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山本五十六は明治17年(1884年)4月4日、長岡市の玉蔵院町で生まれた。父・貞吉が<56>歳だったので五十六と名づけられた。父は小学校校長。戊辰戦争で河井継之助の下で戦い、長岡城と会津城の落城の生き残りでもあった。五十六は六男。
中学1年の時、一家の期待を集めた長男・力が肺病で死去。父は五十六の恩師に「よりによって跡取りを召されたので、ついグチが出る」とこぼし、五十六を見ながら言った。「これが代わってくれれば何のこともなかったろうに」…。恩師の渡部与は五十六が目から涙があふれ出そうになったのを目撃、ショックを受ける。
人一倍利発な少年だった五十六。「家というものはあれくらい真剣に考えないと立ちいかないのだと思います。海軍に入りたくてたまらなかった兄・力に代わって自分がきっと入って『二人分のご奉公をする』から安心してください」と、後に恩師に決意を披瀝した。
いくら勉強ができても、人柄が良くても、身体が丈夫でなければ何の意味もないと骨の髄まで思い知った五十六。中学時代「肉体改造」に挑んだ。早起きして人家のまばらな今朝白街道から長岡中学の校庭へ突進、一人で心行くまで鉄棒や木馬の練習。放課後も予習、復習を済ませると午後5時に中学に向かい、校庭で黙々と体操をした。
中学を卒業する頃には、どんな競技でも彼に勝つ同級生はいなくなった。ただ成績は一時首席から十数番へ落ちた。在学中は質素な生活、教科書のほとんどは自分で筆写、制服も5年間同じもので通した。成長して身長が伸びるとその分だけ布を継ぎ足して着た。
五十六は広島県の海軍兵学校を受験するつもり。入学試験は7月。準備期間は3ヶ月しかない。海軍兵学校は全国の秀才が集まるところ。よほど成績が良くないと合格できない。五十六は数学が特に優れていた。また文章を書かせれば理路整然、全校一と言われていた。
彼独特の緻密な計算による兵学校受験大作戦が始まった。勉強部屋は観光院町に住む既婚の姉に頼み込んだ。実家は人の出入りが激しく、じっくり勉強に取り組めない。
高橋家の2階に薪部屋があった。天井も障子もなく、ネズミとクモの巣だらけ。五十六は薪炭を片隅に積み上げ、むしろを敷き、古机を持ち込んだ。ランプを置いて用意完了。
竹の骨組みがむき出しになっている荒壁に張られた勉強の予定表を見て、姉・加寿が言った。「このとおり実行できたら、七、八分までは満点でしょう」。―――予定表では試験の20日前までに復習が全部終わる計画になっていた。
五十六は笑いながら「七、八分で満点などといっていては戦争に勝てない。百点が満点なら百二十点は取るくらいの準備をしなければ…」と答えた。姉は「おみさん、その自信があるだのう」と聞くと、五十六「自信は準備からつきます。きちんと計画を立ててやり抜きさえすれば、やれないことはこの世にはありません。やれないのは初めの計画が間違っているか、計画どおり実行しないかどちらかです」と答えた。凄い。
大人びた弟の言葉に姉は頼もしげに頷いた。それから毎日五十六は腰に大きな握り飯を4個ぶら下げて高橋家に通った。握り飯2個は昼食に食べ残りの2個は夕食。後はひたすら机に向かった。
長岡中学を6番で卒業した五十六が難関と言われる海軍兵学校に2番で入学した時は、貞吉や母・峯も驚いたが、同級生たちはもっと驚いたという。凄い。
五十六が海軍兵学校に入学したのは明治34年(2001年)12月16日。初めて教官との面接があった際、「お前の信念は何か」と問われて「痩せ我慢」と答えたという。割合よく知られたエピソードだというが、いかにも五十六らしい。
「五十六は簡単には自分の本心を見せない性格になっていた。いつも薄い皮膜を被せた感情を外界に発信する。それが海軍兵学校という未知の世界に足を踏み出した17歳の知恵だった」(41頁)。
連載「山本五十六」。工藤美代子「海燃ゆ」(新潮社)をベースに独自の調査、見解を加えました。今の時代を読むヒントも満載の決意。第一回も載っています。
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人に秀でる人は努力もしますが、最初から心構えが違いますね。
2008/3/27(木) 午前 10:58 [ iwa*ima*u*a1949 ]
<健康>さん、ようこそ。<官僚支配>打破の志、心構えを持ちたいものです。
2008/3/27(木) 午後 0:38 [ kom*_19*7 ]