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「クラヴィーアと言えば現在ではピアノのことだが、バロック時代までは鍵盤楽器の総称。音楽家は<音楽の場>やその時の目的によって、オルガン、チェンバロ、クラヴィコードを使い分けていた。バッハは教会ではオルガンで壮大なコラール変奏曲を弾き、サロンではチェンバロで華麗な組曲を弾き、家庭では弟子を教育するためにクラヴィコードで『インヴェンション』などを弾いていた。バッハの作品は<クラヴィーア練習曲集>として出版されているが、実際は様々な鍵盤楽器で演奏されていた」(伊東信宏「ピアノはいつピアノになったか」大阪大学出版会・7頁)。
ピアノはこれら3つの鍵盤楽器に続けて新しく開発された<第4の鍵盤楽器>だった。指先でピアノ(弱音)とフォルテ(強音)を自在に表現でき、ハンマーで弦を叩く鍵盤楽器というアイディアはかなり以前からあったが、現実化していくのは、イタリアのメディチ家に仕える楽器職人クリストーフォリ(1655〜1731)以降だ。
「ピアノの誕生を考える上で大切なこと、それはピアノはサロンから生まれたのであって、コンサートホールからではない、ということである。当時はコンサートホール、いやそもそも今日、われわれが<音楽の場>として考えるような<コンサート>(音楽会)、つまり『入場料を払って音楽だけを聴きに行く』という音楽の社会的ありかたそのものがなかった。教会、劇場、サロンだった」(伊東・16頁)。
だが、それらは音楽だけを聴きに行くところではない。教会はミサなど宗教儀式に参加するため、劇場はオペラやバレエを見るため、サロンは社交や宴会などを楽しむためだった。鍵盤楽器との関係ではいえば教会とオルガン、サロンとチェンバロという組合せが大事だった。<第4の鍵盤楽器>として、指先でピアノ(弱音)とフォルテ(強音)を自在に表現できるフォルテピアノは「最新式の、ちょっと風変わりなチェンバロ」として貴族の客間、サロンに登場したのだった。
19世紀後半以降もピアノの発展は<コンサート>の広がりと深く関っている。「ヨーロッパでは古くはオルガンが<楽器の女王>と呼ばれた。オルガンという楽器は石造りの巨大な空間を満たす豊かな音量とその多彩な音色から、まさにそう呼ばれるにふさわしい。しかし19世紀後半以降、<音楽の場>は教会や宮廷のサロンではなく、市民のホールに移り、多数の聴衆を前にしてオーケストラと協奏曲(コンチェルト、即ち英語ならコンサートの意味)を弾くことの楽器が求められるようになる」(伊東・16頁)。
ベートーヴェンは音量が大きく、しかも弱音域で微妙な音の陰影を表現できるピアノを渇望していた。だがそれは彼の死後、ようやくやってきた産業革命がもたらした技術進歩と資本主義経済の発展がもたらしたブルジョワジーの台頭なくしては実現しなかった。
このプロセスを経て、「ついに<現在のピアノ>が生まれ、ピアノは圧倒的な人気を博し<コンサートの女王>の地位を不動のものにしていく」(伊東・17頁)。
「音楽は時代とともに変わるものである。それは音楽家が時代の気分を取り入れたり、先輩音楽家に影響されながら、自分で新しいものを作ることによって変わる。しかし、音楽家の経済生活を、誰が、どの階層が支えるかによっても、大いに変わるであろう」(倉田稔「ハプスブルグ歴史物語」NHKブックス・158頁)。
ヨーロッパのクラシック音楽創始者はヨハン・セバスティアン・バッハ(1685〜1750)。
彼は神のために、教会のために作曲した。教会に付属、キリスト教のために音楽を作った。
教会は富裕で芸術を、つまり画家と音楽家の生活を支えた。だがバッハはドイツのキリスト教を受け入れねばならなかった。
音楽家の生活を支えた者は他にもいた。皇帝・国王だ。ハプスブルグ帝国の宮廷では、音楽好きのマリア・テレジア(1717〜1780)が音楽家を支えた。グルック(1714〜1787)は「オルフェオとエウリディーチェ」でオペラを形式的芸術から人間的感情表現へと深化させる革命を行ったとされるが、マリア・テレジアの宮廷音楽家だった。
テレジアの息子ヨーゼフ2世(1741〜1790)は教養豊かな啓蒙君主として名高いが、グルックが死ぬとモーツアルト(1756〜1791)を宮廷音楽家に登用した。
モーツアルトは宮廷に愛される音楽を作らなければならなかったが、才能豊かな彼は「フィガロの結婚」や「ドン・ジョバンニ」「魔笛」など大衆に愛される音楽も作った。ヨーゼフが死ぬと宮廷は音楽を支えなくなった。新しい皇帝は音楽に理解がなかったからだ。
ベートーヴェン(1770〜1827)は宮廷ではなくハプスブルグ帝国の貴族たちに保護された。彼の先輩ハイドン(1732〜1809)も貴族エステルハージに保護された。宮廷にも貴族にも保護されなかったのはシューベルト(1797〜1828)。彼は貧困のうちに若くして死んだ。
1848年フランス2月革命(「共産党宣言」発表)とベルリン・ウィーン3月革命(メッテルニヒ失脚)の後、「貴族の勢力は衰え始め、音楽への興味が減少すると、貴族は音楽家を保護しなくなった。その代わり、主に音楽を保護したのはブルジョワジーであった。ブラームス(1833〜1897)やシェーンベルク(1874〜1951)はブルジョワジーに支えられた。彼らはコンサートの入場券や楽譜を買うことによって音楽家を支えたのである」(倉田・157頁)。コンサートホールで音楽を聴く。これがピアノを大きく変えていく。
(平成19年8月20日)
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2014/1/22(水) 午後 10:20
有難うございます。
2014/1/22(水) 午後 11:30 [ 火山 ]