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大山誠一教授は「聖徳太子の<誕生>」(吉川弘文館)で「『日本書紀』で<聖徳太子>が誕生したことは間違いない。『日本書紀』編纂の実質的責任者は藤原不比等であった」(130頁)と書いている。
「先に不比等を評して『権力に執着し、それを法と制度と時には謀略を駆使して実現しようとした』と述べたが、それは政治家なら誰でも同じと言われるかも知れない。しかし、不比等が他の政治家と違うのは、与えられた条件の中で、可能なことをことごとく実現していったことであろう。これほど優秀な政治家はいなかった」と大山教授。
不比等は「大宝令」で天皇中心の<律令国家>(君・臣・民の秩序)を構築。「日本書紀」で「憲法17条」を聖徳太子が作ったと主張。「和を以て尊し」と臣下の<精神>を説いた。「日本書記」で<聖徳太子>を描き、推古<女帝>を補佐する<偉大>な<皇太子>と讃美した。聖徳太子を美化すれば<皇太子>制を徹底できる。皇太子<擁立>に苦労した不比等。<女帝>を利用した不比等。<法と制度と謀略>の不比等だから考え出した。
「不比等のたぐいまれな権謀術策をもってしても不可能なことがあった。擁立すべき天皇に恵まれなかったことである」(131頁)。
最初は側近として仕えた<草壁>皇子。ライバルの<大津>を謀略で死に追いやりながら、即位できず28歳で早世。中継ぎに<持統>女帝を擁立したが、取引で<高市>皇子を太政大臣にした。思い通りにはならない。
草壁の遺児<軽>皇子をようやく<文武>として即位させたが、25歳の若さで亡くなる。遺された<首>皇子の祖母を擁立(元明女帝)するが、長屋王がライバルとして台頭。皇位は長屋王の意向で<元正女帝>に移ってしまう。不比等は諦めず<首>を<皇太子>に擁立、次を狙う―――。
実権は長屋王側にある。<首>即位の悲願を実現するため不比等は考えた。決め手は<皇太子>という地位を確立、宮廷内に<徹底>することだ。皇太子は次の<皇位>を予定された存在。しかし、前例は<軽>=<文武>しかない。その文武も25歳で世を去った。
<首>はまだ7歳。皇位につけるには<皇太子>という地位の重要さを徹底せねばならない。「日本書紀」編纂にあたって不比等が重視したのが、このことだった。
ここで再確認する。「日本書記」は「聖徳太子は<皇太子>だった」と繰り返し<強調><美化>する。だが聖徳太子とされる厩戸王が生きた時代、日本には「大王が生存中に後継者を指名する」という<皇太子>制度は存在しなかったという事実だ。大王がなくなると血で血を洗う後継争いが起こったのはそのためだった。不比等が幼少の<軽><首>を擁して<高市皇子><長屋王>親子のライバルと宿命的<妥協>を強いられたのもそのためだ。
皇太子制は中国に由来するが、日本では持統3年(689年)の<飛鳥浄御原令>で定まり、最初の立太子(皇太子になること)は持統11年(697年)の軽皇子だった。
「『日本書紀』には初代の神武天皇の時代にさかのぼって、原則としてどの天皇にも皇太子がいたことになっているが、もちろん、中国の歴史書を真似て書き加えたものに過ぎず、歴史的じじつではない。
とすると、推古紀において聖徳太子が一貫して皇太子として描かれていることは大変奇妙なことになる。たとえば三宝(仏法僧)興隆の詔も、憲法17条も、皇太子という地位なればこそ意味があったのであり、これを単純に厩戸王という実名に置き換えればよいというものではない。結局、この論理を突き詰めていくと、皇太子という地位に即して聖徳太子が登場するなら、皇太子という地位そのものがなかったとしたら、聖徳太子もいなかった、ということにならないだろうか」(73頁)。
704年に帰国した粟田真人ら遣唐使の持ち帰った唐の最新情報は、当時の為政者には衝撃的だった。白村江の大敗(663年)以来の国際的孤立、それによる情報不足は「古事記」「大宝令」「藤原京」を一気に古くさせた。「古事記」に変わって「日本書記」の編纂は、この意味でも急務となったのである。
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