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この連載も明日が最終回。少し「裏話」も書かせてください。トップからある日、突然お呼びがかかったように書いてきました。でも多くの場合、事前に何かしらコネがあったのです。「経営戦略会議」のスタッフに抜擢された話も、まだ討ち死にしていなかった無線事業部の次長から電話があり、「一杯飲もう」と誘っていただいた裏がありました。
正面玄関に黒塗りの高級車が待っていました。助手席に乗ったら後部シートに副社長と次長。高級割烹で会食、話が弾んだ夜でした。その副社長が社長になったのです。
たびたび登場した<専務>。実は専務が大手から来た時、総合企画部の歓迎会で会い、学生運動で話が弾みました。専務も学生の頃、正義感に燃えていたのです。安保反対デモで意気投合、宴席で「国際学連の歌」(デモでよく歌う)を歌った専務とカラオケに行き、私は得意の「長崎は今日も雨だった」を熱唱、大拍手の中で専務も手を叩いていました。
もっともこの頃はまだ大手との関係がハッキリせず、専務も顧問という肩書き。その後、総合企画を追われた私は冷や飯が2年。後輩にも追い越され、落ちこぼれていたのを拾ってくれたのが「国際学連の歌」を歌った専務だったのです。
生協から人事に戻った当時(若い頃の話ですが)、社内報(社員向け雑誌)編集を担当していた私は、取材でトップに会う機会がよくありました。
昭和40年、銀行から来た社長はもの凄い教養があり、格調高い「就任挨拶」で全社に感銘を与えた方でした。昭和44年の正月、ご自宅で飲みながらインタビューする機会がありました。
部長と課長が同行しましたが、質問を私に押し付け、課長は録音係、部長は聞き役。飲むほどに気が大きくなった私は「家庭訪問」の取材が終わると、「雲の上の怖い人」ということを忘れ、学生運動の話を始めてしまいました。
社長は「私は共産主義では断じてないが社会主義だ」と言い出し、これまた意気投合。ヒルファーディングの「金融資本論」を読んだというだけだったのですが、話が弾み、社長は糖尿病の気があり、奥様がハラハラしていたのに二人で痛飲してしまいました。
でも翌日からが悲惨。消化不良で寝床に倒れたまま三日間、食事もできない。社長とは正月明けに原稿を見せる約束です。腹ばいになりながらただ必死、何とか完成させました。
何しろ「名文家」の社長です。どんな注文がつくか戦々恐々。でも「若い者が書いたものに注文はつけない」と一読でOK。安心した途端、会心作だったと思った私でした。
「異色人事とマーケティングの本をいただいた」社長も実は社内報で自宅を訪ねたご縁があり、「記事OK」の間柄でした。
裏話をもう一つ。人事部に戻り、全社の教育を預かるようになったある日、無線事業部長になったばかりのSさんが新任の挨拶にきました。昔の仲間です。「事業部が今日あるのは火山さんのお陰です。<戦略>のご指導には感謝しています。今も教わったとおりにやっています」。もちろんお世辞。でも追放された屈辱を体験しただけに何ほどかの「真実」はあると思いたくなる私でした。
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