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昭和7年、「5・15事件で犬養毅首相が暗殺されたことによって内閣は瓦解したが、それは同時に政党内閣の終焉を意味するものだった」(大内力「ファシズムへの道」351頁)。
この前年の昭和6年9月18日、満州事変が起きた。中国兵の満鉄爆破が発端とされたが、実際は板垣征四郎、石原莞爾ら関東軍参謀の謀略だった。これが日華事変、太平洋戦争へと拡大、悲劇の<15年戦争>となる。
関東軍が暴走、事変は次々拡大した。列国の対日不信感は次第に強くなり、友好的だったイギリスも反日を強めた。国際連盟に加盟していなかったアメリカ代表を理事会にオブザーバーで加えることも<13対1>で可決。アメリカは対日強硬派。日本外交の敗北だ。
昭和8年(1933年)3月28日、新聞各紙に<国際連盟脱退>の見出しが躍った。「満州国を創建した日本への列国の非難は厳しく、ついに妥協点を見出せぬまま連盟脱退へ突き進んだ。『真に日本精神に基づく自主外交をなすべき時だ』と松岡洋右(外相)は言い切ったが、その実、この日を境として、日本は東洋の孤児の道を歩み始める」(「海燃ゆ」162頁)。この年10月3日、五十六は第一航空船隊司令官に補された。
昭和9年9月20日、五十六は海路シアトルへ向かう。第二次ロンドン軍縮会議の予備交渉。だが日本代表とはいえ自分の意見で会議の結論を決める権限はなかった。五十六は再三固辞したが、行かざるを得なかった。
五十六は英米との協調を目指す<条約派>だった。だが日本政府は「アメリカ、イギリスと対等の軍事力を持つべき」という<艦隊派>の勢力が強く、わざわざ英米が受け入れそうもない提案を行って<無条約状態>に持っていこうという雰囲気だった。
「かの有名なナイアガラの滝の見物はしなかった。ニューヨークではアスター・ホテルに滞在した。これは現在のウォルドルフ・アストリア・ホテルの前身である。後に日本を占領し、最高司令官となったダグラス・マッカーサー元帥が晩年にこのホテルのスイートを住居としたことでも知られる。当時から超一流のホテルだった」(「海燃ゆ」)。―――ここに火山も1997年7月、家内と一週間滞在。ブロードウェイで「オペラ座の怪人」を観た。
ロンドン会議ではイギリスは日本に好意的、アメリカは冷淡で非妥協的だった。アメリカは日本が望むなら無条約で一向に構わないという考え。イギリスは無条約ではアメリカの海軍力が強大になりすぎると恐れていた。
会議の外では五十六は英米の代表と打ち解けて交際した。アメリカのノーマン・デーヴィス代表は五十六の鋭い舌鋒にひそかに感心していたという。イギリスの新聞も「鋼鉄の笑い」と五十六を高く評価した。
アメリカが対日姿勢をさらに強硬にしていった場合、直接日本の脅威になる。既に敵と見なさなければならない状況とすら五十六は感じた。何とか活路を見出したい。軍縮条約を維持したいと頑張った。だが日本の反対勢力が強過ぎた。五十六の本当の敵は国内の強硬派の軍人たちだった。努力空しく会議は決裂、五十六は破れた。
帰国した五十六。強硬派は暖かく迎えなかった。逆だ。海軍兵学校の同期、海軍の至宝とまで言われた親友の堀悌吉は予備役に飛ばされていた。堀は五十六と同じ考え。実権を手に強硬派は機会があれば五十六をも現役から退けたいと狙っていた。
ロンドンから帰国した五十六、めっきり白髪が増えた。52歳。まだ引退を考える年齢ではない。堀の失脚は五十六を絶望させた。だが五十六を慰留・激励したのも堀悌吉だった。
昭和10年12月2日。五十六は海軍航空本部長に任命された。ようやく存分に腕を振るえるポストを得た。以前から「解軍航空育ての親」と目されていた五十六。「航空本部長ならば一生でも勤め上げたい」ともらしたという。
だが『「国防の主力は航空機である。海上の艦船はその補助である。日本海軍はこの信念で大革新せよ』という掛け声がほかならぬ海軍内部で反対に遭うのだ」(「海燃ゆ」205頁)。
戦艦「大和」「武蔵」の建造…。時代遅れの<大艦巨砲>主義が海軍を支配していた。
「昭和11年2月26日、とんでもない事件が勃発した。皇道派の一部の陸軍青年将校が下士官兵を引き連れてクーデターを起こしたのである。世にいう2・26事件だった。高橋是清蔵相、斉藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が襲撃されて死亡した。岡田啓介首相も死亡と伝えられたが、これは誤報だった。鈴木貫太郎侍従長も重傷を負った。雪の降りしきる帝都には戒厳令が布かれ、さまざまなデマや噂が流れた」(「海燃ゆ」208頁)。
「事件の直後、航空本部の五十六のところへ、かなりの人数の青年士官たちが『陸軍はこの大事を実行しました。われわれも黙っておられません』と言い寄ってきたという。しかし、五十六は珍しく大声を出して、彼らを追い返した。襲撃された侍従長の鈴木と首相の岡田、内大臣の斉藤実は、3人とも海軍の長老であった。特に鈴木貫太郎を五十六は尊敬しており、その鈴木を殺害するなどとは、もってのほかの行為だった」(「海燃ゆ」209頁)。
この鈴木貫太郎は終戦の<聖断>を仰ぐ、あの首相だ。
海軍の若手将校が起こした五・一五事件。議会政治はとどめを刺される。天皇機関説問題で立憲君主から現人神(あらひとがみ)が治める超国家主義的神政国家。二・二六事件の後は陸軍が国政をほしいままにする国家となる。(平成17年8月10日)
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火山さん、昭和八年は私の生まれ年、そんなに荒れた世の中とは
知らずにこの世に出たのが苦労の始まりのようです。
戦艦「大和」「武蔵」は陸軍二個師団の予算を浪費すると陸軍から
攻撃されたと書いてあったのを見たような気がします。
それにしても終戦直前には敵と戦うことなく沈められ何のために
建造されたのか私には不思議なことの一つです。
2008/4/3(木) 午後 5:21
日露戦争に勝って以来、日本の海軍は海軍の勝負は<艦隊決戦>にあると信じ込んでいました。艦隊の中心はもちろん<戦艦>。強い戦艦がすべて。これを<大艦巨砲>主義といいます。勝ちたい一心。それが大和・武蔵を作らせた。
「時代遅れだ」!山本五十六はこれからの海軍、いや戦争は航空機が中心と考えていた。航空機と空母を中心とした<機動>部隊。真珠湾攻撃もその発想が原点。主役の第一艦隊の司令長官を願っていた。でも中央は理解できない。五十六が<水雷屋>と嘆いていた南雲忠一を司令官に任命。この戦略・人事ミスが日本敗戦の原点になってしまいました。
2008/4/3(木) 午後 9:14 [ 火山 ]