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「歴史を動かした持統女帝と不比等の<妥協>」とは前回の「聖徳太子は実在しない」。二人が妥協せざるを得なかった相手は故高市皇子(太政大臣)の長男・長屋王―――。不比等はどんな代償を払っても草壁の遺児・軽皇子を<皇太子>にしたかった。思いは<軽>の祖母・持統女帝も同じ。
不比等と持統が希望を託した草壁は25歳の若さで死に、残された<軽皇子>は7歳。天武の皇子は7人もいた。皆、皇位を継ぐ資格がある。皇嗣決定会議はもめた。収めるには皇位にもっとも近い長屋王を味方にするしかなかった。不比等が考えたのは<縁組>―――。
妥協が成立した。軽の立太子を長屋王が支持する。これに対し<不比等>は娘の長峨子を、<持統>は軽の妹の吉備皇女を長屋王の妻として差し出す。
軽皇子は697年に皇太子となり、すぐ即位した。文武天皇<15歳>だ。不比等の娘・宮子が後宮に入った。この結果、持統と不比等と長屋王の3者は固く結ばれることになった。
不比等から見ると文武天皇と長屋王は<娘婿>…。権力は安定する。一方、長屋王から見ると文武天皇とは母親が<実の姉妹>。もともと<従兄弟>。加えて吉備皇女を妻に迎え文武と<兄弟>になった。権力者<不比等>とは<親子>になった。血筋の<高貴>さで<文武天皇>を<陵駕>するといえる。<次代>を約束された凄い<地位>だ。
大山教授が長屋王を評して父・高市皇子同様<転んでもただでは起きない>人物と指摘したのは当然。火山も<歴史を動かす>ことになると、前回のタイトルで謳った。
不比等は697年(持統11年)文武が即位すると「大宝令」に着手、自らが望む<律令国家>を構築していく。大宝令で日本の古代国家の権力秩序は固まるが、「政治の実質を天皇から切り離し、有力貴族の合議体である太政官のもとに置いた。天皇は<太政官>管理下の中務省と宮内省の管轄となった」(大山誠一「聖徳太子の誕生」95頁)。
祭司担当の神祇官も新設され、権力から疎外された天皇の象徴化・宗教化が進んだ。
もちろん天皇は形式的には法を超えた絶対者の立場。だが軍事力と経済的基盤を持たない天皇。実際は無力。不比等は自らが縦横に政治権力を振るえる体制を整えた。前天皇が女性の持統、現天皇が一人前とはいえない文武だったことが幸いしたのだろう。わずか10年前まで天智・天武が君臨していた<天皇>の面影は消えてしまった。凄い。
次に不比等が考えたのが、自分が構築した<律令国家>の<正当化><権威>付けだった。
それが後に「古事記」として実を結ぶ。宗教的存在となった<天皇>の<神性>を強調するため、天上の神々の世界として<高天原>(たかまがはら)という概念が創造された。天上世界という発想は日本にはなかった。中国の道教や仏教にはそれに近い考えがあった。それをヒントとしたのだろうと大山教授。
<文武>即位の<詔>には明確に<高天原>の思想が見える。かねて用意していたのだ。「古事記」の論理は「高天原からの<天孫降臨>によって<神>としての天皇が定まり、神武東征と大和での即位によって<王権>が確立された」というもの。「その後、ヤマトタケルが国内のまつろわぬ人々を平定、神功皇后が新羅・百済を従えて、勢力圏を確定、その上で聖帝の仁徳、天真爛漫な雄略が活躍する」―――。<文学>としてのロマンはあるが、哲学的な<思想性>はなかった。
重要なのは―――不比等ら当時の為政者は統治技術としては中国の律令制を採用しながら主宰する<天皇>は中国の<専制権力>ではなく過去の英雄時代の<大王>の末裔。だから<神>として君臨するだけ。現実の<律令国家>の運営は不比等らの<太政官>に委ねるというもの。天命を受け、天子として<権力>を振るう中国<皇帝>と天地の差だ。
<大宝令>も<古事記>も<白村江の戦い>以降の国際的孤立による情報不足のハンデを背負っていた。まさにその時(704年)、最盛期を迎えた<唐>の最新情報を持って粟田真人ら<遣唐使>が帰国した。
粟田真人、山上憶良の見た華やかな<即天武皇>の長安―――。中国では儒教、仏教、道教の<宗教・思想>も、文学・芸能の<文化>も、その中心には<皇帝>がいた。
これに反し<大宝令><古事記>の描いた<天皇>はなんと古く影が薄いか。中国の<皇帝>とは比較すべくもない。古い<大王>だった。せっかく作った<天皇像>…。遣唐使が持ち帰った最新の中国思想の前で早くも<形骸化>が始まった。
持統女帝の時代に完成した壮大な藤原京(694年)も中国の遠い周代の「周礼」の知識で設計されたものだった。粟田らが現実の長安の姿を紹介すると、新しい<平城京>の造営が始まる。衝撃はそれほど強烈だった。
<聖徳太子>をスターとする<日本書記>も計画される。―――時代は大きく動き始める。
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