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「勝算のない戦い」―――五十六は阻止すべく必死になった。1921年(大正10年)のワシントン会議、1930年(昭和5年)のロンドン会議。軍縮協定に日本も調印した。国内から猛反発が起きた。五十六の悲劇の原点はここにある。
「軍の編成は天皇の大権に属する。軍縮条約は天皇の<統帥権><干犯>に当たる」という議論が出てきた。軍部を抑制しようという議論はすべて封じ込められていく。軍縮条約への不満から海軍の若手将校が起こした五・一五事件で議会政治にとどめが刺される。天皇機関説問題が発生、日本は立憲君主制の天皇制国家から現人神(あらひとがみ)が治める超国家主義的神政国家になる。クーデタ未遂の二・二六事件(1936年)の後は陸軍が国政をほしいままにする時代だ。
激動の中で山本五十六は何を考え、何をしていたか。工藤美代子「海燃ゆ」(講談社)を参考に語ってみたい。各種の資料、伝記を比較研究した素晴らしい良書だ。
「三国同盟」を急ぐ陸軍に五十六は昭和13年8月はっきりと反対を述べる。ドイツと手を結べば<米英>との戦争になる。海軍は「対米戦に勝算はない」。昭和14年夏、五十六は米内海軍大臣から意外な話を聞かされる。「有名な占い師だよ。その後、またやってきて、君の顔に死相が現れている。気をつけないといけないといった。妙な話だが、どうもその言葉が引っかかってね。まあ、しばらく安全な海上暮らしをするさ…」(282頁)。
米内は海軍大臣を辞す。次官の山本は留任を望んだが、連合艦隊司令長官となる。五十六を暗殺しようという動きがあった。五十六はそれでも留任を望んだのだが…。
第一次世界大戦後の恐慌は政府の救済で一応収まった。だが不況は続いた。日本資本主義はヨーロッパ諸国が復興してくると戦争中に拡大した市場を巻き返された。中国で排日運動が進んだことも日本商品の市場を狭くした。
第一次世界大戦は終わっても米・英・日を中心とする建艦競争は続いた。アメリカは1916年から世界最大の海軍国であるイギリスに反発、世界最強の海軍を建設する計画を立てた。日本も艦齢8年未満の戦艦と巡洋戦艦各8隻ずつを主力とする八八艦隊の計画を立てた。最大の海軍国イギリスも対抗して建艦競争に乗り出した。各国の大きな負担となった。
1921年、戦後恐慌が拡大すると国際協定による軍縮の声が各国から起こった。列強間の利害調整、特に太平洋・極東地域の戦後処理が焦点。
第一が「山東」問題。ヴェルサイユ条約の調印を中国は拒んだ。日本はドイツから譲渡された租借地を返還、代わりに山東省で利権を入手しようとした。
第二はシベリア出兵問題。アメリカなど各国はロシア革命への干渉を諦め撤兵したが、日本だけは駐兵。領土的野心を疑われた。アメリカは日本の要求は認めないと強硬だった。
第三は日英同盟。ロシアが仮想敵国。帝政ロシアが崩壊、存在理由は薄れた。アメリカは日米戦争が起こってもイギリスが日本を援助しない約束を1911年の改訂で得たが、疑念を残していた。日本は日英同盟を解消すれば国際的に孤立する。更新を熱望した。
1921年(大正11年)11月12日、ワシントン会議。アメリカ全権のヒューズ国務長官が第一回総会で劇的提案を行い、万雷の拍手を得る。「米国は建造中の巨艦15隻61万トンを率先廃棄する」と述べた。拍手のため演説は幾度も中断。「英・米・日の海軍比率を<10:10:6>とする」と提議した。翌日のアメリカの新聞は絶賛、外国特派員も拍手した。
第二回総会でイギリス全権のバルフォーア枢相が「世界最大の海軍国の地位を犠牲にしても英米均勢を受諾する」と述べ拍手を得る。日本全権の加藤友三郎海相は「主義では喜んで受諾、進んで軍縮を行う」と賛成。ただ「国防上7割」は必要と主張した。英米両国は固く結束、最後まで譲らなかった。
加藤友三郎全権は識見の高い人。「国防は軍人だけの問題ではない。軍備より国力が重要」と考え加藤寛治中将を抑え対英米<6割>で受諾。ただ太平洋地域の現状維持を獲得した。
ワシントン会議の結果、アメリカはイギリスと並ぶ世界第一の海軍国となった。東アジアの日本との帝国主義対立でも有利な解決を外交交渉で得た。日本は進路に枠をはめられ、日英同盟も終わった。
五十六がアメリカ留学から帰国したのは大正10年7月。石油と航空機に関する豊富な情報を得た。第一次世界大戦で列強の仲間入りを果たした日本。だが前途には<暗雲>が見えていた。
五十六は井出謙治大将とともに欧州各地に視察を命じられる。ワシントン会議後の情勢の視察…。井出大将の語った逸話がある。「種々の見学視察を行った後、五十六は必ずその日のうちに報告をきちんとまとめあげた」(「海燃ゆ」107頁)。五十六が訪れたのはイギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、イタリア、モナコ、アメリカ合衆国の7カ国だった。
「山本五十六」は連載。過去ログは同名の<書庫>にあります。(
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