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不比等は古代史最大の政治家。巨大な権力を振るって「大宝令」を定め、天皇を象徴化、宗教的存在に祭り上げた。実権は自分が握った。しかし、不比等にも自分が操れる天皇の存在は必要だった。だから<個性と実力>のある長屋王を拒否、草壁の正妻を<元明>女帝として擁立した。
7人もいた天武の皇子、そして誰もが最適任と見ていた長屋王を退けるために<不改常典>なるものをでっち上げた。天智天皇が定めた<法典>、<永久不変>!誰もが<改められない>と押し通した。
だが不比等の辛いところは擁立した女帝が長屋王と極めて親しく(娘婿)、長屋王夫婦には<膳夫王>(かしわでおう)ら皇位を継ぐ資格のある孫たちもいたことだ。
不比等は<皇太子>の尊厳を<誇示>するため「日本書紀」に聖徳太子<伝説>を極度に美化・神聖化して詳細に記録した。中国風の<聖天子>が日本の<権威>のためにも必要だったのだ。
だが聖徳太子の<薨日>を巡る大きな<疑惑>が今日の研究で指摘されている。「日本書記」では推古29年(621年)2月5日とあるのに、法隆寺に保存されてきた釈迦像の銘と天寿国繍帳の銘には推古30年(622年)2月22日と記録されている。
聖徳太子が伝えられるような偉大な聖人であったとしたら、その死は国家的な大事件。それなのに国家が編纂した歴史書と氏寺が伝える説が異なる。もし法隆寺にこのような伝承が古くから存在していたら、「日本書紀」の編纂者は無視したことになる。聖徳太子と法隆寺の関係は当時から重要視されていたはず。「無視などありえない」と大山教授はいう。
だとすれば考えられる唯一の可能性は「日本書紀」が編纂された時、法隆寺系の史料は存在していなかった。「日本書記」が完成した養老4年(720年)以後に何者かによって造られたと考えるしかない。この謎の解明が今後の課題。そしてこれも不比等と長屋王の権力闘争と関係がある。
不比等は元明<女帝>を擁立した。長屋王に<皇位>を継がせるわけには行かなかったからだ。ついには天智天皇の権威を借り、<不改常典>を捏造してまで頑張った不比等。
だが不比等が切り札としてきた文武天皇は25歳で早世。彼の遺児<首>(おびと)は7歳。それでも草壁の遺児<軽>(後の文武)が7歳で、その成人を<持統>女帝を立てじっと待った不比等。今度も元明<女帝>を立ててまた<待つ>ことにした。凄い執念だ。
だが<持統>と<元明>はまったく違う条件があった。持統の場合は草壁しか子どもがいなかった。だが元明には娘が2人いて、その吉備内親王は長屋王の正妻だったのだ。しかも元明は長屋王の家族と家政を共にするほどの仲良し。皇太子になってもおかしくない男子<膳夫王>までいた。
元明女帝は文武の遺児<首>が<皇太子>となることを承知していたが、即位を望んではいなかった。長屋王も思いは同じだ。
文武が早世したために不比等と長屋王の関係は大きく変わってしまう。長屋王は文武の姉・吉備を妻としていたので文武と兄弟。文武の妻(皇后)は不比等の娘だった。文武が生きていれば不比等との関係は近く、固い関係になる。だが死んでしまえば話が変わる。実際、両者は<疎遠>になった。長屋王は<元明>即位の取引で<政略結婚>…不比等の娘も妻にしたが、政敵となれば何の支えにもならない。不比等は決定的に不利となった。
不比等は和銅7年(714年)6月、14歳となった首皇子の<元服><立太子>の儀式を行った。翌年の正月10日には皇太子が礼服で拝朝、瑞雲が現われたとして<大赦>も行われた。不比等が公然と皇太子への<譲位>を求めたのだ。
長屋王も負けてはいない。自分を<長屋親王>と呼ばせ、皇位継承の資格があるかのように振る舞ったり、吉備内親王(長屋王の正妻)の子どもたちを男女とも<皇孫>に加えた。
自分は<親王待遇>…。<膳夫王>ら子どもたちの<皇位継承資格>も確認された。
だが元明女帝は2人の権力争いの狭間(はざま)で神経をすり減らし、疲れきって、ついに<譲位>を決意する。相手は不比等の期待した<首>ではなく娘の氷高内親王。元正女帝の誕生だ。元明は譲位の<詔>で「この神器を皇太子に譲らむとすれども、年歯幼稚にして未だ深宮を離れず」と断言。不比等の願いを一蹴した。もちろん、すべてが<長屋王>の意向だった。不比等は初めて敗れた。
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