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聖徳太子の事績を伝える法隆寺の史料は全部<偽物>と大山誠一教授。たとえば607年の完成とされる法隆寺の薬師像。その銘文に<天皇>と<東宮>の文字が刻まれている。この607年当時、厩戸王(聖徳太子)はまだ生きていた。34歳。
だが当時の日本には<天皇>の言葉も<皇太子>という制度も存在していなかった。薬師像の彫刻様式も銘文の文字も一世紀以上<後>のものという。つまり薬師像も銘文も偽物。少なくとも聖徳太子の時代とは一致しない。聖徳太子は<架空>の存在となる。
もう一つ聖徳太子を伝える「日本書記」(720年)。大化の改新の功臣・鎌足の子<不比等>が編纂させた。聖徳太子をスター扱い。「憲法17条」は聖徳太子が作ったとする。だがここにも疑問がある。「隋書」倭人伝は聖徳太子の時代を記録しているが、「日本の天皇は<天>を兄、<日=太陽>を弟とする。太陽が昇ると太陽に政治を任せる」とある。
だが日本の<天>は<天の原、振りさけ見れば…>と歌われる<大空>だ。天を<絶対神>とする中国の<概念>とは次元が異なる。つまり中国思想には<無知>だった。
当時の日本の為政者は<聖徳太子>に限らず、中国の儒教・仏教の思想に通じた「憲法17条」は作れない。仮に渡来人で卓越した人物が<代筆>したにせよ、日本の宮廷にはそれを受け入れる素地はなかった。だから「憲法17条」は聖徳太子が作ったものではない。
むしろ1世紀以上時代が下がった「日本書紀」で<捏造>された疑いが強い。だから聖徳太子の存在は疑わしい。それが大山説。
では<誰>が<何のため>に聖徳太子<伝説>を<捏造>したのか。大山教授はそれを鋭く<論証>する。古代史に限りないロマンを感じ、歴史書や黒岩重吾を読み漁った火山。今、大山説に強く共感している。少なくとも聖徳太子が実在したと信じる勇気はない。
聖徳太子の<誕生>―――それは古代<律令国家>成立過程の<権力闘争>が絡む。主役は藤原不比等。大化の改新で中大兄と鎌足が確立した天皇中心の<中央集権>体制の中で不比等は「大宝令」を制定、天皇を<象徴化>、宗教的存在に祭り上げた。そして政治の実権は有力貴族の合議体<太政官>に集中する形式を整え、実際は不比等が自由に<専制>を振るえる体制を確立した。
大化の改新(645年)の後、中大兄と鎌足の政権は唐・新羅の滅ぼされた百済の復興を狙い、挑戦に出兵する。だが白村江で大敗(663年)、唐との国交は断絶。中国の最新情報を欠いたまま<藤原京>(694年)を造営、「大宝令」(701年)を制定する。
だが不比等ら為政者の苦心にもかかわらず、白村江から<40年の空白>を経て派遣された遣唐使(704年)粟田真人が持ち帰った最新知識から見ると、藤原京も大宝令も、編纂中の「古事記」も不備が目立った。その時、さらに不比等の政権は大きな危機を迎える。
707年、不比等と持統の<希望の星>文武天皇が25歳の若さで世を去り、後継問題が浮上したのだ。<文武>は草壁の遺児<軽皇子>。持統の孫。
後継争い―――話は686年、天武の死にさかのぼる。天武には10人の男子がいた。皇位を継ぐ有力候補は次男<草壁>皇子と三男<大津>皇子。草壁は軟弱だったが、大津は才能豊か。だが草壁の母は皇后(後の持統)、大津の母は持統の姉だが、既に亡くなっていた。
大津には後ろ盾がない。草壁には策士の<不比等>が付いていた。大津は天武の死後、わずか23日で<謀反>の罪で死を賜る。
だが運命の皮肉。皇后(持統)と不比等が期待した草壁は689年、あっけなく亡くなる。草壁には7歳の軽皇子と二人の娘がいたが、当時、幼少の天皇は論外だった。有力候補は長男の高市皇子。長男だったが、母が地方豪族の娘であったため順位が下だった。
だが上位2人が亡くなってしまえば話は別。だが高市皇子が即位しては草壁に賭けてきた皇后(持統)と不比等は権力を手放すことになる。策士の不比等は巧妙な手を打った。幼少の軽皇子の成長を待つべく、祖母の皇后の即位を強行した。持統女帝の誕生だ。
前天皇の正妻(皇后)の即位は推古女帝など前例も少なくない。問題は有力者となっていた高市皇子の処遇。不比等らは彼に<太政大臣>という最高の地位を与えて<懐柔>した。
当時の太政大臣は有力な皇族が付くことになっており、天皇にもしものことがあれば即位も可能。皇太子に近い地位で高市にとっても悪い話ではなかった。
その後、軽皇子は順調に成長、696年、14歳となった。高市の存在は大きく、軽の立太子は困難と思われた。だが運命の皮肉、突然、高市が亡くなった。43歳。
太政大臣・高市の死を受け、持統女帝は後継者を決める会議を開いた。だが天武の皇子が7人も残っており、いずれも資格があったので会議はもめた。持統と不比等はもちろん軽皇子の立太子を画策していた。
キャスティング・ボートを握ったのが亡き太政大臣の長男<長屋王>だった。彼は7人の皇子たちよりも皇位に近い。彼なら7人を説得できる。女帝と不比等は根回しに接近、妥協が成立する。大山教授は「高市皇子も長屋王も<転んでもただでは起きない人物>だった」と。だがこの妥協は<大きな禍根>を残した。それが歴史を動かし、聖徳太子<伝説>にも大きな影響を与えるのだ。 (続く)
「聖徳太子」は連載。大山誠一「聖徳太子の<誕生>」(吉川弘文館)をベースに毎日、独自の見解を加えお届けします。今の時代に通じるヒントを提供する決意です。ぜひご愛読ください。
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