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「これは西軍が勝ちましたな」。明治政府が「富国強兵」にやっきの頃、作戦指導に来日したプロシャの名戦略家モルトケは、関が原に布陣した東西両軍の配置を見て、即座にこう断言したという。
そうであって欲しかった。判官びいきというだけでなく、石田三成の純粋な生き方が好きな私は、今もそう思っています。死ぬと分っていながら、三成の友情に殉じた大谷吉継も大好き。優柔不断、最後まで動かず身内から裏切りまで出した毛利に代わって、敢然と戦った西軍副将の宇喜田秀家にも感謝感激。彼が残した岡山の名城にも何回も行きました。
「名作愚演」とは堺屋太一が小説「大いなる企て」で評した関が原の石田三成評。勝てるはずの戦略を描き、あわやと思わせるところまで来ていたのに大きな「抜け」があった。
天下盗りのために着々と布石を打ってきた徳川家康の「戦略」に敗れたのです。家康は内紛を抱えていた毛利一族を懐柔、大切な局面で小早川秀秋の「裏切り」を仕組んでいた。
武断派といわれる福島正則グループ(秀吉恩顧の武将たち)と文治派といわれる石田三成グループを離間・仲違いさせ、さらに秀吉の正室ねねを抱きこみ、武断派を完全に握った。淀君との「女の戦い」も存分に利用したことでしょう。
秀吉の盟友で豊臣家にとっては大事な後ろ盾の前田利家が世を去った好機も見逃さず、利家の妻(ねねの幼馴染といわれる)も江戸に人質にとって前田家を引き込んだ。
世の流れが大きく徳川に傾くのを見て、佐和山に閉じ込められていた三成がついに決起。五大老の一人、上杉景勝の家老、直江山城守と示し合わせ、家康を「会津討伐」に誘い出し、その留守に家康討伐の軍を起こすのが、三成の天下分け目の賭け。
関が原は大好きで司馬遼太郎を筆頭に様々な小説、歴史書もいろいろ読みました。でも
勝敗は戦う前に決していた。家康の手配り(戦略)の前には、いかなる「戦術」も無効だったのです。
大谷吉嗣は全部見通していた。だから忠告した。「止せ。死ぬぞ」。でも三成は立った。だから吉嗣は三成と死んだ。そう信じています。
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