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「その時歴史が動いた」は西郷隆盛。当時も全国の人気を一身に集めたカリスマ。彼の存在がなかったら「廃藩置県」も「徴兵制」も実現しなかったという。「恨みは西郷一人が引き受けもんそ」。この一言が大リストラを成就させた。昨年6月22日の夜。
サムライの中のサムライが決断。NHKも絶賛した。士族は40万、家族を入れて200万人。当時の人口は3000万人だから<15人に1人>が失業。特権階級の<既得権>を奪った。「廃藩置県」がなかったら<封建制>の清算はない。<近代国家>も誕生しない。<徴兵制>で士族だけ軍人という特権も崩壊。国民皆兵=四民平等が実現した。
酔った火山。テレビを見ながらメモをとった。でも翌朝、読めない。30年前に読んだ「日本の歴史」(中央公論・第20巻)を調べまとめた。著者の井上清は羽仁五郎の弟子。司馬遼太郎と対談があった。
司馬「西郷に対する評価が非常に重い。西郷びいきでいらっしゃいますか」。
井上「いや、ひいきじゃないですけれど西郷は非常な人気者でしょう。(中略)。前から西郷隆盛は歴史家の勝負どころという感じがしておった」。
王政復古のクウデターは慶応3年12月9日(1868年1月3日)に始まる。薩摩を主体に尾張、越前、安藝の兵が御所を制圧、会津、桑名の兵を追い出した。有名な<小御所会議>は15歳の明治天皇の親臨で開かれた。徳川慶喜の「納地辞官」(幕府の解散)が議題。
土佐藩の山内容堂が納得しない。「大政奉還の忠臣を外した密議。<陰険>だ」と怒鳴る。中山忠能(明治天皇の外祖父)と岩倉具視が動揺した。大久保一蔵(利通)が頑張るが、居並ぶ公卿・大名は日和見を決め込む。その時、警備隊長で外にいた西郷がいう。
「短刀一本あればすむ。岩倉公にも一蔵にも伝えてくれ」。聞いた岩倉が唸った。岩倉は山内容堂を切る覚悟を決める。天皇の御前でも構わない。この気迫が会議を決した。
新政府が発足、商工業と思想・教育の中央集権は進んだ。だが肝心の兵力集中が進まない。
明治2年6月21日から数日、政府内で兵制の大論争が起きた。大村益次郎と木戸孝允を先頭とする長州派は「農兵を親兵とする」徴兵制。大久保利通を先頭とする薩摩派は反対。薩・長・土3藩の<武士>を政府軍とするよう主張した。
この対立は当面の敵を誰と見るかにあった。木戸ら長州は不平士族を敵と見、民衆を味方にしようとした。木戸は実は薩摩を警戒していた。
大久保は薩摩の内情を熟知していた。今、士族の不満を募らせるのは避けるべき。憂慮すべきは百姓・町人の離反。士族を利用して鎮圧すべきと主張した。
論争は大久保派が勝利した。長州の大村益次郎はフランス式の兵制で全国統一すべく、士官養成を進めた。将来、政府に反抗する勢力は薩摩と見て軍事施設を京阪に集中した。
大村は薩摩を警戒した。士族を弱める政策を進める大村を各地の士族は憎む。襲撃され明治2年11月5日、大村は世を去る。
<世直し>一揆が全国に波及、不平士族の乱も広がった。一方、諸藩は財政的にも行き詰まる。西郷の弟・従道は引退していた兄・隆盛を薩摩に訪ね、政府の窮状を訴えた。明治3年末。涙を流した西郷。薩摩藩兵5000人を従え上京する。
翌4年6月25日、政府大改造。参議(閣僚)は全員辞任。長の木戸と薩の西郷と二人だけが新任。各省長官も大幅な異動。新政府は西郷が統率する薩・長・土3藩の御親兵8000人の武力で全国に睨みを効かせた。
明治4年7月9日から「廃藩置県」の密議。木戸と西郷、西郷と大久保。根深い対立があった。「このまま瓦解せんよりは大英断による瓦解を」(大久保日記)と決断。西郷が最も得意とするクウデターが電光石火で決まった。明治4年7月14日<廃藩置県の詔>―――。
翌7月15日の密議。前参議で司法大輔の佐々木高行の日記によると、大臣、納言、各省卿、大輔が集まって「諸藩が反抗したらどうするか」と声高く論ずるのを黙って聞いていた西郷。突如、声を張り上げた。「もし各藩で異議を唱えるならば、私が兵を率いて打ち潰します」。たちまち議論はやんだという。
明治5年11月28日、<全国徴兵の詔>―――「恨みは私が引き受けもんそ」。西郷の一言で決まった。今、小泉内閣は<公務員>リストラに取り組もうとしている。<非情>な決断が必要です。歴史に学びましょう。
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