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1789年7月14日、バスティーユ襲撃を機に「自由・平等・博愛」を理念とする<フランス革命>が起こった時、19歳のベートーヴェンはボン大学の学生だった。啓蒙思想家のオイロギウス・シュナイダー教授の熱のこもった革命思想の講義を聴いていたベートーヴェンはひどく感激した。ベートーヴェンが大卒のインテリだったことを知らなかった火山、正直びっくりした。しかも、この感激が「ピアノの歴史」を変えたかも知れないというのだ。
ベートーヴェンは酒びたりで労働意欲を失った父ヨーハンに代わり、16歳頃からボンの宮廷オルガニストを勤め、一家の柱となるべく頑張っていた。貴族の子弟にピアノも教えていたが、ブロイニング家にも出入り、娘エレノーレに教えるうちに、彼女に恋をする。
ベートーヴェンはブロイニング家で多くの名士と知り合うが、中にウィーン名門のヴァルトシュタイン伯爵がいた。
伯爵は自らもピアノを弾き、作曲する音楽愛好家。ベートーヴェンの才能を愛し、当時、ボンに数台しかなかったアウグスブルグのJ.A.シュタイン製のピアノを贈った。ベートーヴェン18歳の時だ。「以後ボン時代のベートーヴェンの作品はすべてこのピアノから生まれている」(平野昭「ベートーヴェン」音楽之友社・27頁)。
「アウグスブルグのJ.A.シュタイン製のピアノ」と平野昭はあっさり書く。火山も何気なく読み飛ばした。だが<アウグスブルグ>はモーツアルトの父レオポルトが生まれ育ったところ。そして<J.A.シュタイン>とは当時<一世風靡>したウィーン式アクションを創案したピアノ製作者ヨハン・アンドレアス・シュタイン(1728〜1792)のこと。
当時のアクションにはウィーンで支配的な<跳ね返り式>と、ロンドンやパリで盛んな<突き上げ式>があった。跳ね返り式はタッチが軽く、速いパッセージに素早く対応できた。一方、突き上げ式はダイナミックレンジが広く、特に低音が豊かで力強い響きを出せた。
ベートーヴェンに当時最高のピアノを贈ったヴァルトシュタイン伯。16年後の1804年に
「ピアノ・ソナタ」ハ長調<第21番・ヴァルトシュタイン>(作品53)の献呈を受ける。
面白いのはこの作品、ベートーヴェンが1803年にパリのエラール社のピアノを贈られ、それを使って作曲した新作。シュタインのアクションはウィーン式<跳ね返り>式だったが、エラールはパリ、ロンドンで普及していた<突き上げ>式。ハンマーの強打とダンパー・ペダルの弦の開放、ダイナミックな演奏が<新作ソナタ>の第三楽章に現われる。
つまり「ヴァルトシュタイン」はシュタインの<跳ね返り>式ピアノからエラールの<突き上げ>式に乗り換えたベートーヴェンの最初の作品かもしれないのだ。
もっと面白いのは、シュタインはモーツアルトが生涯、愛してやまなったピアノ。「作曲家とピアノ製作者の関係としては、バッハとジルバーマン、モーツアルトとシュタイン、ショパンとプレイエル等が知られている」(伊東信宏「ピアノはいつからピアノになったか」大阪大学・105頁)とある。モーツアルトが父レオポルトに書いた手紙も残っている。
「シュタインを見ていないうち、僕はシュペート(レーゲンスブルクの楽器製造者)が一番好きでした。でも今はシュタインの方がまさっていると言わざるをえません。レーゲンスブルク製よりも、共鳴の抑えが利くからです。強く叩くと、指をおこうと離そうと鳴らした瞬間に音は消えてしまいます。あの人のハンマーは鍵盤を叩くと、そのまま抑えていようと離そうと弦の上に弾ねかえり、瞬間に下がります。あの人は一台作り上げると、いろいろなパッサージュや走句や跳躍を験して、削ったり、さんざんやってピアノが何でもできるようになるまで止めないのです」(伊東・54頁)―――。
「あの人は自分の利益のためではなく、音楽のために働く」―――。モーツアルトは絶賛する。モーツアルトの時代にも、こうした発想があったのかと思うと何か、親しみが湧き、モーツアルトの肉声が聞こえるかのような錯覚を覚える。
シュタインを18歳から使ってきたベートーヴェン。「彼の演奏は軽いタッチによるニュアンスの豊かな演奏を基本としており、ウィーンのピアノの特性を生かした弱音重視の作曲手法を1802年(32歳)頃まで堅持していた。しかし、ベートーヴェンはウィーンのピアノに完全に満足していたわけではなく、むしろ、豊かなフォルテが出せないというウィーンのピアノの最大の欠点に、慢性的な欲求不満を抱いていたに違いない」(伊東・106頁)。
そのベートーヴェンが1803年、パリのエラールのピアノを寄贈された。ベートーヴェンはその音量の大きさに、最初、大喜びした。しかし、すぐエラールにはウィーンのピアノが持つ弱音域の微妙なニュアンスの表現力が欠けていることに気づく。音量不足は我慢できても繊細さの不足は致命的。悩んだあげく、ベートーヴェンはピアノソナタの作曲を中断したという。そしてウィーンに移住していたナネッテ・シュトライヒャー(1769〜1833)に改良を依頼する。運命は面白い。このナネッテはあの偉大なシュタインの愛娘なのだ。
アウグスブルクのシュタインの工房で知り合った二人。作曲家と楽器製作者の関係でピアノの歴史を変えていく。ナネッテとの協力はベートーヴェン16歳の時から56歳で世を去るまで40年間も続く。彼女の夫ヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーは詩人でピアニスト、ピアノ教師でもあった。しかもこのヨハン。<第九交響曲>の<歓喜の歌>を作詞したシラーとも親密。ベートーヴェンとシラーを結ぶ唯一の友人だったという。
(平成19年8月24日)
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お久しぶりです^^。ここ最近、ドビュッシーを弾いています。10月にお披露目する予定です。19世紀・20世紀に橋渡しする作曲家の所にいるせいか、ピアノの鍵盤よりも「ペダル(特にハーフペダルから、徐々に離す!とか踏み込む!)が難解・・・。弱音ニュアンスに少々てこずっています。 。。。「印象派 にごらずソノリテ響かせて 見えてくるはず 水・空・風」 なかなか、見えてきてません・・・。とほほです。
2007/8/29(水) 午前 0:56 [ manami ]
<まなみ>さん。コメント、有難うございます。
「ピアノの歴史」でベートーヴェンの時代にペダルが大きく進化、変化したことを知りました。
耳が遠いベートーヴェンが補聴器を付け、ピアノの音量を上げてもらいながら、次々と改良型が登場する新しい楽器の魅力を引き出そうとペダルで頑張ったエピソードは感動的です。
ドビュッシーの弱音ニュアンス!指摘されると当然ですが、やはりショパンが好きだった弱音域の美しいパリのプレイエルのようなフランスの楽器や音楽の歴史を感じます。
2007/8/29(水) 午前 6:06 [ kom*_19*7 ]