなフランスのピアノはさらに後発。エラール社が1820年代初めに開発した『ダブル・エスケープメント』はピアノが近代的な楽器になる重要なポイント」(遠山一行「ショパン」新潮文庫・117頁)。エスケープメントはハンマーが弦を打った後、素早く離れ、元の位置に静止させる装置。切れの良さが身上。美しく澄んだ音を変幻自在に作りだす。
「ショパンやリストの音楽はピアノの発展と平行して生まれた。リストはエラール社と密接な関係を持って、工場までのめりこんで指導したが、ショパンはプレイエルを愛し、手紙に『プレイエルは完全無欠だ』と書いている。彼はエラールの音は派手過ぎると言って好まなかった。ショパンの音楽を支える<音>がどんなものであったか、またあるべきかを考える大切な手掛かりがこの辺りにあるといって差し支えないだろう」(遠山・118頁)。
祖国を失った20歳のショパンが着いたパリは1830年、7月革命後のルイ・フィリップ王政下。徹底的な現状打破を叫ぶ過激派と旧い特権を維持しようとする保守派の対立が続いていた。しかし、そんな中でも新しいロマン主義の文藝が力強い前進を続けていた。
ヴィクトル・ユーゴーの「エルナニ」が上演され、ベルリオーズの「幻想交響曲」が誕生していた。美術の世界にはドラクロワが登場。何か喧騒、華美、頽廃の匂いもする。
ショパンがパリ・デビューを果たしたのは翌年2月26日。プレイエルのサロンでへ短調のピアノ協奏曲(第2番)などを弾き、好意的に迎えられたという。演奏会にはリスト(1811〜1866)やメンデルスゾーン(1809〜1847)など同時代をリードする青年音楽家も顔を見せた。彼らもショパンの音楽に新しい音楽創造の同志を発見、親交を結ぶようになる。
だが専門家筋に高く評価されたり、一般聴衆に大反響を巻き起こすものではなかった。パリでは華麗なオペラが大流行。一方「ショパンはあまりに繊細な美の世界であったし、特にその演奏はリストのような派手やかさで聴衆を圧倒するものでもなければ、もう一人の若手ピアニスト、タールベルクのような安易な叙情性で、ひとを喜ばせるものでもない。ショパンはやはり限られた聴衆しかもつことができなかった」(遠山・107頁)。
ショパンが愛したプレイエルのピアノは「音量は大きくないが、高音部は銀のような輝きを帯び、中間部はアクセントがはっきりして染み入るように響き、低音部は鮮明で力強い」
(150頁)。イギリス流のアクション、それにうまく適合したレバー・システム、鍵盤の固さを取り除くことにも成功していたので、ピアニストには信じられないほど、同じ音符を速く、均等に、楽々と弾けるようになっていた。だがショパンの音量はあまりに小さい。
「ピアノの歴史」第6回の「ポーランドの憂愁〜ショパン」で講師・野本由紀夫も言った。「サロンで演奏していても、ちょっと離れた位置や後ろの方では、ショパンのピアノは聞こえなかったという」―――。「それでも彼は1830年代の前半には公衆の面前で演奏する機会をかなり持ったが、その経験は、むしろ大ヴィルトーソとしての不適格性を自覚させることになる。ショパンの極度に洗練された演奏は大衆の集まる大ホールには不向きだった。彼は次第にそうした活動から遠ざかり、作曲家としての自覚を深める」(遠山・110頁)。
だが「ピアノはいつピアノになったか」(伊東信宏・大阪大学出版会)は少し違う。「ショパンは、既にポーランドでフンメルのスタイルを完璧に身につけ、ウィーンではツェルニーと連弾を楽しみ、パリに出てくるやカルクブレンナーからその才能をいち早く注目された。ショパンとリストという二人の天才〜彼らがいなければ<ヴィルトゥーソの時代>は永遠に到来しなかったろう〜が開花するのが、1830年代のパリである」(184頁)。
フンメル、カルクブレンナー、ツェルニーはヴィルトゥーソの黄金時代を担った人々の父の世代。リストはツェルニーのもとでピアノ修行、ツェルニーはベートーヴェンの弟子だ。
「華麗な演奏スタイル」―――。「いかにも難しいことをやっているように聴こえる。聴衆は固唾を呑んで、もっと続きを聴きたいと思う。われわれが相手にしている聴衆は玉石混合であって、大半は感銘を与えるよりもアッと言わせる方が容易な連中だ」(181頁)。聴衆の変化を読み取ったツェルニーの言葉。近代のヴィルトゥーソの源流は彼にあった。
(平成19年8月17日)
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