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昭和15年1月16日、米内光政が総理大臣に任命された。昭和天皇の強い意向があったという。天皇は三国同盟に反対。阿部信行内閣が総辞職した時、後任には陸軍の畑俊六大将が有望視されていた。だが天皇は陸軍の独走を危惧した。五十六は米内の総理就任を複雑な気持ちで受け止めたと工藤美代子は「海燃ゆ」に書く。軍令部総長の伏見宮が辞任した場合、後任は米内と願っていた。米内が軍令部総長なら軽々に対米戦を始める心配はない。総理就任のため米内は現役を退いた。海軍の中には惜しむ声が多く、五十六も同じだった。だが米内が総理である限り三国同盟はない。期待があった。事実、在任中は凍結された。
昭和15年2月17日、海軍省の勅任参事官に送った五十六の手紙。「あんな同盟を作って有頂天になった連中がいざという時、自主的にどこまで頑張り得るか問題と存じ候」。五十六には三国同盟は<あんな同盟>だった。この予言も的中する。<いざという時>…日本は「無条件降伏」の時を誤った。<原爆>も<ソ連参戦>も本来回避できた。<沖縄決戦>も不要だった。全部、陸軍の<本土決戦>論の間違い。兵力も弾薬もないのに<空騒ぎ>。<自主的>判断はできなかった。だから<聖断>…。
陸軍の米内倒閣は露骨になった。畑俊六陸軍大臣が米内に辞表を提出。陸軍は後任の推薦を拒否した。<軍部大臣現役制>が復活されていたため、米内は陸軍大臣を自分では選べない。総辞職せざるを得なかった。こうして陸軍は日本を牛耳っていく。昭和15年7月22日、第二次近衛内閣の成立。2ヵ月後に三国同盟が成立。五十六は当局に意見書を提出していた。「日米戦争は世界の一大凶事にして帝国は聖戦数年の後更に強敵を新たに得ることは誠に国家の危機なり。日米両国相傷つきたる後にソ連または独国進出して世界制覇を画す場合、何国がよく之を防御し得るや」―――卓見だ。
近衛内閣の海軍大臣となった及川古志郎が9月に海軍首脳会議を開いた。三国同盟に賛成を求めるため。五十六は立ち上がり、及川に質問をした。「昨年8月まで私が次官を務めておった時の政府の物動計画は、その8割まで英米圏の資材で賄うことになっておりました。しかるに三国同盟の成立した今日では、英米よりの資材は必然的に入らぬ筈でありますが、不足を補うためどのような計画変更をやられたか」―――及川は質問に答えず、一同に賛成を求めただけ。五十六は連合艦隊司令長官だ。戦争が始まったら全責任を負って指揮しなければならない。
昭和15年9月の時点で「日米戦争の可能性について深く心を痛めている人物の一人に昭和天皇がいた」(「海燃ゆ」)。9月16日、参内した近衛首相に天皇は聞いた。「アメリカに対して、もう打つ手がないというならば致し方あるまい。しかしながら、万一アメリカと事を構える場合には海軍はどうだろうか。海軍大学の図上作戦ではいつも対米戦争は負けるのが常であると聞いたが、大丈夫であろうか」。天皇の心配は率直だ。日本が敗戦国となった時「近衛も自分と運命を共にしてくれるか」と尋ねたともある。近衛は「誠心誠意ご奉公…」と答えたが、敗戦を前に近衛は内閣を投げ出し、戦後には服毒自殺を遂げる。
昭和15年11月15日、五十六は大将に昇進した。9月27日にはドイツ、イタリアとの三国同盟が調印された。五十六と日本の運命は決まった。ヨーロッパをほぼ手中におさめたドイツが、イギリスを占領するのも間近と見られ、ドイツと手を結ぶのが有利と日本人の多くが計算していた。五十六は違う。アメリカが猛反発。日本は米英と戦う日が来ると思っていた。昭和15年12月10日、嶋田繁太郎(大将)に出した手紙に苛立ちが出ている。「日独伊同盟前後の事情その後の物動計画などを見るに現政府のやり方すべて前後不順なり。今更米国の経済圧迫に驚き憤慨困難するなど小学生が刹那主義にてうかうか行動するにも似たり」(「海燃ゆ」307頁)。―――至言だ。
「あの戦争は<自衛>の戦い。<侵略>戦争ではない」という議論が<横行>している。とんでもない詭弁。火山、怒りを禁じ得ない。
「こんなこと(経済圧迫)はとっくに前からわかっていたという五十六の筆致。こうした事態を招いたのは近衛首相の優柔不断…」(307頁)―――今日では衆目が一致。当時は指摘する人間は少なかった。しかし、五十六の近衛評が残っている。「近衛公がぜひ会いたいとの由なりしも再三辞退せしが余りしつこき故大臣の諒解を得て2時間ばかり面会せしが随分人を馬鹿にしたる口吻にて現役の大臣と次官とに不平を言はれたり(中略)。近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を地から離すことは危険千万にて誠に、陛下に対し奉り申訳なき…」(307頁)。日本の将来を鋭く見据えていた天皇と五十六。だが既に洋上にあった五十六は政治的には無力。せめて海軍大臣か次官であってくれたなら…。工藤美代子は書いている。
(平成17年8月14日)
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火山さん、開戦当時小学二年の私の記憶に残っているのは、戦争は
米国の経済圧迫でやむを得ず<自衛>のためにおきた戦いである、と
聞かされて仕方無しに日本は戦争に追い込まれたと信じていました。
近衛内閣の成立を見ると山本元帥が海軍大臣になったとしても
当時の陸軍に立ち向かうには限界があったと思います。
2008/4/8(火) 午前 8:18
最大の問題点は当時の軍部が<官僚化>していたこと。現場の痛みを知らない。理解しようとしない。試験の成績で将来の出世が決まる。<無謬>主義で一切の誤りを認めず、無責任を極めることが昇進の近道。己の利権を守り、大言壮語しているだけでよい。国民の運命など最初から問題ではない。
この<官僚体質>!今も変わっていません。国際政治学者、それもかなりの論客だった舛添要一が厚生官僚に操られ、社保庁の<番犬>になりさがっている。
弱い者の味方のはずの公明党出身・冬柴鉄三国交大臣が建設族、運輸族と同じセリフを言わされている。愚の骨頂を極めているのに、誰も忠告しない。本人も分っているはずなのに、無責任を極めて、道路建設に猪突猛進。
独仏の二倍、米国の三倍も道路密度が高い<道路王国>でまだ道路を作ろうというのです。勝てる見込みのないアジア太平洋戦争に国民を駆り立てるに等しい。
2008/4/8(火) 午前 8:48 [ kom*_19*7 ]